生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

清井之上の話 ~美山村(現日高川町)上初湯川~

  深い山ヒダを流れ下る初湯川。その上流に近いあたりに、ひっそりとたたずむ上初湯川の集落。ふだんは、眠ったように静かなこの山里も、お盆の夜だけは、打って変わったにぎわいをみせる。源平時代の名残りを伝えるという「上初湯川踊り」(笙絃音頭)のレコードが鳴り響き、帰省した若者たちの踊りの輪が夜通し続く。

 

 その集落の一角に、平家の残党がかくれ住んだとかいう「清井之上(せいのうえ)という屋敷跡がある。そこには、杉谷大明神を祭る「宮の壇」と「寺の壇」を中心とした上垣内18戸の、奥地にしては珍しく大きな集落があったとか。


 「清井之上は奥山なれど、笛や太鼓の音がする」。いまに残るこの文句は、追手を警戒しながら田を開き、集落を形づくっていった落人たちの、苦難の道を物語る。

 

(メモ:屋敷跡へは上初湯川バス停から徒歩約1時問半。集落跡は「清井宇井村」(きよいういむら)といい「清井之上」も正式には「きよいのう」という。

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

県道上初湯川皆瀬線から清井之上を望む

 

  • 上記googleマップの画像付近に旧美山村教育委員会が設置した「瀬井宇井(せいうい)村屋敷跡」の説明板が設置されており、下記の記述がある。

瀬井宇井村屋敷跡(平家屋敷跡)
 川向い現在植林の中に幾段もの石垣がのこり昔の田地の跡をとどめ、傍の林の中に五輪様と呼ばれる五輪塔がお祭りされている。
 寿永年間、戦いに敗れた平家の残党は、西海から海伝い山伝いに逃れ、紀州の国に辿り着き、やがて秘境竜神を経て一族二、三十人の者が尾根づたいにこの清井之上にかくれ住んだ跡である。源氏の追手を警戒しながら田を開き、畑をふやし、集落を形づくっていった苦難の道を物語る所である。
   清井之上は奥山なれど
       笛や太鼓の 音がする
 やがて杉谷大明神を祭る宮の壇寺の壇を中心とした上垣内18戸、畑の迫中塚の迫をまとめた下垣内に18戸という奥地には珍しく大きな集落をつくり上げ、平維盛以下多くの貴人たちが豊かに暮らしたと言われている。
 その名残として上初湯川踊り(笙絃音頭)が生れた。天保年間の全国的大飢饉(筆者注:1833頃~1837頃とされる)に、住民殆んど全滅の悲劇となった。
    美山村教育委員会

 

  • この地の名称について、上記本文では「清井之上(せいのうえ、きよいのう)」、「清井宇井村(きよいういむら)」と記しているが、上記案内文ではこのほかに「瀬井宇井(せいうい)」との表記もある。また、後述する資料の中には、「瀬ノ上(せいのうえ)」との表記も見られる。「角川地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「宇井苔(金屋町)」の項には「山中離れた区域を意味する宇井」との解説があることから、「清井宇井村」あるいは「「瀬井宇井村」と記述される場合の「宇井」は、もともとはこの「山中離れた区域」を意味する一種の接尾語のようなものではないかと推測する。また、後述するように、江戸時代に実施された氏子狩り木地師に関する一種の登録制度)の記録には「せいのうい」「せのうい」との表記が見られることから、「清井」「瀬井」はそれぞれ「(せい)」という読みに漢字をあてたものと思われるので、いくつかの資料に見られる「きよい」という読みは後年になって成立したものであろう。
    こうしたことを総合的に考えると、当地はもともと「(「瀬」の意味であろうか?)」と呼ばれていた地域であり、それが当時としてもかなりの奥山に所在していたことから「『せ』の『宇井』」と呼ばれるようになり、やがて年月を経て「せのうい」、「せいのうい」、「せいのうえ」と変化し、それぞれの読みに相当する漢字があてられるようになっていったものではないだろうか。

 

