国鉄紀勢線紀伊田辺駅に降り立つと、まず大きな像が目に飛び込んでくる。頭布をかぶり、大なぎなたを手にした。いかつい弁慶。
京の五条の橋の上 大の男の弁慶が 長いなぎなた振り上げて…
かつて小学唱歌にもうたわれ、豪勇無双の法師そのままの弁慶の像は、田辺の人たちにとって、欠かすことのできない、町のシンボルでもある。
武蔵坊弁慶は、田辺を治めた別当湛増と美女鶴姫を両親にもつという。鶴姫は、京都二位大納言の地位にあった公卿の長女で、熊野詣での途中、湛増の手の者にさらわれ、妻になった。ところが弁慶は、母の胎内に18か月もいて、生まれた時は、髪が肩まで垂れ、歯も生え揃った怪童だったとか。
弁慶の出生地というのは全国に三十数か所。中でも出雲と田辺は有力。闘鶏神社に「産湯の釜」、八坂神社に「腰掛け石」などがある。
(メモ:八坂神社へは田辺駅より徒歩約15分、なお母の胎内に「18か月」は「3年3か月」の説もある。)
- 武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)で、源義経の郎党(従者)とされるが、同時代の文献には記録がなく、出自や活動内容については不明である。しかし、後に制作された軍記物語「義経記(ぎけいき)」、御伽草子「弁慶物語」などには弁慶にまつわる様々なエピソードが描かれており、現在広く知られている弁慶の人物像はこれらの物語(およびこれを原典とする能、歌舞伎、人形浄瑠璃などの創作物)によって構築されたものと言える。
- 弁慶の生涯について、田辺観光協会のWebサイトでは次のように紹介している。
「勧進帳」「船弁慶」など、歌舞伎や人形浄瑠璃などでもよく知られている武蔵坊弁慶。しかしながら、彼が実在した人物であったかどうかはさだかではない。伝説は後年に寓話となり、五条橋での義経との出会いや仁王立ちで大往生を遂げるという逸話が伝承されてきた。
この人物が田辺生まれだとする考えは、地元では広く信じられている。出生地について田辺説が最も有力だと考えられるのは、「義経記」の記述によるものである。それによると弁慶は熊野別当家の嫡子で、幼名を鬼若といった。比叡山で修行を行った後、山を降りるにあたって自ら名付けたのが、西塔武蔵坊弁慶という一般によく知られている名前である。
比叡山を下った弁慶は、書写山円教寺の僧の仕打ちに腹を立て、寺を焼き払い、その後再び京都に上洛して義経と出合ったとされている。これが童謡にも歌われている五条の橋の上の決闘である。敗れた弁慶は義経と主従の契りを結び、生涯の部下となった。
田辺探訪(和歌山県田辺観光協会) :: 武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
- 弁慶の名が最初に文献に現れたのは、鎌倉時代末期に成立した歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ 「東鑑」とも 1300年頃の成立とされる)」とされるが、あくまでも義経の郎党(従者)の一人として名前が挙げられているのみである。以下に吾妻鏡の該当部分を引用するが、このうち11月3日の項は平氏滅亡後に兄頼朝と対立した源義経が、叔父の行家や郎党の者とともに都を離れて西国へ向かう場面(義経都落ち)であり、11月6日の項は大物浜(だいもつはま 現在の兵庫県尼崎市)から船で西国(九州)へ向かおうとした際に暴風により船が転覆して一行が散り散りになる場面である。こののち義経は弁慶や静御前とともに吉野へ向かったとされる。
文治元年(1185)十一月大三日壬午。
前備前守行家 〔櫻威甲(さくらおどしのよろい)〕
伊豫守義経 〔赤地錦の直垂(あかじにしきのひたたれ)に萌黄威甲(もえぎおどしのよろい)〕等
西海へ赴く
まず使者を仙洞(せんとう 筆者注:後白河法皇の御所)へ進め、申して云わく
