生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

コイノボリを立てぬ里 ~南部町(現みなべ町)堺~

  は、戸数200戸ほどの静かな漁村。だが、この里では、昔から端午の節句がきても、コイノボリを立てないのがならわしだという。

 

 壇の浦で敗れた平家の落武者が、この堺の浦に流れついた。ところが、ある年の節句にコイノボリを立てたところ、源氏方に見つかってしまい、一族はみな殺し。堺の人々は深くあわれに思い、彼らの霊をなぐさめるために、その後はコイノボリを立てないことにしたという。


 また、秀吉紀州攻めで追われた亀山城主・湯川直春の一族は、のち堺浦に住みついたが、湯川一族であることをかくすために、家紋のあるコイノボリは立てなかったのだとも。
 底抜けに明るい里に伝わる、悲しい話だ。

 

(メモ:龍神バス南部発田辺行きで堺下車すぐ。堺は同町の漁船の主要基地。新鮮な魚も手にはいる。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

木陰にある石碑に「平家塚」の文字が見える

 

 当村には鯉のぼりを上げない風習がある。源平の合戦後、平家の落人が当村に逃げのびてひそかに暮らしをたてていたが、数年後鯉のぼりを上げたところ、それが源氏に発見され一人残らず殺されてしまった。彼らを慰めるために鯉のぼりを上げないようになったという。

 

  • また、みなべ町に合併する前の旧南部町が編纂した「南部町史」の「堺の民話伝説」の項にも次のような記述がある。これによれば、平家の落人が立てていたのは「鯉のぼり」ではなく、「吹流(ふきながし)」であったという。歴史的にみると「鯉のぼり」の風習が始まったのは江戸時代とされており(詳細は後述)、いわゆる源平合戦(史学的には「治承・寿永の乱」と呼ばれる)が行われていた12世紀後半にはこのような風習はなかった。しかし、戦場において敵・味方を識別するための旗(幟)は源平合戦で用いられたのが最初である(詳細は後述)と伝えられており、源平合戦直後であれば「白旗は源氏方」「赤旗平氏」という認識が武士集団の中に定着していた可能性は非常に高い。この伝承が事実を伝えたものであるかどうかは不明だが、こうした状況の中であえて赤色の吹き流しを掲げた集落があれば、「平家の残党がここにいる」ことを誇示するものとみなされることは当然であったと思われる。

鯉のぼりを出さぬ里
 は明治まで約30戸ばかり(現在では約230世帯)の静かな漁村であった。この里では昔から端午の節句がきても、鯉のぼりを立てぬ慣わしになっている。これについて次のような伝説がある。
 源平の昔のことである。壇の浦で敗れた平家の落武者が、小船に乗ってこの浦に流れついて住みついた。ある年の五月の節句平家の赤い吹流(ふきながし)を立てていたのが、残党狩りにきた源氏方の武士に見つかり、一族が皆殺しにされた。堺の人々は深く哀れに思い、彼等の霊をなぐさめるために、その後は吹流(後に鯉のぼり)を出さぬことにしたという。
 一説には羽柴氏南征のおり、湯川氏一族の一部が堺浦に住みつく者もあった。湯川氏一族であることをかくすために、家紋のあるのぼりを立てぬことにしたのが、今に伝えられているのだともいう。
   (「南部民話伝説集」)

 

  • 国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築しているWebサイト「レファレンス協同データベース」では、この伝承に関する資料調査依頼に対して、上記の「南部町史」を紹介するとともに、「みなべの民話伝説集(南部町教育委員会 1982)」の記述として次のような情報を紹介している。

「7 南龍さんと平家塚」の項には次の記述があります。
「この地は平家の残党が安穏な生活をしていたが、源氏残党狩りに見つかってしまい殺された人たちを葬ったところという話があり、埋められた国道の側に「平家塚」が建立された。毎年五月の節句には「平家祭り」が行われ、碑の前でねんごろな供養が行われている。」
和歌山県日高郡みなべ町堺では端午の節句にこいのぼりを揚げないそうだが、その理由が載っている資料を探し... | レファレンス協同データベース

 

  • 正力松太郎賞※1を平成21年(2009)に受賞した畑﨑龍定みなべ町堺 常福寺住職)は、この伝説を紙芝居にして地域の子どもたちに語り伝えるとともに、毎年4月に「平家まつり」を開催している。これについて、公益財団法人全国青少年教化協議会※2のWebサイトでは次のように紹介している。
    ※1 全国青少年教化協議会(※2参照)の設立を提唱した故・正力松太郎読売新聞社主にちなみ、仏教精神によって青少幼年の育成に尽力している個人・団体を表彰するために設けられた賞で、昭和52年から毎年表彰を行っている。
    ※2 仏教教団60余宗派と関連企業が協力し、青少年の豊かな生活と未来を願い1962年に結成(翌1963年設立認可)された公益財団法人。

