生石高原の麓から

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出合いの渕の河童 ~龍神村(現田辺市)大熊~

  龍神は、村の95%強が山林という秘境。その奈良県境に近い、奥まったところに大熊の集落が散在する。「がたろう渕」・・・むかし、河童がいたという「出合いの渕」は、そんなところにある。

 

 その河童は、手に負えない悪さをした。怒った領主が退治に行くと「もう決して、悪いことはしません。罪滅ぼしに畑仕事を手伝います」という。真夏になって頭の皿が乾いてしまい、河童は、もうフラフラ。


 それをみた里人たち。「龍蔵寺に松の木がはえるまで、この地の人には一切、悪いことをしない」と約束させ、その約束ごとを石に刻んで龍蔵寺の庭に埋めた。人々がすっかり忘れたころ、二本のみごとな松が生えてきた。「河童は約束を守りよった」。人々が感心しだしたころ、河童のいたずらが復活したという。

 

(メモ:龍神バス大熊行き終点。龍蔵寺は地区の中央にある。高野龍神スカイラインにも近い。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

龍蔵寺付近 中央の日高川と古河谷の合流点あたりが「出合いの渕」か

 

  • この物語は、田辺市に合併する前の旧竜神村が編纂した「龍神村」の「伝説」の項に「河童石」という題名で詳細に記述されている。ここでは、河童を捕えたのは龍神大和守という領主であるとされており、河童の悪戯が復活したのは、龍蔵寺の住職が交代し、新しい住職が知らずに松の木を植えてしまったからであると伝える。

河童石

 「河童(かっぱ)」は、日本の妖怪の中で最もよく知られたものの一つに挙げられており、我が村では「ごうら」といっていた。かっぱは水陸両棲で、クチがとんがり、背中に甲羅を背負い、頭上にくぼみがあって少量の水を容れている。また、怪力の持ち主で、動物を川に引きずり込み血を吸うとか、水難者の腸(はらわた)を引き抜くとか、溺死者の肛門が開いているのはかっぱに取られたのだと伝えられている。またかっぱは頭の水がなくなると神通力を失い、人々に捕らえられてはわび証文を残したという説が各地に残っている。
 ここは、龍神村の奥地大隈(現在の大熊)在所である。十数戸の民家が山すそにしがみ付くようにして自然の風雪に耐えていた。在所の中央にある古刹龍蔵寺は、歴代龍神氏一族の菩提寺であると共に、古くから弘法大師との因縁も深く、住民のよりどころとされていた。在所の下の出合いの淵ごうら淵といって人々から恐れられていた。この淵は底なし淵とも呼ばれ、無気味な水紋がざわめいていた。
 今日はうららかな牛休みである。一人の百姓が出合の淵で牛を洗っていた。百姓自慢のコットイ牛(雄牛)は角の格好もよく、筋骨は隆々としていた。空は抜けるように青く、ホトトギスが鳴いていた。

 牛を存分に洗った百姓がきせるたばこに火を付けようとしたとき、一天にわかにかき曇り、山はざわめき、川は黒ずんだ。そのとき牛がほえた。ほえたというより悲痛なうなり声であった。見れば、ガタロウかっぱが鋭い牙をむき出し牛の尻にかみついていた。四つ足を踏ん張り必死にもがく牛をじりじりと引っぱり込んでゆく。空はますます暗くなり、突風が吹き荒れた。それは、あっという間の出来事であった。牛は淵の底に沈み鮮血がよどんでいた。
 この惨事を知った龍神領主大和守は「おのれかっぱの分際で百姓の宝をかすめるとはなんたることぞ、必ずや仇は討ってやるから安心するように」と百姓を慰めた。
 その翌日、大和守は愛馬を淵の岩につなぎ、かっぱの様子をうかがっていた。突如水煙が起こりかっぱが躍り出た。領主の剛刀はかっぱの皿を一撃に割らんとした。そのとき「皿を割られましたら河童には神通力も妖術もなくなってしまうのです。どうかお許しを・・・・・・」と平謝りである。
 領主かっぱを縛り、龍蔵寺に連れ込んで来た。ときの和尚は、かっぱに、とくとくと仏法を説き、悪業を論すと、かっぱは涙を浮かべながら、「和尚様、私は罪ほろぼしに畑仕事のお手伝いをさせて頂きます」という。