鎌倉の譴責(けんせき)を遁(のが)れん為、鎮西に零落す
最後に参拝すべしといえども、
行粧異躰(筆者注:ぎょうしょういたい 戦装束で異様な風体)の間、
すでに以て首途(かどで)すと云々。
前中將時實 侍従良成〔義経が同母弟 一條大藏卿長成が男〕
伊豆右衛門尉有綱 堀弥太郎景光、
佐藤四郎兵衛尉忠信 伊勢三郎能盛
片岡八郎弘経 弁慶法師
已下(いげ)相從う(略)
文治元年(1185)十一月大六日乙酉
行家、義経大物浜(だいもつはま)に於て乗船之刻
疾風俄に起きて 逆浪船を覆す之間
慮外に渡海の儀をやめ、伴類分散す
豫州(筆者注:義経のこと)に相従う之輩
纔(わずか)に四人 所謂(いわゆる)
伊豆右衛門尉
堀弥太郎
武藏房弁慶
並びに妾女〔字を靜〕一人也筆者注:読みやすくするため、一部の旧字体を新字体にあらためたほか、適宜ふりがな等を施した
参考 「吾妻鏡入門」
吾妻鏡5巻文治1年11月
- 吾妻鑑とほぼ同時期に成立したと考えられている軍記物語「平家物語」でも弁慶の名は登場するが、いずれも名前を挙げるのみであって活躍の場面は描かれていない。
巻第九 三草勢揃
搦手の大将軍には九郎御曹司義経同じう伴ふ人々 (略)、武蔵坊弁慶これらを先として都合その勢一万余騎 (略)巻第九 老馬
ここに武蔵坊弁慶ある老翁を一人具して参りたり
御曹司 あれはいかに と宣へば
これはこの山の猟師で候ふ と申す (略)巻第十一 嗣信最期
続いて名乗るは (略) 武蔵坊弁慶 などいふ一人当千の兵共声々に名乗りて馳せ来たる巻第十二 土佐房被斬
判官土佐房が上つたる由聞し召して武蔵房弁慶を以て召されければやがて連れてぞ参つたる
(略)
さるほどに伊勢三郎義盛 奥州佐藤四郎兵衛忠信 江田源三 熊井太郎 武蔵坊弁慶などいふ一人当千の兵共声々に名乗つて馳せ来たる
- 南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている作者不詳の軍記物語「義経記(ぎけいき)」は、鎌倉時代に成立した「平家物語」をもとに、源義経とその主従を中心として描かれたものである。義経記は全八巻からなるが、このうち巻第三は弁慶の生い立ちから義経との出会い、勝負に敗れて従者となる過程などを詳細に描いている。以下にそのあらすじを簡略に紹介するが、現在一般的に知られている物語とは主に次のような点が異なっている。
熊野の別当乱行の事
二位の大納言には天下一の美人と言われる姫君がいて、右大臣・藤原師長に嫁ぐことになっていたが、忌事があったために嫁入りは先延ばしとなっていた。
姫君が15才の時、体調を崩した際に熊野の神に祈願したところ無事に平癒したので、次の年の春に熊野へお礼詣りを行った。この折、姫君が熊野本宮大社の証誠殿(しょうじょうでん 同社の主祭神を祀る社殿)にいたときに、熊野別当(熊野三山の統括者)が現れて姫君を見染めた。周囲の者は、「大納言の娘で、右大臣に嫁ぐことが決まっているのだから」と別当を宥めようとしたが、別当はこれを聞かず、姫君を略奪した。
これに怒った藤原師長と大納言は七千余騎を従えて熊野別当を攻め立てたが、これを討ち倒すことができなかった。やがて京都で公卿の詮議があり、「熊野山を滅亡させることはできない。右大臣は姫君を諦めよ、大納言は熊野別当を婿にすることを承諾せよ」との結論に達したので、師長も大納言も渋々これに従った。
やがて年月を経て別当が61歳になった頃に、姫君もようやく打ち解けて子を儲けることになったのでたいそう喜んだ。男なら自分の後継者にしようと月日を待っていたが、予定の日がきてもなかなか生まれず、18か月たってようやく生まれた。
弁慶生まるる事
その子供は、生まれたばかりにもかかわらず、普通の2~3歳の子供のようで、髪は肩が隠れる程に生え、歯も大きく生えそろっていた。