  • 本文にある「上初湯川踊り(笙絃音頭)」については上記の看板でも触れられているが、詳細は不詳である。合併前の旧美山村が編纂した「美山村史」では、「盆踊り」の項に次のような記述があるものの、歌詞は掲載されていない。また、題名についても同書では「しょうがい踊」「しょうげん踊」の呼び名があるとし、漢字も「鐘絃」「障害」「将監」などの字を候補として掲げている。ちなみに、「(しょう)」は雅楽などで用いられる管楽器(笛)の一種を指し、「(げん)」は弦楽器(ここでは、下記「日高地方の民話」で語られる「三絃」のことか)を指すものと思われ、後にこの漢字があてられるようになったものであろう。

寒川盆踊(15、16、17日の三日間 寺で踊る)
吉川踊と上初湯川音頭
 中央の台にかすかに灯を点じ、提灯をたくさん吊っているが灯が入らない。男女老幼が手をつないで踊る。
△ハヤシ 二つ (吉川音頭
 ドッコサンデナーコラ、ヤレサノナーコラ
 アーヨーイコーイヨッピトオードレ
   (夜通し踊れという人もある)
△音頭取り交替のとき
“わたしの音頭はこれまででござる・・・あとは○○先生に”と唄いながらなかなかやめない。唄の文句の中に“朝露ほどに”という詞が出たら本当に音頭取りの交替になる。
上初湯川音頭
上初湯川から伝わったと思われる。踊りが少し早い。歌曲も吉川踊りと異るし、ハヤシも異なる。

(略)

しょうがい踊しょうげん踊ともいう)
上初湯川集落で昔踊った盆踊
△笛、太鼓、三味線を楽器として盆に踊る。大踊をした後踊った
昔、龍神方面から来た平家の落人(お屋敷八軒)を慰めるために踊り、あるいは落人が都を偲んで踊ったともいう。
※寒川に「上湯川踊り」というのがある。上初湯川から伝わったと言うが・・・。鐘、太鼓がない
※しょうがいは、鐘絃?障害?将監?

 

  • 中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」の「美山村」の項では、この地に移り住んだ平家の後裔とされる筒井健右衛門氏の語りを中心に「お屋敷」という題名で次のような話が収載されている。