 

 その後、河童は一生懸命に畑仕事を手伝っていたが、真夏の太陽に皿の水が乾き、甲羅もひび割れ始めた。
 「もうこれで勘弁して下さい。今後一切悪いことはいたしません
 そうしたかっぱの涙を見た里人はさすがにかわいそうになり、「よし勘弁して川へ放してやろう。その代わり未来永遠に至るまで里人に危害を加えないと証文を書け」。これを聞いた河童は、
 「この寺の屋敷に小松がはえるまでは人々に手出しはしない。今後は諸人を水難から必ずお守りします
 と証文を書き、和尚はそれを石に刻み、地下に伏せ込んだ。
 その後何十年も経ち、龍蔵寺に新しい住職がやって来た。かっぱの由来を知らぬ住識が庭先に二本の松の木を植えた。ところがある夜、出合い淵へ釣りに出かけた里人が、しりねんどう(尻の穴)を抜かれて死んでいた
 寺に集まった人々は、松の木を見て驚き、「これは松の木を見たかっばが暴れたのじゃ」。その日、直ちに松の木を引き抜いて焼いてしまった。
 その後、二度とかっぱは現れなくなった。龍蔵寺の境内には、一切の松を植えることが厳禁されており、河童石は今に残り、「諸人水難厄除」として参拝する人も多い。かっぱと人間との約束、日高川は今日も清らかである。

 

  • 上記引用文にあらわれる「龍神領主大和守」という人物については不詳。ちなみに、和歌山県神社庁のWebサイトにある「皆瀬神社かいせじんじゃ 田辺市龍神村龍神」の解説文に殿垣内の八幡神社(明治の神社合祀により皆瀬神社に合祀)は治承年間(1177 - 1181)龍神大和守和賴が勧請したものと記録があり、この人物の可能性もあるが、龍蔵寺は応永31年(1424)に龍神氏第8代当主龍神和泉守菩提寺として建立したものとされており、龍神大和守和賴存命中には存在していない。8代当主和泉守以後に大和守を名乗った当主がいたのかもしれない。
    和歌山県神社庁-皆瀬神社 かいせじんじゃ-
    明珠山龍蔵寺(みょうじゅさん りゅうぞうじ)|龍ページ|龍神村の観光情報/社団法人龍神観光協会

     

     
  • 河童が書いたとされる証文については、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」に次のような話が収載されている。これによれば、住民を害しないのは「天に星が無くなり、河に真砂が消え、この寺の境内に小松が生える」までの間であると誓約したとされており、上記の話よりもより厳しい条件となっている。また、龍蔵寺では水難除けの護符を出していたとの話も語られている。

出合いの河童後日譚

 竜蔵寺和尚河童(があたろ)に「この後、天に星が無くなり、河に真砂が消え、この寺の境内に小松が生えるまで、この地の湯野々から上の人々には危害を加えません。そればかりか、今ここにありがたい仏の道を得た上は、人々が水難にあわないよう必ずお守りします」と、誓わせ、その誓文を竜蔵寺の手水鉢の下に石に刻んで埋めたという。今もその台石を河童石と呼び、寺へ詣でる人が手水を使う時、一杓をこの石にかけてやる。また、竜蔵寺は一名、河童の寺と言われ、「諸人水難厄除」の護符(おまもり)を出している。土地の人は川で水遊する子供にそれを持たしているという。
   龍神 龍神寿雄 大・2
   大熊 差本勘之助 明・31
注 『紀州日高民話伝説集』に出合の淵の河童の牛引話が出ている。

 