はじめ、別当は「これは鬼神に違いない、殺してしまえ」と言ったが、山の井の三位という人物の妻になっていた別当の妹が「私に預けて下さい。良い人物になれば三位に仕えさせ、悪い人物になったとしても法師とすればよろしい。」と懇願したので、この子は鬼若と名付けられて叔母とともに京へ上ることになった。
鬼若は6歳の時に疱瘡(ほうそう)に罹ったので容貌も悪く、色黒で、髪も伸び放題であったため、叔母は法師にしようと、比叡山の学頭(教理教学の責任者)である西塔(「東塔(とうどう)」、「西塔(さいとう)」、「横川(よかわ)」という3つの区域で構成される比叡山延暦寺のうち、釈迦堂を中心とする区域を指す)の桜本僧正に預けた。
比叡山での修業が始まると、鬼若は学問の面でも秀でた能力を持っていたが、力が強く骨太であったことから他の学問僧らとの力比べや相撲などを好んだ。ところが、他の僧に怪我をさせたり、苦情を入れたものに乱暴を働いたりすることが目に余ったため、一旦は鬼若を比叡山から追放するようにとの院宣(上皇からの指示)が下った。しかし、後に公卿の詮議において「故事に則ってこれを放置せよ」との方針が定められたので、比叡山中には大きな不満が渦巻くようになった。
弁慶山門を出づる事
自分の行動によって桜本僧正が大変困っていることを知った鬼若は、自ら比叡山を出ていくことにした。しかし、学問については充分に修めていたので勝手に法師になることを決意し、それまで伸ばし放題であった髪を切り、頭を丸めた。さて戒名(この場合は「出家して仏の弟子になったことを示す名前」のことを指す)をどうするか考えたとき、かつて比叡山には、悪を好み、61にして往生を遂げたと伝えられる「西塔の武蔵坊」という人物がいたと聞くので、その名を継いで「武蔵坊」を名乗ることとした。また、実名については、熊野別当である父は「弁せう(べんしょう 弁昌)」、師匠である桜本僧正は「くわん慶(かんけい 観慶)」なので、両者から一字ずつを取って「弁慶」と名乗ることとした。
山を下りた弁慶は、しばらく小原の別所(現在の京都市左京区大原にある極楽往生院(三千院)のあたりとされる)に滞在したが、後に諸国修行に出て、兵庫、阿波、讚岐、伊予、土佐などをめぐり、阿波へ戻った。
書写山炎上の事
弁慶は阿波から播磨へ渡り、書写山圓教寺(しょしゃざん えんぎょうじ)でひと夏の修行に入った。この寺にいた信濃坊戒円(しなのぼう かいえん)という僧は弁慶に負けず劣らず喧嘩好きであったが、弁慶のことを快く思っていなかったことから、ある時、弁慶の顔に筆で戯言を落書きした。これを皆に笑われたことから、弁慶は怒り狂って戒円に迫った。戒円がなおも弁慶を挑発したため、二人は組み合ったが、力に勝る弁慶が遂に戒円を抱え上げて投げ落とし、踏みつけにして肋骨を2本折った。
このとき、戒円が持っていた檪(くぬぎ)の燃えさしが講堂の軒に挟まってしまい、谷から吹き上げられた風に煽られて燃え上がった。炎はまたたく間に燃え広がり、講堂、廊下、多宝塔、文殊堂、五重の塔など54か所が焼け落ちた。
弁慶は、仏法の仇となる罪を犯してしまったと考え、今さら他の僧坊を助けても何になろうと思って麓の西坂本に走り下り、軒を並べている坊舎に次々と火を付けていった。すべて炎上してその後には何も残らず、ただ礎石が残るのみであった。
弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事
書写山を出て京都に移った弁慶は、重要な宝というものは千個揃えてはじめて値打ちが出るものと考えるようになった。例えば、奥州の秀衡は「名馬千疋」、「鎧(よろい)千領」、松浦の太夫は「胡籙(やなぐい 矢などを入れる武具)千腰」、「弓千張」などで知られている。
そこで弁慶は、他人の持っている太刀を千振奪い取って自分の宝にしようと考え、夜な夜な京の町に出て太刀を強奪していった。こうして次の年の6月までにとうとう999振の太刀を手に入れることに成功した。