お屋敷
 上初湯川(かみ うぶゆかわ)集落から8キロほどのぼったところ、初湯川の源のあたりに、「瀬ノ上(せいのうえ)」と呼ぶ所がある。今(昭和49年)から約50年前は大木の茂る原生林であったが、今は植林された杉、桧の若木が育ち、高野山へ通ずる車道も開通している。
 その林の間に水田跡神社寺院の名残りが苔むしているが、寺の門柱のすえ石の大きさから大きな建物だったことも想像される。この集落の遺跡が寿永3年(1184)壇ノ浦で亡んだ平家の落武者一族の隠れ住んだ所と伝えられている。また一説には、平重盛(筆者注:平清盛の嫡男)の子で三位中将維盛(これもり)が寿永3年、戦の非を悟って出陣せず一族30余人と隠れ住んだと伝え、それで「お屋敷」の地名が残ったという。
 盛んな時は上のお屋敷に18戸、下のお屋敷に18戸、合わせて36戸あり、鼓、三味線、笛の音が毎日絶えなかったという言い伝えを私は幼いころ父から聞いた。ところが年代不明であるが、2年、3年と農作物の不作が続いたため、食べ物もなくなり、餓死して全滅したという。破れた障子の棧につかまって幼い子供を抱きしめ「ギシギシ食いたい」「トコロ芋食いたい」と言いながら小判を食わえて死んだと言う哀れな話が残っている。
 余話ながら私の先祖筒井家と現在集落(筆者注:上初湯川地区の小字名)に住む杉谷家がかろうじて上初湯川集落に出てきて生き残ったといい、私の生まれた古いくずや(かや葺)の家に錆び刀なぎなたの刃先小旗などあって、兄弟でおもちゃにしようと持ち出して父に叱られたことがある。また古い長持の底に細長い頑丈な箱がしまわれていたが、父は先祖様の遺言だ、決して開けてはならぬ、と言って見せてくれなかった。昭和28年の水害(筆者注:一般的に「紀州大水害」「28(にっぱち)水害」「7.18水害」などと称される)すべて流失してしまった
 瀬ノ上に「はたのさこ」という処がある。広い平地で、そこに「五輪様」と呼ばれる五輪の石碑の墓がある。昔、夜になると五輪の下でかすかに人の語り合う声が聞えたという。多分地下水の音だろうが何か神秘めいている。(注:五輪の元の位置は現位置と異なる。元位置を知っているのは故杉谷弥太郎だが、彼は発掘を恐れて誰にも言わなかったので永久に不明である-加門大安談)
 また、この近くに柿の古木があって毎年実はなるが、種子なし柿なので不吉だとて正月の祝い柿にはしてはいけないといい、種なし柿とよばれている。(中略)
 瀬ノ上で平和を迎えた落武者一族は日夜笛や三絃(筆者注:さんげん 日本の三味線に似た中国の伝統楽器)して都の生活をしのんだというが、一説には、平維盛が平家再興の旗上げのために、時の天皇の血族に当たる幼い姫君を奉じ来たが、その姫君のさみしさを慰めるために笛、太鼓で日夜歌い踊ったと伝えている。その名残りとして、現在残る「しょうげん踊」がある。これは一名「阿弥陀」ともいい、子供のころ旧盆に阿弥陀堂で幾夜も踊った。堂は昭和9年9月の室戸台風でつぶれてしまった
 有田郡の上湯川に住む小松家平維盛の末孫といわれた(筆者注:詳細は後述)。私の家では祖父の代まで年二回(盆・正月)小松家へ行った。父の話では小松家に開けずの部屋があったという。また、平維盛護摩壇山上で、平家の旗上げを占う護摩(ごま)をたき、その煙が東へなびけば吉、西へなびけば凶となるとの占で、結局西へなびいたので旗上げを断念したと伝え、山の名もつけられたという(筆者注:詳細は後述)。
   みずち住む 渕を手尋の底に見て
     太刀の緒かため 行く山路かな
という歌が残っている。大蛇でも住んでいそうな青くよどんだ渕、岩に刻まれた小路を伝って通った古武士の緊張した面影が想像できる。
   上初湯川 筒井健右衛門「伝説のお屋敷」

 

 御屋敷は現初湯川小学校(筆者注:現在は「上初湯川ふれあいの家」となっている)から8キロばかりのぼった谷からさらに屈曲の山坂を500メートルほどのぼった処。下屋敷上屋敷とある。戦後した植林の中に、田畑の形に幾段にもなっていて、五輪塔四基(完全なのは一基)ある。上の段には寺や宮もあったそうで、寺の段宮の段という地名である。一時上下屋敷それぞれ18戸あったが天保の大飢饉で、筒井杉谷中塚3家族を残して死に絶えた。3家族は中庄(なかんじょう)集落に下りてきたから助かったらしい。そのうちの一家は寺関係の人で寺の諸具を持ってきたが、昭和28年の水害で流失、わに口だけが当時集落の観音堂へ貸していたから残ったという。(昭53・7・7記)

注 「瀬ノ上」は一書に「清井字井(きよいうい)村」とある

 

  • 合併前の旧美山村が編纂した「美山村史」では、「口頭伝承」の項で清井之上の話を含む平家の落人伝説について次のように記述しており、ここでは「木地師(下記文中では木地屋 諸国を移動しながら山中に入って椀や盆などの木工品を加工、製造する職業集団を指す)」が全国に落人伝説を伝播させていったのではないかとの見解を述べている。民俗学者柳田國男(やなぎた くにお 1875 - 1962)は、各地に残る平家の落人伝説は木地師が創作したものではないかとの考察を行っており、この村史の記述もその見解に沿っているものと思われるが、これについては次項「「清井之上」と木地師」において詳述しているのでこちらも参照されたい。
    平家の落人 - Wikipedia
    「清井之上」と木地師 - 生石高原の麓から 

