生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

白崎むかしばなし ~由良町大引~

  白崎の海辺は白い。それまで、くねくねとした狭い道を、手に汗しながらハンドルを切ってきたドライバーの眼に、氷山のような、真っ白な岩が飛び込んでくる。海面にそびえたつ白い巨岩。紺碧の海との、みごとなコントラスト。

 

 この、石灰岩でできた大きな岩は「立巌(たてご)」という。その昔、イソタケルノミコトが、由良の重山(かさねやま)に橘を植えたとき。おいしそうな実がなると、猿の群れがやってきて食べる。それにあきると、海岸で遊ぶカ二に実を投げつける。甲羅を割られたカ二は「ミコト様。あの悪い猿をこらしめて。」と泣きついた。ミコトがカ二の甲羅に「」という字を書くと、投げつけた実は全部はね返り、猿に命中する。


 たまりかねた猿は、この岩を盾に逃げ回ったとか。橘の実は、最近までたわわに実っていたという。

 

(メモ:重山へは中紀バスの白崎海岸行きで糸谷下車。磯釣りが楽しめる。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

立厳岩

 

  • この物語は、荊木淳己著「むかし紀の国物語(宇治書店 1977)」に、同名の「白崎むかしばなし」として掲載されている。これによれば、猿と蟹の物語に続いて、白崎の住人が竜王になったという話が語られている。

日高郡由良町の民話≫
白崎むかしばなし =伝承民話より=

 紀州は木の国、さまざまな伝説に取巻かれていますが、むかし紀の国へ始めて木の種をもってこられ、そして植付けされたのがスサノオノミコトの御子であるイソタケルノミコトソウツヒメノミコトであるといわれています。

 

 その遠い遠いむかしの物語です。この二人の御子たちは、あちこちを廻って木の種を植えつけられていましたが、由良の港に面したところにある重山(かさねやま)では、ビャクシン(柏槙)タチバナ(橘)の種を蒔かれました。やがて山の上の方には、ビャクシンが青々と茂り、そして麓の方にはタチバナの木がスクスクと育って、つぶらな実をつけるようになりました。

 イソタケルノミコトは、このビャクシンの木でシャクイタ(笏板)をつくり、日本中の神社に仕える神主に分け与えられました。シャクイタというのは、神主さんが祝詞をあげる時に、両手でもっている木で作った板のことです。

 

 ところでその頃、どこからともなく猿の大群が現われました。・・・というのは、おいしそうなタチバナの香りにひかれたもので、猿の大群はいっせいに木によじのぼると、ムシャムシャやりはじめます。腹が一杯になると、猿たちはタチバナの実をもぎっては海岸で遊んでいるをめがけて投げつけました。
 蟹たちが右往左往している間に、タチバナの実が命中して、甲羅が割れてしまったものも少くありません。蟹たちは泣きながら、イソタケルノミコトのところへやってくると
ミコトさまァ。どうかあの悪い猿たちをこらしめて下さい
とお願いしました。話を聞いたミコト
それは可哀想なことをしたな。よしよし。私がマジナイをしてあげよう・・・
そう云って持っていたシャクイタで、蟹の甲羅へ“”という字をお書きになりました。

 さあ、それからというものは、猿がタチバナの実を投げつけても、甲羅は割れるどころか、ピーンとはじきかえし、猿の方へハネかえってきて頭にゴツーンとぶつかってくる有様です。
 あまりの痛さに耐えかねて、猿たちは泣き出す始末で、とうとう逃げ出してゆきました。重山を越えて、蟹のいない白崎の岬まで逃げてきたんですって・・・。

 

 さてその白崎の岬は、まるで雪かと見まがうように真白に輝くところ。万葉の歌人たちによって歌に詠まれ、人々にも知られています。

 

