生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

徳本上人 ~川辺町(現日高川町)千津川~

 「南無阿弥陀仏」の念仏一辺倒で、全国の庶民層から、絶大な支持を得たと伝えられる徳本上人。生誕地は日高町だが、若いころの6年間、厳しい修行を積んだのが、川辺町千津川落合の草庵だったといい、千津川にはいまも、上人をしのぶ話がいくつか残っている。

 
 寛政3年(1791)10月、上人は6年間の苦行を終え、落合谷を出ることになった。そこで「住みなれた宿縁のかたみに」と、自筆の六字の名号を納めた壷を埋め、その上に名号塔を建てた。その塔は、長岡や藤滝越の中腹など五力所に残っているが、以来、千津川では「名号塔のおかげで、伝染病にかかる者が少ない」という。

 

(メモ:御坊市の国道42号線から約五キロ。南海白浜急行バス川原河・福井行きで土生下車、徒歩約10分。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

尊光寺
徳本上人の威徳を敬仰して千津川に建立された寺:詳細は後述)

 

  • 徳本上人(とくほん しょうにん 1758 - 1818)は、江戸時代後期の浄土宗の僧。紀州日高郡(現在の日高町志賀)の出身。27歳のとき出家して現在の日高川町内で厳しい念仏修業を行った後、各地を巡って昼夜不断の念仏や苦行を行いながら、念仏を通じて民衆に浄土宗の教義を広める「念仏聖(ねんぶつひじり)(捨世派)」として知られるようになった。徳本によるわかりやすい説法と、鉦(かね)や木魚を激しく打ち鳴らす独特の念仏(徳本念仏)は全国で人気を博し、信仰は武家だけでなく庶民にも浸透した。文化11年(1814)からは江戸小石川伝通院、後に一行院に住し、庶民の教化につとめたが、特に大奥女中の中に帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織したが、その範囲は関東・北陸・近畿まで及び、「流行神(はやりがみ)」と称されるほどに熱狂的に支持されて、諸大名からも崇敬を受けた。
    参考:Wikipedia 「徳本」徳本 - Wikipedia

 

  • 和歌山県観光振興課が管理するWebサイト「わかやま歴史物語100」では、徳本の生誕地である日高町を中心に「参詣者が1日数万人? 偉大な念仏行者 徳本上人」をテーマとした観光モデルコースを紹介しているが、このサイトにおいて徳本上人を次のように紹介している。

 江戸時代中期、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えて日本全国を行脚し庶民を救済した念仏行者徳本(とくほん)上人。2歳にして姉の背で初めて念仏を唱えたといわれ、4歳の時、友人の死に無常を感じて仏教への傾倒を深くしました。27歳で御坊市往生寺で得度(とくど)を受けて僧となると想像を絶する荒修行を重ね、やがて念仏を唱えながら全国各地へ衆生救済のための行脚を開始。木食(もくじき 筆者注:火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)真冬の水行1日1合の豆や麦粉を口にするだけで、1日何万遍も念仏を唱えるという厳しい修行を行ったとされています。その姿は人びとの心を捉え、庶民はもちろん。皇族・公家・将軍家・諸大名まで多くの人々の崇敬を集めました。その人気は文化9年(1812)に、和歌山の総持寺で7日間の別行を営んだ際、参詣者2万人、阿波・淡路から200隻もの参詣船が集まったことからもうかがい知れます。

参詣者が1日数万人? 偉大な念仏行者 徳本上人 | わかやま歴史物語

 

  • 徳本上人は、27歳にして往生寺(現在の御坊市で得度を受けて出家した後、大瀧川月照寺(現在の日高川町山野)30日間の念仏修行を行い、さらに千津川落合谷(現在の日高川町千津川)6年間に及ぶ過酷な修行を行った。この様子について、「浄土 44巻法然上人鑽仰会 昭和53年6月)」において榎本性音(和歌山教区教化団長 和歌山県日高町西福寺住職 当時)は次のように書いている。

 母から出家を許されたのは天明4年6月27日、天にも上る喜びで、前に五重相伝を受けた御坊市財部(たから)往生寺大円和尚の門に入り得度を受け、長年の素願達成した。ここで今までの十助(筆者注:徳本上人の幼名)とも別れて徳本と改命された。いやいや坊さんになる人、止むなくならせられる人も居るが今、歓喜勇躍の中に出家しただけに坊さんとしての修行の覚悟は十分出来ている。1ヵ月の加行(けぎょう)ですら大儀であるのに、徳本さまは1ヵ月はおろか6ヵ年の大行を心に秘めている。しかもその行たるや決してなまやさしい行ではない。誰から強いられるのでもない。自ら悦び動める精進行である。
 師の大円和尚から先ず僧としての儀軌や和歌道を習い、天明5年の春は大滝川の月照寺大良上人の下、30日間念仏行道、夜は仏前礼拝、その間1日の食糧、表粉1合の苦行を達成した。
 続いて同村千津川(せんづがわ)の落合谷に来て見るに、ここも山累水明で人里離れた狭谷である。幸い土地の農業坂本林助妻源兵衛母等が草庵を造り上人の念仏行に援助してくれた。ここから本格的な練行に入るのであるが、朝は暁を破って谷を流るる小川で水垢離、礼拝、木魚を叩いて念仏勤行、身には木綿の腰巻を縄帯で止め麻の袈裟、食は麦粉又は豆粉を水でこね1合を1日の食とし、決して火を用いなかった。夜は横臥せず坐ったまま仮眠をとり、髪を刈らず、一刻を惜しんで念仏精進、顔を見れば毛ばかり伸びてその奥に眼球が光り、頭髪長く伸びた姿はまるで深山幽谷に住む仙人にも似ていた。厳冬にはひびあかぎれの亀裂から鮮血が流れても一千遍の礼拝は続けられた。この貴い称名念仏は寛政3年10月、徳本上人34歳迄6ヵ年の長さに及んだ。かくて満行の暁には仏の大智映発して大悟された
 浄土宗の教えは決してこんな難行苦行を教えていないのであるが、徳本上人の場合自ら進んでこの苦行を悦びの中に成し遂げたのであって、苦を苦と思わぬ喜びの中の練行であったのである。