 有田郡清水町上湯川の小松弥助家の系譜にまつわる平家の公達維盛伝説(筆者注:詳細は後述)は有名で誰知らぬ者はないが、美山村及び隣村の龍神村にも平家の落人伝説はかなりの数を残す。例えば、瀬ノ上(せいのうえ)清井之上(せいのうえ)などとさまざまに表記される「清井宇井(せいうい)村屋敷跡」の伝説もその一つである。現在、その地は杉檜の植林地と化しているが、その植林中に幾段かの石垣が残り、また、田地の跡をとどめていて、数基の五輪塔が立っている。寿永3年(1184)、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党が、逃れ逃れて、ついにたどりつき隠棲した地であるという。また、西海から逃れた平重盛の子、三位中将維盛が一族三十余人とともにおとずれ、源氏の追手を警戒しつつ田畑を開いてひそやかに住いしたところなりと言い伝える。「護摩壇山(ごまだんざん)」や「八斗蒔(はっとまき)」の名の由来にも維盛伝説がつきまとっている。「七人塚」や「石降」の話にも平家の落人とこれを追討せんがためにこの地に探索の足を踏み入れた源氏の武将とのかかわりが見出される。おそらくは、針売りが一寸法師の話を全国に運んだように、この平家の落人伝説もその話の分布と木地屋が椀創りをしながら木地の素材に応しい樹木を求めて歩き、あげくのはてに、そこに定着するにいたったのであろう、その足跡をたずねあてて行くならば、そこに両者の不思議な一致を見出すことが出来るのではなかろうかと思われ、平家の落人伝説を運んだ伝播者として木地屋を想定することが可能になって来るのではと思う。

 

  • 美山村史」ではまた「遺跡」の項で「清井之上屋敷」について次のように記述している。文末に「この史実の詳細については、「美山村史」上巻591ページを参照されたい」とあるが、これについては次項「「清井之上」と木地師」に掲載している。
    「清井之上」と木地師 - 生石高原の麓から

清井之上屋敷 所在 美山村上初湯川663番地

 平家落人屋敷跡と伝えられている瀬井之上は、八斗蒔峠の近くにあり、現在は山林となっている。屋敷跡は三段からなり、一番上が寺屋敷宮屋敷と呼ばれ五輪塔が三基残っている。木地屋集団が住んでいたと推定されるが、貞享4年(1687)木地屋衆の氏子狩り(筆者注:木地屋としての登録確認のようなもの。詳細は次項「「清井之上」と木地師」参照。)に、上初湯川せいのうい8人と出て、その後享保11年の氏子狩りに名が出ている。延享3年に遍照寺過去帳にそのころ、せのういの住民の死亡が記され、天保8年(1837)の大飢饉に木地屋の被害が大きく、山を降って上初湯川垣内に移住したと伝えられている。なおこの史実の詳細については、「美山村史」上巻591ページを参照されたい。

 

  • 美山村史」の記述にある「上湯川の小松弥助家にまつわる維盛伝説」とは、平家物語では熊野で入水したと伝えられる平維盛(たいらの これもり 平重盛の嫡男で、平清盛の嫡孫)が、実は生存していて現在の有田川町上湯川地区に隠れ住み、後に小松姓を名乗ったという伝承を指す(維盛の父にあたる平重盛は京都で六波羅小松第に居を構えていたことから「小松殿」「小松内大臣」と呼ばれており、小松姓はこれに由来するものか)。これについては、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記 巻之六十二」の「湯川村」の項に次のような記述がある。

旧家  地士 小松彌助

伝え言う
小松内大臣重盛公の嫡男
三位中将維盛卿の後なり
維盛卿 熊野にて入水と偽り
日高郡龍神村の奥杉谷山中に蟄居し
後 子孫当地に移り
此地一円に支配し
村民も其召仕の者の裔多しとぞ
代々小松彌助と言う
元和5年(1619)より廩米(りんまい 給与として支給される米)を賜り地士となる
今杉谷山に小松屋敷の跡並に小宮三社
其余古跡ありとぞ
※読みやすさを考慮して字体及びかな表記を現代のものにあらためた