 猿たちの物語があってずっと後のこと、大宝元年(701)と申しますから、今から千二百年あまり前のことです。この辺りの浜に、八重門(やえもん)吉乃(よしの)という兄妹が住んでいました。
 八重門は潮風に灼けた凜々しい青年で、海の静かな日には磯にもぐってアワビなどをとって、海人(あま)として生計をたてていたのです。
 ある日、ヒジキ島まで船を漕ぎだし、アワビをとっていますと、突然、見たこともない美しい娘が近よってきて
八重門さん。私はアシカ島にほど近い竜宮城に住む竜王の娘オハンと申します。まことにすみませんが、この手紙をアシカ島で待っている竜王の使いの者に渡していただけませぬか
と申します。
 余りの美しさにポーッとなっていた八重門は、我に帰ると早速承知して、アシカ島に向いました。アシカ島の磯に使者が待っていて、その手紙を受取ると
八重門どの。今日はぜひ竜宮城を御案内したい。どうか私についてきて下され
そう云って、ズンズン海の中へ入ってゆきました。
 海に入るのは八重門の方も本職です。その後へ続いて、どんどんもぐってゆきますと、やがて絵を見るような美しい竜宮城に着きました。びっくりしている八重門の前に、白いヒゲを生やした竜王が現われ、
実は私の娘が、そなたを是非ムコにほしいというのじゃ。無理な願いかも知れぬが、ぜひ承諾してほしい。そうして私の後を継いで竜王となり、この辺り一帯の海を治めてはくれぬか
といいます。
 先程のあの美しい娘が、さては竜王の娘であったのか・・・と八重門の胸は高鳴りました。しばらく考えた八重門は、竜王の頼みを受入れることに決心し、一旦家に戻ることにしましたが、竜王はお土産に金銀さんごをどっさりと持たせ、浜まで送らせました。

 

 家族たちが驚いたのは勿論です。八重門の話を聞いて反対したのですが、決心は変りません。
 あれこれ支度を整えて、いよいよ家を出る時になって八重門は、妹の吉乃にこんなことを云い残してゆきました。
この白崎は雪のような白さ。山や海は緑や青で何一つ暖かい色がない。そこでこの辺りの海の底に、黄色や赤の“さんご”を生やそうと思う。黄色の“さんご”がとれたら私を思い出しておくれ。そして赤の“さんご”がとれたら、私の妻の化身だと思っておくれ。それから吉乃はムコをとって、この家を継ぐように・・・。代々、男の子が生まれて海人を継げるようにするから・・・
 八重門の姿はもう二度と見ることはありませんでしたが、彼が約束した通り白崎の海には黄色や赤の“さんご”が生えるようになり、その家は代々、男の子が生まれたそうです。そして八重門オハンを妻として竜王となり、幸せに暮したということです。

 

 この話、実は余りの白崎の白さにあきてしまった村人の、黄色や赤色に対するあこがれが作り出したお話かも知れません。でも最近でこそめったに見かけなくなりましたが、確かに黄・赤の“さんご”はとれたそうですし、男の海人さんたちが今に残されています。そして八重門が悪者と戦ったと伝えられる立厳(たてご)が、遠い昔を物語るかのように、潮風の中にそそり立っています。

 

  • 類似の話が、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」にも収載されているが、ここでは衣奈(えな)、黒島、十九島(つるしま)という地名の由来譚になっている。

重山と衣奈美人
 由良港の側に(かさね)がある。昔、すさのおの命(みこと)いそたけるの命がこの山に来て、木の種子を蒔くと、やがて山の上にびゃくしん(柏槙)が生え、ふもとはたちばな(橘)の木で一面におおわれた。いそたけるの命はびゃくしんで笏板(しゃくいた)を造り、国中の神主に与えられた。

 

 たちばなの木に実のなるころ、どこかから猿の大群がやって来た。猿どもは意地悪で、ふもとの海岸に住んでいたかにに、たちばなの実を取っては投げつけた。この実に当たったかには甲が砕け、傷を負うていった。かにの主は、この猿どもをいましめて下さいと、いそたけるの命にお願いした。はかわいそうに思い、びゃくしんの笏でまじないのことば一文字を甲に書いてやった。それからは、猿がたちばなの実を投げつけてもはね返るばかりで、逆にはね返ってひどい目に会ったので、悲鳴をあげてかにのいない白崎の岬へ逃げていったのである。

 

 いそたけるの命の妹であるそうつ姫命は、重山から峰伝いに北へ木の種を蒔いていった。やがてふもとまでなだらかな山が緑の衣を着たようになったので、となだらかのと、取って衣奈(えな)と名づけた。は浜へ出ました。そこで黒姫鶴姫という美しい姉妹の海女に出会ったので木の種をお授けになった。
 黒姫北の島に渡って木の種を蒔くとうまべ(ウバメガシ 姥目樫)はかまかずら(袴葛)が生え茂った。は自分の名の頭文字をとってこの島に黒島と名づけた
 鶴姫南の島へ渡って木の種を蒔くと、鶴姫の年齢である19本の松が生えた。鶴姫はこの島に十九島と名づけ、つる島と呼んだ。それから後、島の頂上に松が4本だけ大きく生い茂ったということは、黒姫鶴姫それぞれが結婚したため二組のめおと松が生まれたということである。
 衣奈に今も美人が多く生まれるのは黒姫鶴姫の子孫だからであるという。