鯉のぼりを上げない村
 4月の花まつりの時期には、子ども向けに「平家祭り」を開催するようにもなった。平家祭りとは、昔この地に隠れ住んでいた平家の落人たちの非業の死を悼み供養する行事である。畑崎さんはその伝説を紙芝居にして毎年子どもたちに語り伝えている。

 その手作りの台本の出だしは次のようなものだ。
若葉香る5月、南紀のあの町この村でも鯉のぼりが青い空に泳ぐようになります。ところが昔から五月の節句がきても鯉のぼりを上げない土地があります。それは紀伊半島の中央にある日高郡みなべ町の堺地区です。それには次のような伝説があるからです。

 今から800年余り前の昔のことです。その頃日本の国には平家と源氏という二つの勢力の強い武士の集団がありました。平家のしるしの旗は赤、源氏のしるしの旗は白でした・・・・・

 話の要旨はこうだ。
 源平の戦いに負けた平家の落人たちがこの地に移り住んだ。村人の中にすっかりとけ込んだある年の5月、もう追っ手も来ないだろうと安心した落人たちが、子どもたちのために平家のしるしの赤旗を浜辺の松林に立てた。すると沖合から陸を監視していた源氏の追っ手がこれを見つけ、村人たちの命乞いも聞かずに落人たちを皆殺しにしてしまった。以来、堺の人たちは落人の無念を忍び、節句のときに鯉のぼりを上げないのだという。

 常福寺では、鯉のぼりの代わりに平家のしるしである赤旗を上げている。なぜ花まつりの際に、平家祭りを一緒に行うようになったのだろうか。畑崎さんに聞いてみると、次のような答えが返ってきた。
花まつりはお釈迦さまの誕生を祝うもので、いのちを大切にすることを子どもたちに伝えるものです。平家祭りも目的は一緒なんですよ
 生と死というコントラストを浮き彫りにさせながら、畑崎さんはいのちの大切さ尊さを子どもたちに伝えようとしているようだ。
口演童話と紙芝居でこころを育む|全国青少年教化協議会

  

 

  • 鯉のぼり」の歴史について、岡崎信用金庫が平成29年(2017)に作成した「愛知県産業紹介誌 あいちの地場産業」の「工業[繊維製品]」の項では、次のように説明されている。

沿革
 端午の節句にこいのぼりを揚げる風習ができたのは江戸時代後期のこと。節句という行事が平安時代から行われていることを思えば、こいのぼりの歴史は長くない。
 かつて、武家には端午の節句が近づくと玄関先に幟や旗指物などを飾って、尚武を祝う慣わしがあった。それが江戸中期にもなると、町人が真似をするようになって、ある時、幟の竿頭につけていた招代(おぎしろ 小旗のようなもの)の形に変えた町人がいたという。形を鯉にしたのは、黄河上流にある「竜門の滝」を登りきった鯉は竜になるという中国の故事[登竜門]にちなんで、立身出世の願いをかけたからと云われている。その小さな鯉の招代が大型化して、空を泳ぐこいのぼりになったというのが通説である。
あいちの地場産業

 

  • 上記引用文に従えば現在のような鯉のぼりの起源は江戸時代であると考えられるが、その前身となる(のぼり)指物(はたさしもの)はもともと神事などで神の依代よりしろ 神霊が降臨する物)等として用いられていたもので、平安時代末期になると、武士が武運を祈るために用いられるようになり、やがて戦場において敵味方を識別するように用いられるようになった。その大きなきっかけとなったのが源平合戦で、平氏は赤を、源氏は白をそれぞれ旗印として用いたと言われている。刀剣・日本刀の専門サイト「刀剣ワールド」では、こうした「旗指物」の変遷について次のように解説している。