6月17日の夜、弁慶は五条の天神に参詣して、「神の御利益により、良い太刀が取れますように」と祈誓した。その後、南へ向かって歩きながら良い太刀を持った人がいないか探し続けたところ、明け方になって堀河のあたりで笛の音が聞こえてきた。どんな人物かと思い、近づいてこっそり窺うと、なんと黄金づくりの見事な太刀を持った若者であった。後に聞けばこの若者は恐ろしい人物であったのだが、この時弁慶は知るよしもない。こんな優男であれば自分の姿を見せ、声を聞かせるだけで怖気づいて逃げ出すだろうと考えて、若者の眼前に現れ出でて「ここを通りたければ、その太刀を渡せ」と恫喝した。
若者は少しも怯まず「近頃、そんなことを言う馬鹿者がいるとは聞いていた。欲しくば取ってみよ。」と返してきた。「ならば見参に参らん」と弁慶は太刀を抜いて切りかかるが、若者も小太刀を抜いて走り寄る。弁慶が太刀を振り下ろすと同時に若者は稲妻の如く弁慶のふところに入り込んだので、空を切った弁慶の太刀が築地塀(土塀)に突き刺さった。これを抜こうとするところへ、若者は走り寄って左の足を差し出して弁慶の胸をしたたかに蹴る。弁慶が思わず太刀を手放すと、若者はその太刀を取って「えいや」という声とともに、9尺(約2.7メートル)もある築地塀の上にゆらりと飛び上がった。
胸は痛む、太刀は奪われる。弁慶は放心して立ちすくんでしまった。
若者は、「これからはこのような狼藉をしてはならんぞ」と言い、弁慶から奪った太刀を踏みゆがめて投げ返してきた。
弁慶はこの太刀のゆがみを直しつつ、「今宵は仕損じるとも、次に会った時には許すまじ」とつぶやきつつ去っていった。
弁慶義経に君臣の契約申す事
明けて6月18日、弁慶は昨夜の若者を探して清水(きよみず)に向かった。すると、また昨夜と同じ笛の音が聞こえてきたので、清水寺の門前で待ち構えて再び「その太刀を寄越せ」と迫った。
若者はその声を意にも介さず「欲しければ取ってみよ」と挑発したので、弁慶は大長刀を振るって若者に襲いかかった。若者は太刀を抜いて応戦すると見せて、すっと弁慶の大長刀を受け流した。その優れた手並みをまざまざと見せつけられたので、弁慶は肝をつぶして、「これはとても自分の手には負えない人物だ」と驚嘆した。
若者は「遊び相手になってやりたいが、今は観音様に参ることの方が大事だ」と弁慶を捨て置いて行ってしまった。なおも太刀に執着する弁慶は、若者を追いかけて清水寺の御堂に入って行った。ところが、若者が経を読む声は聞こえるのに若者の姿は見えない。なんと、その若者は、女の装束を着て衣被(きぬかずき 上流の女性が顔を隠すため被る衣)を纏っていたのだ。
やっと若者を見つけた弁慶は他の参詣者を押しのけて若者の側に詰め寄って、若者が読んでいた経文を取り上げる。ところが、この経を見た弁慶はその立派なことに感服し、「これはお前の経か、それとも他人の経か」と問うた。若者はこれに答えず「この経を読め、私も読む」と言ったので、二人は甲の声、乙の声となって見事な読経を始めたのであった。
経が終わると、立ち去ろうとする若者を引き留めて、弁慶は「今こそその太刀をかけて勝負願いたい」と迫った。「それならば、参れ」と若者が応えたので、両者とも太刀を抜いて散々に切り結ぶ。二人はやがて堂内を出て、清水の舞台へと勝負の場を移す。はじめは遠巻きにして見ていたまわりの者も、あまりの面白さに二人の戦いについてまわるようになっていた。
若者は思いきり討ちかかっていく、弁慶も思いきり討ち合う。弁慶が少し討ち外したところに若者が走りかかって斬りこむと、弁慶の左の脇の下に切っ先が入った。これに弁慶がわずかに怯んだところへ、若者はすかさず太刀の背で散々にうちひしいだ。弁慶が東を枕に倒れると、若者はその上にうち乗って「さて、これからは私に従うか、否か」と尋ねた。