 

  • 白崎海岸は、およそ5キロメートルにわたって石灰岩の露出した海岸線が続く特異な景観を有しており、一帯が「白崎海岸県立自然公園」に指定されている。本文中にもある「立巌(たてご)」は海中に屹立する石灰石の巨岩で、ウミネコの繁殖地としても知られる。明治から昭和にかけてはセメントの原料としての石灰石の採掘が行われていたが、現在はその採掘場跡に白崎海洋公園が整備されている。ダイビングスポットとしても知られ、かつてはダイビングプールを備えた観光施設が整備されていたが、平成30年台風第21号(2018)により甚大な被害を被ったため一部施設を閉鎖し、現在は道の駅などの営業を行っている。
    由良町観光協会(公式ホームページ)

     

  • 和歌山県の「白崎海岸県立自然公園 指定書 令和2年3月27日」によれば、その指定理由として次のような説明が行われている。

 「白崎海岸県立自然公園」は、紀伊半島中部の紀伊水道に面した海岸線に位置し、由良町衣奈から白崎半島を経て由良港まで続く自然の岩礁帯とその後背地、並びに沿岸域に浮かぶ黒島等からなる公園で、その中心は、「日本の渚百選」にも選ばれている白崎海岸である。
 白崎海岸は、石灰石が露出した特異な岩礁であり、優れた地形地質(和歌山県レッドデータブック(2012年、以下「県RDB」という。)で貴重な地質に選定されている白崎石灰岩)景観を呈している。昭和30年代まではセメント原料として採掘が行われてきた歴史も持つ。
 自然植生として特筆すべきものとしては、県RDBで貴重な植物群落に選定されている黒島の暖地性植物群落(一部、県指定天然記念物「はかまかずら自生北限地」)や衣奈八幡神社スダジイ林が挙げられる。また、シマサルナシ(県RDB・絶滅危惧Ⅱ類)の分布北限域である。 
白崎海岸県立自然公園 | 和歌山県

 

日本書紀 卷第一 第八段 一書第四
初、五十猛神、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。
日本書紀 巻第一 神代上


初めに、五十猛神(いたけるのみこと)、天降(あまくだ)った時、多くの樹木の種を將(も)ちて下る。
(しか)るに、韓(から)の地には植えず、盡(ことごと)く持ちて帰る。
遂に、筑紫(つくし)から始め、凡(すべ)大八洲(おおやしまのくに 日本)の内に蒔き植えて、青山と成らざるは莫(な)し。
所以(ゆえ)に、五十猛神有功之神(いさをしのかみ)と爲す。
即ち、紀伊(きいのくに)に坐します大神(おおかみ)、是(これ)也。
※読み下しは筆者

 

  • 上記で引用した荊木淳己中津芳太郎両氏の著書に現れる「ソウツヒメ」については不明。通説では五十猛神の妹神は、オオヤツヒメ(大屋都比賣神)ツマツヒメ(都麻都比賣神)の2柱とされており、ソウツヒメの名は無い。しかしながら、ツマツヒメの漢字表記は前述のほかにも「爪津姫」「抓津姫」「枛津姫」など多岐にわたっていることから、これを「ソウツヒメ」と読んだとも考えられる。大屋都比賣神都麻都比賣神五十猛神とともに国中を青山にするために木の種を蒔いたとされており、これら三柱の神を総称して「伊太祁曽三神」と呼ぶこともある。

 

 

  • 上述の荊木淳己氏の著作において竜王の使いが待っていたとされる「アシカ島」は、白崎海岸の西にある島岩礁。江戸時代には、ニホンアシカ(1991年の環境庁レッドデータブックにおいて「絶滅」と判定されている)が相当数生息していたとみられ、下記の個人ブログによれば、江戸時代中期に編纂された百科事典「和漢三才図会(「海鹿(あしか)」の項)」や江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会(白崎「海獺嶋(あしかじま)」の項)」などにその旨の記述があるとされる。
    あしか島 | 古典で読み解く紀州文化

 

  • 上述の中津芳太郎氏の著作において黒姫鶴姫にちなんで島名が付けられたとされる黒島十九島(つるしま)は、白崎海岸の北方にある衣奈漁港戸津井漁港の近くにある島。その特質について、和歌山県が作成した「白崎海岸県立自然公園 公園計画書 令和2年3月27日」には次のように記載されている。