旗・指物とは
 「指物(はたさしもの)は、戦国時代以降の武士が、戦場において自らの存在や所属などを示すために身に着けていた旗のことです。
 旗が合戦で使用される以前には、衆人の注目を集め、威儀を正すためなど、主に朝廷や寺院での儀式、神社の祭礼などに用いられていたと言われています。
 また守護神を迎え、加護を祈るための「招代(おぎしろ)、「依代(よりしろ)にすることにも利用されていたように、平和的な使用が一般的でした。
 こうした旗の使用方法に変化が生じたのが、平安時代末期。以後、敵味方を区別するための陣具として、使われるようになります。当初、使われたのは、旗の上部のみに竿を通し、下部は固定しない旗。これらは「流れ旗」や「長旗」と呼ばれました(筆者注:南部町史にある「吹流」はこの形式に属する)
 のちに風の影響や、移動の際に絡まってしまうことを防ぐため、旗の横も竿に固定する形式の「幟旗(のぼりばた)が制作されるようになります。
 時代は進み、合戦での戦い方が騎馬武者の一騎打ちから、歩兵らによる集団戦へと変化するにつれて、瞬時に敵味方の区別を行なう必要性が高まりました。
 そこで考案されたのが指物。腰に差す「腰指(こしざし)もありましたが、戦国時代後半に、背中の受筒に差して使う形式が定着したとされています。また、戦国時代から江戸時代にかけて戦時に編成された部隊である「(そなえ)のひとつとして、「旗組」が組織されました。
 戦国時代において、ひとつの部隊を率いる武将が陣に据える旗は、主家を表す「大馬標(おおうまじるし)、「(まとい)を、幟旗の側に置きます。侍大将の側には「小馬標」を置くことで、備の位置や武威を内外に示しました。
 また旗は、兵の進退を指示する道具としても、利用されています。戦況などの状況を表す「旗色がいい(悪い)」や、自身の立場を明らかにする「旗幟(きし)を鮮明にする」と言う言葉は、旗指物の役割に由来しているのです。
【刀剣ワールド】旗・指物(さしもの)とは

  • 源平合戦において、源氏が白旗、平氏赤旗を用いた理由は定かでない。また、必ずしも源氏・平氏が明確に赤・白を使い分けていた訳ではないようである。これについて、歌舞伎などで音声解説を行っている株式会社イヤホンガイドのWebサイトにある「イヤホン解説余話」では、歌舞伎「実盛物語(さねもりものがたり)」に関連して次のような説明が行われている。

運動会も歌合戦も
 お芝居では笹竜胆(ささりんどう)の紋所がついた源氏の白旗が多くの人の手に渡り、前途危うい源氏一族を象徴します。その白旗に対し、このお芝居で源氏の胤(たね)を根絶やしにしようと躍起になる平家のシンボルは赤旗でした。
 紅白に別れて競う姿は、今も、運動会や大晦日の歌合戦に受け継がれていますね。

 

白は清浄、赤は太陽?
 さて「平家物語」などで広く知られるこの“源氏の白旗”、“平家の赤旗”の由来にはさまざまな説があります。「白」は神の清らかさを表し、源氏が八幡神を崇拝していたから「赤」は太陽の色で、平家が、天照大神(あまてらすおおみかみ)を先祖とする天皇家の流れであるとアピールしたかったから、などなど。

 

白石先生もお手上げ
 しかし実は、源平どちらも色の由来ははっきりしません。江戸時代の歴史家・政治家であった新井白石も「本朝軍器考(ほんちょうぐんきこう)」という書物で「源氏の部族がみな白旗というわけではない」、また「平氏赤旗のいわれが書かれたものを見たことがない」としています。『元禄忠臣蔵』で徳川綱豊卿に講義するほど博識な白石先生でさえ、その確証は得られなかったようです。

 

頼りは色
 源氏の「笹竜胆」平家の「揚羽蝶(あげはちょう)の紋は鎌倉、室町期を経て定まったそうですから、源平合戦の頃は旗に紋はなく、色を頼りに敵味方を見分けたのでしょう。
 余談ですが、日本で染料が使われたのは奈良時代からで、主に植物を原料としていたといいます。赤は茜(あかね)や蘇芳(すおう)、青は藍(あい)、黄色はウコンなどを使って染め、明治期に化学染料が入るまで、この用法は千年近く変わらなかったとか。
イヤホン解説余話

 

  • 平家の落人伝説とは別の伝承として紹介されている湯川直春については、別項「湯川直春の亡霊」で詳述している。
    湯川直春の亡霊 ~日高町志賀~ - 生石高原の麓から
  • 史実としては、羽柴秀吉紀州征伐に対して湯川直春が闘ったのは天正13年(1585)春のことで、その後、直春らは熊野の山中に退いて徹底抗戦したため、やがて湯川氏の本領を安堵する条件で和議が結ばれた(後に直春は羽柴秀長により謀殺されたとの説もあるが、湯川氏はその後も豊臣政権に仕えた)。これにより、湯川氏は正式に復権を認められていることから、その家紋をあえて隠す必要はなかったのではないか。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。