弁慶は、「こうして敗れたことも、前世の因縁によるものかもしれん。ならば従うことにしよう。」と応えた。これを聞いた若者は、二振の太刀を取り上げて、弁慶を先に立てて山科へと向かった。
傷を癒し、その後は連れだって京都へ向かい、弁慶と二人して平家を狙った。この時以来、弁慶は二心を抱かず、常に寄り添い、影の如く、平家を三年で攻め落した際にも度々の功名を極めた。
奥州衣川の最後の合戦まで御供して、遂に討死した武蔵坊弁慶とはこのような人物である。※あらすじ作成は筆者
義経記 - Wikisource
- 歌舞伎の「勧進帳(かんじんちょう)」は、源頼朝に追われた義経一行が北陸を通って奥州へと逃げる際の、加賀国の安宅の関(現在の石川県小松市)での出来事を描いたものである。歌舞伎十八番の一つで、弁慶が白紙の巻物をあたかも本物の勧進帳(東大寺再建のための寄付を求める趣意書)のように朗々と読み上げる場面(勧進帳読み上げ)や、役人の疑いを晴らすために弁慶が義経を杖で打ち付ける場面(打擲 ちょうちゃく)は、歌舞伎を代表する名場面として知られる。
勧進帳 | 歌舞伎演目案内 – Kabuki Play Guide –
- 源義経は、やがて奥州へ移り、藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)の庇護を受けて「衣川館(ころもがわのたち 現在の岩手県西磐井郡平泉町にあったとされる)」に身を寄せた。しかし、文治3年(1187)に秀衡が病没すると、後を継いだ藤原泰衡(ふじわらの やすひら)は頼朝の圧力に抗しきれず、文治5年(1189)、父の遺言を破って義経主従を急襲した(衣川の戦い)。義経方は、武蔵坊弁慶、鈴木重家、亀井重清らがわずか10数騎で防戦したが、ことごとく戦死・自害したという。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の静御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であったという。
衣川の戦い - Wikipedia
- この衣川の戦いにおいて、弁慶は義経が篭った堂の入口で奮戦し、やがて無数の矢を受けて仁王立ちになったまま絶命したとされる。これが世に言う「弁慶の立往生」である。この時の状況を「義経記」は次のように伝える。
鎧に矢の立つ事数を知らず。
折り掛け折り掛けしたりければ、簔を逆様に著たる様にぞ有りける。
黒羽、白羽、染羽、色々の矢共風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるるに異ならず。
八方を走り廻りて狂ひけるを、寄手の者共申しけるは、
「敵も味方も討死すれども、弁慶ばかり如何に狂へ共、死なぬは不思議なり。音に聞こえしにも勝りたり。我等が手にこそかけずとも、鎮守大明神立ち寄りて蹴殺し給へ」
と呪ひけるこそ痴がましけれ。
武蔵は敵を打ち払ひて、長刀を逆様に杖に突きて、二王(仁王)立に立ちにけり。
偏に力士の如くなり。
一口笑ひて立ちたれば、
「あれ見給へあの法師、我等を討たんとて此方を守らへ、痴笑ひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」
とて近づく者もなし。
然る者申しけるは、
「剛の者は立ちながら死する事あると言ふぞ。殿原あたりて見給へ」
と申しければ、
「我あたらん」
と言ふ者もなし。
或る武者馬にて辺を馳せければ、疾くより死したる者なれば、馬にあたりて倒れけり。
長刀を握りすくみてあれば、倒れ様に先へ打ち越す様に見えければ、
「すはすは又狂ふは」
とて馳せ退き馳せ退き控へたり。
され共倒れたる儘にて動かず。
其の時我も我もと寄りけるこそ痴がましく見えたりけれ。
立ちながらすくみたる事は、君の御自害の程、人を寄せじとて守護の為かと覚えて、人々いよいよ感じけり。
