いつの世でも、ホクロと違って、イボはなぜか嫌われる。まして、うら若い女性にとっては、昔もいまも悩みのタネ。ところがここに、頼めばイボを取ってくれる薬師さんがいる。
その昔。羽六の水野家に、おりょうという美しい娘がいた。ただ器量がよいだけでなく、立居振舞いや言葉つきも優しい。「あれほどの娘は減多にいない」と噂された評判の娘。ところが残念なことに、この娘の額に大きなイボがあった。娘とともに「何とか治す方法はないものか」と思い悩んでいた両親。ある夜ふけ、枕元で「わたしは上角の薬師だ。信心するなら娘を治してやる」という声を間いた。そこで朝夕信心を続けていると、いつの間にか娘の額のイボはとれてしまったという。
以来このお薬師さん、イボ薬師さんとして親しまれているが、「イボを取って下さい」といったのではダメ。なぜか「イボを取れ。取りなさい」と、強く命令しないと効き目がないそうな。
- 羽六(はろく)は切目川中流にある集落で、町立清流小学校などがある。「水野家」については不詳だが、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県(角川書店 1985)」の「地誌編 印南町」中「羽六の掘割」という項目で天保3年(1832)から6年(1835)にかけて実施された切目川の堀割開削と新田開発について触れられており、ここに「羽六村庄屋水野仙右衛門」の記述があるため、これに連なる家系であろうと考えられる。
- また、大正12年(1923)に発行された「日高郡誌(和歌山県日高郡役所)」の「文教誌」の項にある寺子屋の一覧表の中に「羽六村 水野記内」の名があり、これも水野氏の一党と思われる。
昔、羽六(はろく)の水野家におりょうという娘が居り、容姿が美しいだけでなく、立居振舞もやさしく、里には珍しい娘と噂されました。しかし悲しいことにこの娘の額に一つの疣(いぼ)があり、本人は勿論、両親はこれを悲しみ、日々思い悩んで居りました。ある夜半、両親の枕辺に威厳のある声で「我は上角(筆者注:うえつの 宮ノ前地区の字名)の薬師であるぞ、信心するならば娘の疣をなおしてやるぞ」と言われました。大喜びで朝夕信心を続けている中に不思議なことに、額の疣は美しくされ薬師さまの噂は津々浦々まで流れ、現在もお詣りが多い。
※尚お願いするとき「疣をとってください」と言ったら駄目で「疣をとれ、とりなさい」と願うそうです。
ふるさとお詣りコース | 印南町
- 印南町が編纂した「印南町史」の「民俗信仰と講」の項にも同様の話が収載されている。ここでは、いぼを拭いた紙を堂の格子戸に結びつけると良いとされており、「いぼを取れ」と命令口調で祈願するという話は語られていない。
いぼ薬師(宮ノ前上角)
昔、羽六の水野家に容姿端麗の娘がいたが、悲しいことにその娘の額に一つの「いぼ」があり、本人はもちろん、両親も何とか治す方法はないものかと日夜悩んでいた。ある夜半のこと、両親の枕辺で「我は上角の薬師である。信心するならば娘のいぼを治してやるぞ」と威厳のある声がした。それを聞いた両親は、朝な夕な信心を続けているうちに、不思議にも娘の「いぼ」は跡形もなく取れ、それ以来薬師様のうわさがいつともなく近郷に広まり、現在もそれが続いている。
「いぼ」を取って欲しい人は、いぼを紙でふいてその紙を堂の格子戸に結びつけて拝むとよいといわれる。
なお、この薬師像の製作年代が次のように刻書されている。
願主勘四良
元禄十六年(筆者注:1703)七月
熊野中湊自覚(じかく)作
(注)中湊は古座町
- また、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」では羽六の住人の話として次のような内容で収載されている。この話では、皮膚病にも効くので、鯰(なまず)の絵を奉納する人もいるという(鯰絵については後述)。
いぼ薬師
宮ノ前の字上角(うえつの)に薬師堂がある。いぼ薬師と言って参拝者が多い。創建不明だが嘉永4年(1851)に再建している。いぼを取ってほしい人は、それを紙で拭いて、その紙を堂の格子戸の格子に結んでおくとよいという。
昔、羽六の水野家にオリョウさんという器量よしの娘がいた。この娘に唯一つ残念なことは額の上にいぼが一つあることだった。両親も本人もこれが悩みの種であった。
ところがある夜のこと。両親の寝所へ上角の薬師如来が現れ、まことに妙なるお声で、「お前の娘のいぼはお前たちの信仰によって取ってやる」
と言うお告があった。そこで両親は21日間薬師堂に詣って祈願した。すると不思議や娘のいぼがコロリと取れたという。それからいぼ薬師の名が広まった。また堂内の壁に紙に色をぬったなまず魚の絵をはってるのは、故老に聞くと、皮ふ病にも効くので、なますはげなど皮ふ病の人が描いて来て壁にはって祈ると治るという。
羽六 谷口敏雄雄 明・45
- 上記引用文中にある「なますはげ」とは、「尋常性白斑(じんじょうせい はくはん)」と呼ばれる皮膚病を指すものと思われる。尋常性白斑とは、皮膚のメラニン色素をつくる機能が低下して肌の一部が白く色抜けしてしまう病気で、これが鯰の腹のまだら模様に似ているためか、別名「しろなまず」とも呼ばれる。現在のところ原因は不明で、外用薬、内服薬、紫外線照射、皮膚移植などの治療方法はあるものの、根治療法は確立されていない。
尋常性白斑 - Wikipedia - 神仏に鯰の絵を捧げて祈願する風習は各地にあり、特に江戸時代末期の安政年間に頻発した大地震(1854年安政東海地震(M8.4)・安政南海地震(M8.4)、1855年安政江戸地震(M7前後)など)を受けて、鯰が起こすとされた地震を抑えようとして全国的に流行したと言われる。下記リンク先にある西日本新聞の記事によると、文政4年(1821)に現在の福岡市の住民が地元の賀茂神社(ナマズに関する由来伝承を有する)に皮膚病平癒を祈願し、「成就したらナマズの絵馬をささげる」と誓ったことが確認されており、これが国内最古の鯰絵奉納に関する文書であると言われる。
- 上記「日高地方の民話」からの引用文によるといぼ薬師は嘉永4年(1851)に再建されたと伝えられているが、これは上記の「鯰絵ブーム」の時期に概ね重なることから、この頃に本来の「いぼ取り薬師」の信仰に加えて「白なまず(尋常性白斑)平癒」の信仰が追加されたのではないか。
- 和歌山県観光振興課が運営する「わかやま歴史物語100」のWebサイトでは、「建武中興の立役者! 護良親王の足跡をたどる」の項で「いぼ薬師」が紹介されており、ここでは「近年では腫瘍もイボのひとつとして、ガン封じを願って参詣する人も多いのだそう。」とのコメントがあることから、さらに祈願の対象が広がっているようである。
建武中興の立役者! 護良親王の足跡をたどる | わかやま歴史物語
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。