 

  • 小松彌助家に伝わる平維盛の伝承について、佐谷眞木人氏は「義経千本桜』と『平家物語評判秘伝抄』(「藝文研究 95巻」 慶應義塾大学藝文学会  2008)」において次のように述べており、少なくとも元禄年間には広く知られていた話で、浄瑠璃や歌舞伎の演目として知られる「義経千本桜」にも影響を与えているとする。

(略)
一 平維盛生存説をめぐって
 問題の三人のうち、まず、平維盛生存説から検討していきたい。覚一本『平家物語巻十は、平維盛高野山で出家し、その後、熊野で入水自殺を遂げたと記している(「横笛」~「維盛出家」)維盛については、早く中世から生存説話が存在した。『源平盛衰記』巻四十は、「或説には」として、「那智の客僧等」が維盛を哀れんで那智の滝の奥の山中に庵室を作って隠し置き、その子孫が今も残っていると記している。
 また、『太平記』巻五「大塔宮熊野落事」では、大塔宮護良親王の熊野落ちを描く際に、十津川における戸野兵衛尉の言葉として、「平家ノ嫡孫維盛ト申ケル人モ、我等ガ先祖ヲ憑(タノミ)テ此所(十津川)ニ隠レ、遂ニ源氏ノ世ニ無慈(ツツガナク)ケルトコソ承候ヘ。」と記している。したがって、奈良県十津川村にも維盛伝承が存在したことが知られる。参考までに、寛政3年(1791)刊の『大和名所図会』巻六には、十津川荘五百瀬(いもがせ)(現、十津川村芋瀬)に「宝蔵寺」という、平維盛の建立と伝える寺があること、また、同所に維盛の墓があることを記している。これら『源平盛衰記』や『太平記』の記事により、室町期には既に、平維盛の生存説話が成立していたことがわかる。このように説話が熊野と十津川の二箇所に見えることについて、鈴木宗朔氏は、熊野の維盛伝説南北朝期に十津川まで伝来し、『太平記』がそれを取り入れたものと推定している。
 それでは、近世に入ると、この生存説話はどのように展開するのであろうか。鈴木氏の論考によれば、有田郡山保田庄上湯川村(現、清水町)小松氏が代々「小松弥助」を名乗り、維盛の子孫として認められていた。『紀伊風土記』によれば、元和5年(1619)に紀州藩主として着任した徳川頼宣が、小松弥助地侍として処遇している。
 また、文献上は元禄2年(1689)刊の『参考太平記』巻五に、維盛の子孫が紀州に現存し、「小松弥助」を名乗っているという記事が見える。したがって、この頃には、小松弥助の名は広く知られていたものと思われる。『義経千本桜』では、すし屋に匿われた維盛が「弥助」と名を改めている。作中では「いよいよ助くる」の意という説明がなされているが、この名は作者による創作ではなく、現存した「小松弥助」の名を参考にしたものであろう。また、鈴木氏は『明良洪範』続編巻八「小松維盛の後裔」の項に、維盛が熊野色川の土豪清水清左衛門に匿われ、その婿となったとする記事のあることを指摘している。これもまた、維盛がすし屋の弥左衛門に匿われて、娘のお里から思いを寄せられるという『義経千本桜』の筋に反映していよう。
慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA) - XooNIps

 

  • 「美山村史」の「口頭伝承」の項にある護摩壇山(ごまだんざん)」の名の由来とは、上記「日高地方の民話」でも触れられているように、平維盛がここで護摩を焚いて平家再興の占いを行った護摩(ごま)壇と呼ばれる祭壇を設けて護摩木と呼ばれる木の板を焚く)ことに由来するとの伝承を指す。なお、この由来については異説もあり、この山は古くから修験道の行場であり、護摩修行・法要の場として用いられてきたことからこの名が付けられたとも言われている。
    護摩壇山 - Wikipedia
  • 八斗蒔(はっとまき)」は、清井之上の南に位置する標高約1000メートル程度の高地である。八斗蒔峠とも呼ばれ、紅葉の名所としても知られるが、その名の由来については、ここに比較的なだらかな土地が広がっており、粟や稗(ひえ)を蒔けば八斗位は種蒔きが可能であるといわれたことに由来するとされる(斗は容量の単位で約18リットル。8斗は約144リットルとなる。そばの種144リットルは約80キログラム強に相当し、現在の基準に従えばこれは概ね2ヘクタールの畑に使用する程度の量と考えられる。)。ちなみに、これに関して上記「日高地方の民話」には、次のような話が収載されている。