- 「義経記」とほぼ同時代に成立したと考えられている「武蔵坊弁慶物語絵巻」では、弁慶の父は「熊野別当」とされているものの、その名前は記載されていない。また、義経と弁慶の出会いは「五条の橋」であり、辻斬りを行うのは義経(牛若丸)の方である点も異なっている。これに対して、「義経記」よりやや後に成立したと考えられている御伽草子「弁慶物語」では、弁慶を「熊野別当 弁心」の子としており、出会いは「北野の神の前」「薗城寺」「清水寺」の三度、きっかけは弁慶が義経の太刀を狙ったことによる、とされている。これらの異同については、北澤良子氏の「弁慶説話の成立と展開 : 御伽草子『弁慶物語』まで(昭和60年度卒業研究佳作)(上田女子短期大学国語国文学会 「学海」 2巻 1986)」において詳述されている。
※本文のメモ欄に、弁慶が母の胎内に3年3か月いたとの説があるとの記載があるのは、御伽草子「弁慶物語」の記述を指すものと考えられる。
上田女子短期大学リポジトリ
挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第13話 弁慶物語 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
- 室町時代に成立したと考えられている御伽草子「橋弁慶」では、弁慶の父を「熊野別当 湛増(たんぞう)」としている。「義経記」にある「弁せう」、「弁慶物語」にある「弁心」はいずれも記録に現れない名前であるが、「湛増」は21代熊野別当として実在の人物である。また、「橋弁慶」では、義経が父の菩提を弔うため平家千人斬りを企てており、弁慶との出会いも「五条の橋」であることなどを考えると、上述の「武蔵坊弁慶物語絵巻」の系統に属する物語であると言える。室町時代後期(16世紀初頭)に成立したと考えられている能(謡曲)の「橋弁慶」も、この御伽草子「橋弁慶」と類似した物語となっており、芸能の分野ではこの「橋弁慶」に基づくストーリーが主流となっていく。「橋弁慶」については、以下の個人ブログに詳しい。
橋弁慶――弁慶と牛若丸: 薄味
(略)
それにともなって、弁慶の生まれ故郷についても、2つの候補地があるのです。
1つは田辺市、1つは新宮市です。
新宮説の根拠は、今回紹介している弁慶物語絵巻です。
弁慶の父親である弁真を祀る大王子が、新宮市の長徳寺にあったと江戸時代の記録に残されています。
また新宮市の隣にある三重県紀宝町には、弁慶産屋の楠跡も残っております。
このように、新宮市周辺には弁慶に関わる伝説地が残されています。一方、田辺説の根拠は、御伽草子の橋弁慶に、弁慶の父親は熊野別当湛増とあることと関わります。この湛増は闘鶏神社の大福院にいました。
JR田辺駅前には大きな弁慶の銅像も建っています。このように、和歌山県内では弁慶の生まれた場所の候補地が2つありますが、今のところ、どちらとも決められない、というのが現状です。
(略)
(学芸員 坂本亮太)
http://kenpakunews.blog120.fc2.com/blog-entry-517.html?sp
- 「別当(熊野別当)」とは、、9世紀から13世紀後半にかけて熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を統括するとともに、熊野水軍を指揮する立場にあった者の役職を指す。その職は世襲制で、18代別当湛快のときに「新宮別当家」と「田辺別当家」に分かれた。御伽草子「橋弁慶」において弁慶の父とされる湛増(たんぞう 1130 - 1198)は田辺別当家の出身で、源平合戦(1180 - 1185)終盤にあたる元暦元年(1184)に21代熊野別当の職に就いた。上述したように、歴代の熊野別当には「弁せう(義経記)」、「弁心(弁慶物語)」の名は無い。
