生石高原の麓から

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亀地蔵 ~印南町西ノ地~

  「どんな願いごとでも、一つだけやったら、必ず聞いてくれはる地蔵さん」。そんなお地蔵さんが、印南町西ノ地にある。「亀の地蔵」という。

 

 むかし、この地に源助という漁師がいた。ある年、原因不明の大病にかかり、医者もサジを投げたとき、体長1メートルもあろうかという大亀が枕元へきてささやいた。

 

わたしは以前、あなたに助けられたことがある。お礼に薬を教えよう」という。亀のいう通りに調合した薬で全快した源助さん、お礼に建てたのが、その地蔵さんだという。

 

 浦島太郎をもじった様なお話だが、漁師さんたちは、酔いが回るとこの亀の話になるという。そして漁に出る前には、きまってお地蔵さんに手を合わせるとも。「一つだけの願い」は時代が変っても生き続ける。

 

(メモ:国道42号線を南下すると、町の中心部・印南地区から約3キロ。お地蔵さんは元村西蓮寺の坂下にある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

「亀の地蔵さん」への路地

 

  • この物語については、昭和35年(1960)に南部町栄町在住の山本賢氏が個人で発行した「切目誌料」に「かめの地蔵さん」という題名で掲載されている。

かめの地蔵さん
 大字西之地 元村の西連寺の石のきだはし(階段)をおりて20メートル、右に曲がったところに地蔵さんがある。その地蔵さんを「かめの地蔵」と呼んでいる。それは、むかし、元村のある漁師かめを助けてやった。それから幾年かの歳月が過ぎ去った時、その漁師さんは重い重い病気になり苦しんでいた。すると前に助けた「かめ」がやって来て、病気の治療法を教えてどこかへいってしまった。漁師さんは半信半疑「かめ」に教えられた治療法を試みた。ところが不思議なことに、病気は一日一日よくなり数日後元通りの丈夫な体になった。漁師はこれはきっとあの「かめ」のお蔭であると思い、この御礼地蔵を建てまつった。これが「かめの地蔵さん」であるといわれる。
 現在では、以上の意味からか「かめの地蔵さん」は一つだけの願い事を聞いてくれると言うので、土地の人々はお参りを続けています。

 

  • 印南町には、別項で紹介する「足の宮さん」「イボ薬師」「こんにゃく地蔵」「腰神さん」をはじめとして、様々な社寺、祠、地蔵などにまつわる民間信仰が数多く残されている。こうしたことから、印南町では、「ふるさとお詣りコース」と題して民間信仰の地をめぐる観光ルートを提案しており、パンフレットも作成している。このパンフレットでは次のようなコースが紹介されている。

印南・稲原エリア
町内海岸部から御坊市に面した地域で、役場・かえる橋など印南町の中心部になっています。
・東光寺
・印定寺
・せきの地蔵さん
・山口観音
・瀧法寺
・白河の観音さん
・南谷の子授け地蔵さん
・南谷の腰切地蔵さん
・白蛇大明神・白玉大明神

 

切目・切目川エリア
海岸部から中山間にかけての地域で、切目神社やお詣り信仰の多い地域になっています。
・うまべの地蔵さん
・亀の地蔵さん
・切目崎の竜宮さん
・足の宮さん
・名杭の十一面観音さん
・名杭・足神さん
・すえの千手観音さん
・玉の権現・安産の神様
・乳の地蔵さん
・イボ薬師さん
・夜泣き地蔵さん
・こんにゃく地蔵さん
・歯痛の神さん
・夜泣き地蔵さん
秋葉山の火伏せ不動さん

 

真妻・切目川エリア
印南町の山間部です。切目川ダムや川又観音など緑を満喫できる癒しの地域です。
・歯の観音さん
・子授け地蔵さん
・室川の観音さん
・おつぼさん
・才の川の観音さん
・ほろし神さん
・腰神さん
・西神ノ川のお薬師さん
・上洞の足神さん
・川又の観音さん

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印南 ふるさとお参りコース パンフレット

※各項目の詳細については下記リンク先を参照されたい。
ふるさとお詣りコース | 印南町

 

  • 「亀の地蔵さん」と同じく印南町西ノ地にある切目(きりめ)神社は、かつて熊野詣が盛んに行われた時代に熊野古道沿いに設けられた休憩所・遙拝所である王子社のうち、特に格式が高い「五体王子」に位置づけられた「切目王子」があった場所として和歌山県の史跡に指定されている。その歴史について、和歌山県神社庁のWebサイトにある「切目神社」の項では次のように解説している。

 通称切目五体王子社という。
 社伝によれば、大和時代崇神天皇のころ当村太鼓屋敷(当地より北東3丁、現在は畑)に地神五代を創立し、社号も五体王子宮と称した。
 その後多くの星霜を経て、現在地に移転したと伝えられている。
 切目神社は、古来より飛鳥、奈良、平安時代と朝廷の熊野信仰の高まりにともない大きく歴史上にその名を留めている。
 切目という地名は『万葉集』(巻十二 3037番歌)「殺目山(筆者注:きりめやま) 行きかふ小道の 朝霞 ほのかにだにや 妹に逢はざらむ」にも残っており、その名を知ることができる。
 特に11世紀から13世紀の300年間は、天皇上皇の熊野行幸が最も多く、その中継遙拝所たる当社も、九十九王子の中の五体王子社として高い格式が与えられた。
 熊野詣途上にあった平清盛が、源義朝挙兵の報を受けて京に引き返したのも切目王子とされる。(筆者注:平治の乱の際の出来事を指す※)
 中世熊野詣では参詣の途上で歌会が催された例が参詣記に登場する。
後鳥羽上皇が切目王子で開いた歌会の記録(切目懐紙)の写しが当社には残っている。
切目懐紙歌会記録・後鳥羽上皇
秋の色は谷のこほりにとどめ おきて梢むなしき おちのやまもと(遠山落葉)
うら風に 波の奥まで雲消えて  今日見る月の 影のさびしさ(海辺晩望)
 中世以降も『平治物語』や『太平記(大塔宮熊野落事)等に熊野詣の途中に切目王子に参詣したとの記述が見られる。
 『紀伊風土記』によると境内摂社として大塔宮社が祀れたと記している。
天正13(1585)年、豊臣秀吉による紀州攻めの兵火で焼失したが、氏子等により再建された。
江戸時代に入り寛文2(1663)年、紀州藩徳川頼宣から御戸帳・絵馬などが寄進された。
なお頼信公御手植のナギの木も現存している。
貞享3(1686)年には社殿が再建されている。
現社殿の拝殿は、明治41(1908)年に再建されたものである。
平治の乱の際の平清盛の行動については、別項「夜泣き松」の後段において詳述している。
 
夜泣き松 ~湯浅町吉川~ - 生石高原の麓から

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。