「八斗蒔・太鼓打」の地名由来

  再度旗上げを心に誓った維盛以下平家の武士は、その時に備えて食糧の確保に懸命であった。そこの平地に、そば、あわ、ひえを蒔(ま)けば八斗ぐらいは可能であろうと 計画したところから、その語源が生まれたという。

 八斗蒔(はっとまき)から下った所に山がある。そこを上太子(こうだいし)という。その中のひとつに太鼓打(たいこうち)という所がある。昔、平家の落人たちは太鼓を打ってその数で、場所や時刻をみんなに知らせた。その時の太鼓を置いた場所だそうだ。

    「ふるさとの花」

  •  「七人塚」については、「日高地方の民話」に「七人渕と七人塚」という題名で次のような話が収載されている。ただし、ここには「七人渕」という名称は登場するが、「七人塚」については明記されていない

七人渕と七人塚

 鎌倉時代のはじめ、源頼朝から平家残党の討伐命令を 受けた二股(ふたまで)五郎石降(いしぶり)又左衛門和田義盛の部将が郎党七人を従えて小坂を越え、ようやく上初湯川の中塚にたどりついたが岩伝いの道は行き詰まっていた。

 見上げれば青紫の花房をつけた藤が一面に垂れて、えもいえぬ風情であった。さすが武骨な武士たちも汗を拭いもやらず茫然と見入るばかり。そこへ、この山路一帯に見張りを怠らず、この様子を注意深く伺っていた平家の伏兵数人が襲いかかった。七人の者は逃げる術なく討ちとられ、ここ橋戸垣内の湾洞(入江)に投げ込まれた。そこを七人渕といった。昭和28年の大水害前までは泥沼の渕だった。
 ところでお屋敷に住みついた落人たちも大飢饉の年に食べ物がなく、小判を食わえて餓死したという。
     「郷土の行事と伝説」 加門千鶴子の文

  • 日高地方の民話」には、椿山(つばやま)の「七人塚」にまつわる物語が掲載されているが、これは下記にあるように戦国時代頃にこの地を支配していた湯川直春にまつわる物語であり、平家の落人伝説とは異なる伝承である。ちなみに、湯川直春については別項「湯川直春の亡霊」を参照されたい。
    湯川直春の亡霊 ~日高町志賀~ - 生石高原の麓から

地蔵峠と七人塚
 椿山から串本へは通称、椿山峠がある。峠を上りつめた処に腰切(こしきり)地蔵が安置、しかも二重になって祀られている。昔から腰痛の人がここに詣りなおったという。

 地蔵のそばに塚がある。七人塚といわれている。戦国時代、湯川直春が山路(さんじ 龍神村鶴ヶ城応援の途中に、先に亀山落城の折、負傷していた無名の武士七人が、どうせ傷も癒えぬならと、ここにきて割腹、生涯を終わったという。

     「郷土の民話と伝説」

  • 石降」については、上初湯川ふれあいの家(旧上初湯川小学校)から県道上初湯川皆瀬線を約4キロメートルほど東進したあたりに次のような説明板が設置されており、平家討伐の命を受けてこの地を訪れた石降(いしぶり)又左衛門という武将が最期を遂げた場所と伝わっている。