  • 日本児童文学者協会編「和歌山県の民話偕成社 1980)」にも同名の「出合いの淵のかっぱ」という物語が掲載されている。同書では、河童を捕えたのは領主ではなく百姓であるとされ、「龍蔵寺に松の木が生えるまで悪戯をしない」との誓いは河童が自発的に申し出たことになっている。

出合いの淵のかっぱ <伝説・日高郡

 とんど(ずいぶん)昔のことやけど、竜神の里(いまの日高郡竜神村 筆者注:現在は田辺市龍神村)の出合いの淵に、かっぱが住みついてたんやて。
 かっぱは、またの名を<ごうらい法師>とか<河太郎(がたろう)>とか言われてるんやけど、大きさはちょうど子どもぐらいで、ほいでまた人間によう似てるんやして。
 ちょびっと違うところは、背中に甲羅があるんと、口がとんがってるとこやろな。
 あ、そやそや。頭の上も違うな。頭がお皿のようにへっこんでて、そいで、いつも水を貯めてるんやして。
 この水が、かっぱの力のもとや。水がこぼれてしもたり、乾いてしもたら、もうあかん。たちまちぐんにゃりして、のびてしまうんや。
 そやさかい(だから)、なるたけ(なるべく)水のそばから離れんようにしてるんやして。
 この出合いの淵のかっぱも、なかなか悪さが好きで、夏なんぞに子どもが水浴びでもしてたら、深いとこへ引っ張り込もと(引っ張り込もうと)したり、馬や牛を洗ろたりしてると、しっぽにぶらさがって、おどかしたり(驚かせたり)するんやしょ。
 ある夏の日のことや。
 この近くのお百姓さんが、牛を連れて畑仕事に来てたんやしょ。
 ちょうどお昼になったんで、木の陰で、弁当を開いたんやと。牛は川原の方で、うまそうに草を食べてたんや。
 弁当を食べ終わって、お百姓さんは、ごろりんと横になると、涼しい川風に吹かれて、ぐっすりと眠ってしもたんよ。
 どれだけ経ったか知らんけど、突然、牛がモーッと大声で鳴いたんや。びっくりして目を覚ましたお百姓さんが、ようよう見てみると、牛のしっぽの先へ、あのかっぱのやつが、ぶら下がっているんやしょ。牛は、なんとか振り落とそとして、必死に暴れとるんや。
 お百姓さんは、そっと忍び寄ると、一、二の、三で、かっぱを捕まえたんやしょ。
 ほいで、ぐるぐる巻きに縛って、そこらの木へくくりつけたんやけど、かっぱのやつは、もう情けない声出して、
堪忍してくれよう。田んぼの草とりを手伝うからよう。
と、頼むんやして。
 そいで、お百姓さんは可哀想に思うて、縄を解いてやると、かっぱは、せえ(精)出して田の草とりを始めたんやて。
 そやけど、暑い夏のかんかん照りや。とうとう、かっぱの頭の皿の水が、乾いてしもたんや。そしたら、とたんにかっぱは、泣き声出して、
もうあかん、堪忍や。そのかわり、二度とてんご(いたずら)せえへんよって、堪忍してけえよ。
ていうんや。
ほんまか、うそとちゃうやろな。
お百姓さんが、念を押すと、
ほんまや、嘘言えへん。あそこの竜蔵寺(りゅうぞうじ)の境内に松の木がはえるまで、ぜったいにてんごせえへん。
と、約束したんやして。竜蔵寺の和尚はんは、きれい好きな人で、境内にはきれいな砂を敷きつめ、草一本はやしとらん。
あの竜蔵寺さんなら、境内に松の木がはえることないやろ。
 お百姓さんはそう思て、かっぱを許してやったんやしょ。このかっぱ、ちゃんと約束守って、それからは、てんごせえへんよになったんやして。
 ところが、何年か経ってまた、出合いの淵でかっぱが暴れ出したという噂が広まったんやとい。
 あのときのお百姓さんは、
かっぱのやつめ、もう、約束を忘れよって。
と、腹を立てたんやけど、ある日のことに、竜蔵寺へお参りして、あっと驚いたんや。
 いままで一本も松の木の生えてなかった境内に、三本も小さな松が植わってるんやしょ。
こりゃ、どうしたことや。
と、和尚はんを訪ねてみると、なんと、前の和尚はんと変わっとる。新しい和尚はんは、
うちの庭を見てると、あんまり寂しいんで、ちっと賑やかにしてやろとおもて(思って)、山からひいてきた松を植えてみたんじゃよ。
というんやしょ。
ははあん、竜蔵寺に松が生えた-それでもう、約束を破っても大丈夫やとおもて、かっぱのやつが暴れ始めたんやな。
 そう気がついたお百姓さんは、かくかくしかじかと、和尚はんに話したんやして。
ほらたいへんや。こんな松を植えて、かっぱに暴れられては、どむならんわ(困ったことだ)。さっそく、抜いてしまいましょ。
 和尚はんは、すぐに松の木を引き抜いてしもたんやて。
 それからは、かっぱの悪さも、ぴったり止んでしもたんやとい。
   <再話・荊木淳己 