 

  • 徳本上人が最初に修業を行った月照寺は江戸初期の創建とされる浄土宗寺院。同寺の近くにある「大滝川森林公園」内には上人が念仏修業の際にしばしば訪れて念仏を唱えたとされる「徳本初行洞窟(とくほん しょぎょう どうくつ)」がある。参考に合併前の川辺町教育委員会が設置した同寺の説明板の記述を引用する。

川辺町の文化財

山峰山 月照寺(がっしょうじ)
         日高郡川辺町大滝川
 江戸初期から浄土宗寺院として存在していた。近世の念仏行者徳本上人が、当町千津川落合谷で六ヵ年の荒行を修する一年前の天明5年(1785)春、当寺を中心に修業をした。附近には、いり麦一号を一日の食として三十日間昼夜称号念仏しながら行道した丸山及び、水行石初行の洞窟等の遺跡がある。
 本堂には、本尊阿弥陀如来・脇侍観音、勢至の両菩薩・徳本上人自作と伝えられる上人木立像が安置されている。
         川辺町教育委員会

 

  • 徳本上人が6年間にわたって過酷な修行を行ったとされる日高川町千津川には、現在、最勝山尊光寺(そんこうじ)が建立されている。同寺は「上人堂」とも呼ばれ、上人没後の天保6年(1835)に遺徳を敬った人々により建立されたもので、上人が水垢離を行った場所であると伝えられる。参考に合併前の川辺町教育委員会が設置した同寺の説明板の記述を引用する。

川辺町の文化財

最勝山 尊光寺(そんこうじ) (浄土宗)
         日高郡川辺町千津川

 近世の念仏行者 徳本上人厳行の跡に、その威徳を敬仰して建立された寺で、通称を上人堂という。昭和39年5月16日焼失、昭和42年11月に再建された。
 上人は天明6年(1786)2月、この地に草庵を結び、約6年間避穀断塩のうえ、落合川で水垢離をとり、五体投地高唱念仏の荒行を修した。上人ご大成の基礎は実にこの地のご修行にある。
 寺域は県指定の史跡で、上人ゆかりの書継名号石水行石が境内に安置されている。
          川辺町教育委員会

 

  • 本文にある「名号塔(みょうごうとう)」とは、字義としては「神仏の名前を刻んだ石塔」の総称であるが、通常は浄土宗・浄土真宗で用いられる六字の名号「南無阿弥陀佛」の文字を刻んだ石塔を指す。中でも徳本上人が建立した名号塔や石碑(名号石)には通称「徳本文字」と呼ばれる丸みを帯びた独特の文字が用いられており、特に「徳本上人名号塔(碑・石)」と呼ばれることが多い。下記の個人ブログによると、令和元年(2019)11月26日に長野市で開催された「第3回 念仏行者徳本上人研究会」の資料「日本各地の徳本名号塔(念仏行者徳本上人研究会)」によれば、全国にある名号塔は1641基で、都道府県別では長野県が最多の490基、2位が和歌山県の260基とされている。

    小林玲子の善光寺表参道日記:徳本上人名号塔、全国一は長野市(まだ増える可能性)

 

  • 尊光寺にある名号塔は通称「書き継ぎの名号石」と呼ばれる。その由来について、個人ブログ「徳本行者ゆかりの寺々」では次のように紹介している。

 寺内にある書継ぎの名号石にまつわる話は、徳本の霊験譚の代表的なものの一つ。概要は次のようである。

 村民は、病難を防ぐため、村の四隅に名号塔を置こうと、石を早藤村の河原でさがし求めたが、その中の一個がきずがあったのでそのままにしておいたところ、ある朝石屋の表にその石がおかれていた。石屋は近くの寺の法師に名号を書いてもらい、南無の二字を彫刻した。徳本は村人たちがきずがあるからとて捨てた石が、自分を慕ってとんできたことを聞いて、この石に十念を授け、残りの「阿弥陀仏」を書き継がれたということだ。

浄土宗尊光寺 ~徳本大苦行の地~ - 徳本行者ゆかりの寺々

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。