(表3:第1種特別地域内訳表)
黒島 日高郡由良町大字衣奈の一部
衣奈漁港の北西に位置する。本島には、和歌山県レッドデータブック(2012年、以下「県RDB」という。)で貴重な植物群落に選定されている暖地性植物群落が見られる。また、ハカマカズラの自生北限地として県の天然記念物にも指定されている。生育する貴重な植物種としては、タイキンギクハチジョウイチゴキノクニスゲなどがあり、北限に近い植物が多く見られる。島しょ景観としても非常に優れている。これらのことから、現在の景観を極力保護することが必要な地域である。


(表5:第2種特別地域内訳表)
十九島(つるしま) 日高郡由良町大字小引の一部
戸津井地区の西側に位置する島である。植生は、当地域を代表するウバメガシトベラの自然林とタブノキヤブニッケイ二次林等で構成されている。島の周囲は岩礁部になっていて、良好な海岸景観を呈している地域である。これらのことから、各種行為との調整を図りつつ、良好な風致の維持を図ることが必要な地域である。

白崎海岸県立自然公園 | 和歌山県

  

  • 本文で記述されている猿と蟹の話は有名な民話「さるかに合戦」とよく似たものである。しかしながら、通常の「さるかに合戦」の物語には「蟹の持つおにぎりと猿の持つ柿の種の交換」「蟹の死亡と、蟹の子供たちによる仇討ち」「栗・臼・蜂・牛糞らによる加勢」などの要素があるが、白崎の物語にはこれらの要素が全く含まれていない。日本近世文学の研究者である小池藤五郎(1895 - 1982)氏は、「猿蟹合戰の變遷(幼兒の教育 37巻4号 1937)」において次のように述べており、「猿蟹合戦」の原型は室町時代に成立した猿と蟹の合戦物語であり、飯と種の交換や仇討ちの要素は後世に付加されたものであるとしている。そうであるとすれば、白崎に伝わるこの物語は、「さるかに合戦」と同じ原型を持ち、比較的早い時期に枝分かれした独自の物語であると理解することができるかもしれない。

 室町時代の小說に、魚類と精進物(しょうじんもの)の戦争を描いた「精進魚類物語(しょうじんぎょるいものがたり)御伽草子があり、鴉(からす)と鷺(さぎ)の戦争を取扱った「鴉鷺(あろ)合戦物語」がある。其の作者は関白一條兼良(かねよし)と言われている。猿蟹合戦もこれ等と同樣に室町時代に成立した話らしく、其の始の形は、猿の眷族と蟹の眷族の戦争物であって、どちらが善く、どちらが悪いと言う様な道徳的に明瞭な区別はなかったらしい。事件の発端は柿の実をもぐ所にあったらしく、児童の最も喜ぶ柿の種と焼飯(筆者注:「やきいい」と読み、おにぎりに味噌などを塗って焼いたものを指す)の取りかえっこの場面は、後に付け加えたものかと思われる。結局猿の一族蟹に味方する者とで戦争したが、遂に和睦し、天下泰平になったと言う筋である。この話も古くなる程、「澤蟹(さわかに)はさみの介」とか「熊蜂(くまはち)さし右衛門」などと言う姓名が現れ、も「八兵衛」などと呼ばれる点など、それは全く「精進魚類物語」「鴉鷺合戦物語」などの作中に見える姓名の付け方と同一である。 
 この様な簡単な話が、長い年月に渡って人の口から口へと語り伝えられているうちに、弱い蟹には人の同情心が集り、猿のように単独にしてしまわず、児童の生活に割合に近い關係の、栗・玉子・蜂・蛇・包丁・きね・臼・あらめ・牛の糞等をそれぞれの場合に味方としているらしい。猿が蟹をだましたとか、弱い者をいじめたり、眼前の欲に迷ったと言う様な道徳的の意味、戦争から復讐へ、復讐から典型的な仇討へと、時代を経過するにつれて変遷して来たものらしい

 

 猿・蟹の争の原因に就いては、猿と蟹で餅搗をしたとか、共同して田を耕していたとか、地方によって色々と異った話を伝承している。猿蟹の焼飯と種の交換は、「古事記」の海幸彦(うみさちびこ)・山幸彦(やまさちびこ)に拠ったとする説や、南洋の島の或民族の持つ話に類似するなどを始めとして、其他に諸説があるが、多くは現在の猿蟹合戦の話が、昔から変化なく伝えられている事を前提として立論してい、従って其の根柢に誤謬が認められる。

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  • メモ欄中、中紀バス白崎線は平日は白崎西バス停までの運行。日・祝日のみ白崎海洋公園まで運行される。糸谷停留所は白崎西行でも利用可能。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。