 

  • 昭和5年(1930)に発行された那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会)」にも、「出合の河童」という題名で同様の物語が掲載されている。ここでは、龍蔵寺に松を植えたのは翔山という僧であるとする。

出合の河童龍神
 龍神村大熊出合の淵河童があった。或時此の里の湯の倉という所の田圃の中へを放して置いたところ河童が上って来て尻を拔こうとした。牛は驚いて河童を引ずりながら一生懸命大熊平という所まで逃げ出した村人が飛んで行って其の危急を救うという騒ぎ、結局河童は生捕られて或は打擲され域は田の草など取らされてこき使われた。辛抱しきれなくなった河童はとうとう「此の後 天に星が無くなり、河に真砂が消え、龍蔵寺に小松が生えるまで 此の地の 湯野々から上の人には危害を加えません」と誓約して放免された。其の誓文石碑に刻して龍蔵寺の手水鉢の下に埋めた。ところが幾年か経って後のこと 龍藏寺に翔山と言う僧が住して庭前に二本の小松を植えた。果然 湯野々の某二人ある時、此の川へ夜釣に行くとて出たまま行方不明になってしまった。これは龍蔵寺に松を植えたので河童が災したに違いないと 人々僧に談じて早速松を伐ったということだ。
※筆者注:読みやすさを考慮して適宜漢字・かなづかいを現代のものにあらためた。 

 

  • 河童」は、日本各地に伝わる妖怪だが、時折目撃談があらわれることもあり、実在の生物であると考える人々もいる。その形態や行動は多種多様に伝わっているが、Wikipediaでは概ね次のようにまとめられている。

河童
 河童(かっぱ)は、日本の妖怪伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。河太郎(かわたろう)とも言う。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なるが、芥川龍之介の1927年の小説『河童 どうか Kappa と発音して下さい。』によって知名度が上がり、代表的な呼び名となった。類縁にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿ともいう。天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる。

 

外見
 体格は子供のようで、全身は緑色または赤色頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、または死ぬとされる。口は短い嘴で、背中には亀のような甲羅が、手足には水掻きがあるとする場合が多く、肛門が3つあるとも言われる。体臭は生臭く、姿は猿やカワウソのようと表現されることもある。

 

行動
 川や沼の中に住む。ただし例外に地行浜現在、福岡ドームが建っている辺り)酒飲み河童は、海に住む。泳ぎが得意。
 河童にまつわる民話や伝承には、「悪戯好きだがひどい悪さはしない」とか「土木工事を手伝った」とか、「河童を助けた人間に魚を贈った」「薬の製法を教えた」といった友好、義理堅さを伝えるものも多く伝わる。一方で、水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、尻子玉/尻小玉(しりこだま)を抜いて殺したりするといった悪事を働く描写も多い。

 

起源
 河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では河伯信仰に連なる大陸からの渡来とされるが、東日本では安倍晴明式神役小角の護童子飛騨の匠左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。
河童 - Wikipedia

 
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。