石降(いしぶり)
 石降又左衛門が討死した所といわれる。
 弓の名人又左衛門は石ツブテにかけても他にひけをとらなかった。四、五十間(筆者注:約80~90メートル)先の鳥をただ一回の石ツブテでうち落したという程の名人であったという。
 平維盛討伐の駒を進め、ここまで上って来たが、秋の日は意外に暮れ易く、肌寒い風の中で急に空腹を覚えた又左衛門は、ふと陣中食を思い出し、清水を求めて谷川に近寄った。腰をかがめ今しも水を飲もうとした所をしのび寄った平家の残党の刃にあえない最期を遂げたのである。以来この地を石降と言うようになったという。

(注)陣中食とは自然薯の粉末、ニンニクの粉、干魚の粉、その他薬草を三年間酒に浸して取り出し、小さな丸薬のように丸め干したものをいう。

   美山村教育委員会

  • 石降の地名由来については、「日高地方の民話」にも次のような話が収載されている。

「二股・和田・石降」の地名由来
 上初湯川の中谷の丘を回わって行くと二股(ふたまで)がある。前記の二股五郎が討死の地といい、近くに墓もあるという。また、そこに黄金造りの太刀・鎧が埋められているが、これを掘れば一天にわかにかき雲り、大雷雨に見舞われ命がないと伝える。

 和田は上初湯川にある四、五戸の小集落で、和田義盛討死の地といい、義盛渕という渕も大水害前にはあった。墓もあるがこれは義盛の一族和田某の墓所であるかも。また、その縁故の者が義盛を偲んで供養塚をつくり地名を和田としたのであろう。

 昔からこの地の娘に器量よしが多く、関東の武士たちを引き止め、ここを開拓していったと言われている。
 石降(いしぶり)は前記石降又左衛門討死の地で、鉢から1.5キ ロメートルの地点にある。

 弓の名人で石つぶてにかけても他にひけをとらず、4、50間(8、90メートル)先の鳥を唯一回の石つぶてで落としたという。
 又左衛門はここまで来て急に空腹を覚え、陣中食(自然薯の粉末、ニンニク粉末、干魚の粉末、その他薬草を三年間酒に浸したものを干して丸薬のようにしたもの)を思い出し清水を求めて谷川に近寄り腰を屈めて水を飲もうとした所を忍び寄った平家の残党に斬られたという。
   「ふるさとの花」

 

  • 龍神村(現在の田辺市龍神村にも平維盛の伝説がある。龍神観光協会のWebサイトでは次のように紹介されており、護摩壇山での占いにより平家再興ならずと悟った維盛那智で入水し、これを知った家来の衛門嘉門、恋人のお万もまたそれぞれ滝に身を投げたと伝えられる。しかし、これには別の伝承もあり、維盛が入水したというのは偽りで、維盛は存命のまま村を立ち去るが、衛門と嘉門は平家再興の夢が立たれたことに絶望して滝に身を投げ、お万もまた維盛との別離を悲しんで滝に身を投げたとも伝えられる。

平維盛について
 1184年、平清盛の孫である平維盛(たいらの これもり)が、源平の屋島の合戦で逃げ延び、家来の衛門嘉門を連れ護摩壇山のふもと、小森谷渓谷に隠れ住んだ。さらに源氏の軍勢が迫り、維盛は平家の滅亡を知った。平家の行く末を護摩木で占った際に、煙は天に昇らず、谷に下り凶を表わした。維盛はこの結果に衛門と嘉門に別れを告げ、護摩壇山を降り那智の海に身を投げた

衛門嘉門の滝
 これを聞いた衛門と嘉門も渓谷に投身し維盛の後を追ったと言い伝えられている。現在も衛門の滝嘉門の滝という二つ並んだ滝がある。

お万ヶ淵・赤壺白壺
 維盛との叶わなかった恋に、お万も投身自殺を図る。維盛様なくしては化粧もいらぬとお粉を流した際に、川底が白く染まり「白壺」に、紅を溶かした場所は赤壺」といわれるようになり、今も染まったままである。お万の身を投げた淵も、お万が淵として残っている。

小森谷渓谷|龍神村を見よう!|龍神村の観光情報/社団法人龍神観光協会

 