熊野別当 - Wikipedia
- 本文にあるように、島根県松江市には弁慶の誕生伝説が伝わっている。これによれば、紀州(和歌山県)田辺の辯(弁)吉という女が出雲大社に参詣した後、天狗と結ばれ、弁慶を生んだとする。この伝承について、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している「レファレンス協同データベース」では次のように解説している。
島根県に残る弁慶伝説について書かれた資料があるか
当館(島根県立図書館)所蔵資料より、以下の資料を紹介。
資料1(郷土誌「ふるさと本庄」):p400-402「弁慶伝説」。松江市本庄町に伝わる弁慶の伝説を紹介。長見神社後方の小山「弁慶森」で生まれ、野原の弁慶島に幼くして捨てられて兵法を学びながら育ったとされる。紀州の生まれの弁慶の母は器量が悪く、これを心配した父母が出雲へ旅立たせたところ、出雲大社での祈願の甲斐あって山伏の夫を得て弁慶を生んだ。弁慶は小さいときからいたずらが激しく、手を焼いた村人らにより弁慶島へ捨てられるが、島に来る山伏(天狗)から兵法を教わったとされる。
資料2(出雲國浮浪山鰐淵寺):p159-173「弁慶伝説と鰐淵寺」。全国各地に弁慶伝説は残っているが、和歌山県にならび出雲地方は多くの伝説が残っているとする。鰐淵寺では弁慶が学僧のときに硯の水としたものなどいくつか縁のものがある。また、弁慶伝説が誕生した背景などについても考察している。
資料3(市民大学講座 平成3年度 平田市教育委員会):p1-22「出雲地方の弁慶伝説について」(酒井董美/著)。市民講座の講演録。島根県の弁慶伝説、県外の弁慶伝説等を紹介。
資料4(山陰の口承文芸論):p99-116「出雲地方と弁慶伝説」。内容は【資料3】とほぼ同じ(講演録を論文にまとめ直したもの)。
資料5(安来市史研究紀要 (三)):p26-32「山陰の弁慶伝説」。山陰に残る弁慶伝説、伝説のルーツ、安来市に残る弁慶伝説を紹介。
- 本文にある小学唱歌「牛若丸」は明治44年(1911)、「尋常小学唱歌(一)」に掲載されたのが初出である。一般的に文部省唱歌の作者は公表されていないため、この歌についても作詞者・作曲者は不詳である。歌詞の内容は以下のとおりであるが、個人ブログ「注文の多い山猫軒」では、この歌詞は巖谷小波(いわや さざなみ 1870 - 1933)作の「日本昔噺 第23編 牛若丸」をもとにしたものであるとの考察を行っている。
小学唱歌「牛若丸」
- 京の五条の橋の上 大の男の弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる。
- 牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く。
- 前やうしろや右左 ここと思えば又あちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった
- 本文中にある闘鶏神社(とうけいじんじゃ)は田辺市東陽にある神社で、熊野三山の別宮的存在とされる。源平合戦の際、熊野水軍が源氏方・平家方のどちらにつくかをここで紅白の鶏合わせ(闘鶏)によって占わせたところ、赤の鶏(平氏方)が白の鶏(源氏方)を見て逃げだしたため、源氏方につくことを決めたという逸話で知られる。この物語については、別項「鶏合わせ」を参照されたい。
鶏合わせ ~田辺市湊~ - 生石高原の麓から
- 源平合戦については、別項「弁慶の建てたお堂」の項において詳述しているので、こちらも参照されたい。
弁慶の建てたお堂 ~中津村(現日高川町)高津尾~ - 生石高原の麓から
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。