 寿永3年(1184年)2月、維盛は一ノ谷の戦い前後、密かに陣中から逃亡する。これ以降は文献により諸説があり、正式な死亡日とその死因は不明である。
 『玉葉』の2月19日条によると、「伝聞、平氏帰住讃岐八島(中略)又維盛卿三十艘許相卒指南海去了云々」とあり30艘ばかりを率いて南海に向かったという。この時異母弟の忠房も同行していたという説もある。のちに高野山に入って出家し、熊野三山を参詣して3月末、船で那智の沖の山成島に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海(入水自殺)したとされる(『平家物語』)。
 維盛入水の噂は都にも届き、親交のあった建礼門院右京大夫はその死を悼む歌を詠んでいる。
 「春の花の 色によそへし おもかげの むなしき波の したにくちぬる
 「かなしくも かゝるうきめを み熊野の 浦わの波に 身しづめける
                 建礼門院右京大夫

 その一方、『源平盛衰記』に記された藤原長方の日記『禅中記』の異説によれば、維盛は入水ではなく熊野に参詣したのち都に上って後白河法皇に助命を乞い法皇頼朝と交渉し頼朝が維盛の関東下向を望んだため鎌倉へ下向する途中の相模国の湯下宿で病没したという。ただし『禅中記』のこの部分は現存していない。『吉記』の寿永3年(1184年)4月の条に、維盛の弟忠房が密かに関東へ下向し、許されて帰洛するという風聞が記されているが忠房は同記に翌年の12月に鎌倉に呼ばれた後に斬首されたと書かれており、矛盾するので前者の忠房は維盛の誤りとみることができる。寿永3年2月、一ノ谷の戦い前後に屋島を脱走して4月ごろ相模で病死したとも考えられている。
平維盛 - Wikipedia

五箇山富山県南砺市
 倶利伽羅峠の戦いで敗れた者の子孫という説、あるいは源義仲に敗れた平維盛の子孫が住みついたという説がある。この話をもとにしたのが「むぎや」である。

福井県福井市赤谷町(あかだにちょう)
 平維盛は父の所領であった越前国に落ち延び、山伏の修行場所であった赤谷に隠れ住んだという言い伝えが残っている。維盛は赤谷で約30年間生き、次第に血筋が増えて一つの村になったという。宮中の流れをくむという風習が現在も受け継がれている。

長野県伊那市長谷浦
 壇ノ浦の戦いに敗れた平維盛の子孫が住み着いたと言われている。維盛の父である平重盛が小松殿と呼ばれていたことから、小松姓を称した。壇ノ浦の「浦」が地名となった。

静岡県富士宮市上稲子(かみいなこ)
 紀州にて入水したという伝承が伝わり、同地には平維盛のものとされる墓が伝わる。現在のものは墓は天保11年(1840年)の再建。「上稲子の棚田」に墓が建っている。

三重県津市
 芸濃町河内に「平維盛の墓」、美杉町太郎生に「平六代君の墓」とされる日神石仏群五輪塔がある。

奈良県吉野郡野迫川村平(たいら)
 平維盛がその生涯を終えた場所とされ、平維盛塚の付近は「平維盛歴史の里」として整備されている。

奈良県吉野郡十津川村五百瀬
 山林中に平維盛の墓と伝えられる祠がある。

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町口色川
 平維盛屋島から逃亡し、紀伊国色川郷に隠れ住んだと伝わる。

岡山県久米郡久米南町全間(またま)
 平維盛が落ち延びて、その後裔が持安氏と称して幕藩体制で全間を治めた。全間から連続する大垪和にかけて山上の隠れ里のようになっており、平氏、貴族、関ヶ原で敗れた石田氏などさまざまな落人伝説が伝わる。

運天港(沖縄県国頭郡今帰仁村
 『おもろさうし』の「雨降るなかに大和の兵団が運天港に上陸した」とある記述は「平維盛が30艘ばかり率いて南海に向かった」という記録を基に平維盛一行のことだとされることがあり、いわゆる「南走平家」の祖として沖縄史では盛んに議論が行われている。

平家の落人 - Wikipedia

 

 
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。