生石高原の麓から

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蟻通しの神さま ~田辺市湊~

  田辺の商店街にある「蟻通神社」には、とても頭のよい神さまがまつられているという。

 

 神代の昔。外国から使いの男が田辺へやってきた。髪が赤くて鼻がとがったその大男は「おれの国は世界中で一番強い。このホラ貝に糸を通せ。できなければ、この国をおれたちの領土にする」という。貝の穴はグルグル回っていて、とても糸なんか通せそうもない。みんなが困っていると、一人の若い神さまが「わたしに任せてください」と名乗り出た。

 

 若い神さまは、貝の口にを流し込み、一匹の大きなを糸でしぱると、うしろにあいた小さな穴の中に放した。蟻は蜜を求めて迷路のような穴を通り抜け、その口から出てきた。それをみた外国の男は、「日本には頭のいい神がいる」と驚いて退散し、以来その若い神さまを「蟻通しの神」としてあがめたという。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

蟻通神社

 

  • 蟻通神社(ありとおし じんじゃ)田辺市湊にある神社で、主祭神天児屋根命(あめの こやねの みこと 「岩戸隠れ」の際に天照大神を引き出すために祝詞を奏上したとされる)。紀南地方随一の繁華街である「味光路あじこうじ かつては「親不幸通り」と呼ばれた)」に隣接し、熊野別当湛増(たんぞう 武蔵坊弁慶の父)由来の「弁慶観音」で知られる海蔵寺とも敷地を接する。和歌山県神社庁のWebサイトでは、その由緒について次のように説明している。

社伝による勧には、天平神護元(766)年と伝えられている。
古い社名は御霊牛頭天王といわれ、湊の地主神として崇敬されたが、文化9(1812)年に社名を蟻通明神社と改称した。
一般の氏子は「御霊(ごりょう)さん」と呼び、変わらぬ信仰が行われた。
明治元年神仏分離で社名を蟻通神社と改称。
明治4年11月、郷社(田辺県)に、同6年4月村社(和歌山県)となる。
同10年12月、愛宕山愛宕神社を合祀、同36年3月、一村一社の神社合祀令で志保古の八坂神社と住吉神社を合祀した。
さらに同43年1月、山崎の八幡神社を合祀して境内社とした。
和歌山県神社庁-蟻通神社 ありとおしじんじゃ-

 

  • 本文の物語については、那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」に「蟻通し神」の題名で次のような話が収載されている。これによれば、境内の石を持って帰れば蟻除けにもなるという。

蟻通し神(田辺)
 或日のことである 吾が日の本は瑞穂之国(筆者注:みずほのくに 日本のこと)の南半島ここ紀州田辺外国から使者がやって来た。見れば面構え心にくいまで猛く態度も傲慢でどうやら腹には一物有りげな様子、さて徐ろに口を開いて曰く「俺の国の武威は四海に輝いて誰知らぬ者もない筈。さて俺は此所に諸神と約束をする事にする。それは今問題を出すがそれを解き得なかったなら其方の国は俺の国の属国とする」と言う事だ。勿論誰も解を得まいと思っての相談である。胸の中には瑞穂の国を己れの属国にしようとの魂胆がありありと読めた。
 諸神進み寄って「問題と言うのはどんなものか」と尋ねると使者ふんぞり返って口辺に嘲りの笑をたたえながら「問題というのは是だ。此所に法螺の貝を俺が持参して居るが、勿論貝尻には穴をあけて居るが此貝の中に一本の糸を通してもらいたい」と言ってにやりと無気味に笑った。諸神は大に驚いた。なぜならば此貝の內部はもとより非常に複雑な穴であるからである。どうして糸を通したものであろうかと諸々の神々達は額鳩首めて相談したがどう考えてもいい思案はなかった。
 此の時ひとりの神が進み出て「私にどうか其の事を任して下さい、きっと糸を通して見せよう」と言った。使者は言うに及ばず諸神も驚いて目を見はった。其の神を凝っと視ればまだ若神で名も知られて居ない神であった。
 やがて神はを持って来て貝の口からどんどん流しこんだ。蜜はさすがに複雑な穴を通り拔けて貝尻の穴へ流れ出た。すると神はを一匹捕えてこれに糸を結んで貝の口から追い込んだ。蟻の鼻先は甘い蜜に心を奪われて次から次へと蜜を追って遂にあの複雑な法螺貝の穴を何の苦もなしに通り拔けた。見れば後には初めの通り糸を結んで居る。さすがの法螺貝にも今は全く完全に糸が通った。是を見た使者は「日の本の国はやはり神国である」と恐れ其の智慧に感服して遠く逃げ帰ってしまった。諸神大に喜んで「さても瑞穂千足の国にも是ほどの賢神のあるのを知らなかった」と大に其神の奇智を褒めそやした。そして蟻によって糸を通した事によって蟻通し神と申し上げた。
 是こそ西牟婁郡田辺町字奏の土產神である。
 不思議にも蟻にせめられて苦しんで居る時に、此の社の石を持って来て家に置けば蟻にせめられる事を防ぐといわれている。
※筆者注:読みやすさを考慮して漢字及びおくりがなを現代のものにあらためた

 

  • 田辺観光協会が管理するWebサイト「私のたなべ」には、蟻通神社の伝承について次のような説明が掲載されている。

蟻通神社と紀貫之
 蟻通神社の御祭神がはじめて文献に登場されるのは、平安朝前期の歌人である紀貫之公の歌集『貫之集』(十世紀中葉成立)です。そこには「ありとほしの神」と貫之が織りなす説話と和歌が記されています。また、清少納言の随筆『枕草子』にも「蟻通の明神」説話が描かれており、少なくとも平安時代以降、蟻通しの神さまは広く世に知られる御存在であったことがわかります。
 なかでも、蟻通神社と紀貫之公の伝承を最もくわしく記す書物が、南北朝時代中期に成立した説話集である『神道』(全十巻五十話)です。『神道集』には、全国の著名神社約40社の縁起などが収録され、第七巻三十八に紀伊国田辺の「蟻通明神事(ありとおしみょうじんのこと)」が記されております。
蟻通神社 – 和歌山県 田辺観光協会

 

 

  • かつらぎ町の蟻通神社に伝えられている伝承は概ね次のとおりである。

 天武天皇(筆者注:在位673 - 686)の時代、唐の高宗(筆者注:こうそう 唐の第3代皇帝 在位649 - 683)から七曲りの玉を献じられ、これに糸を通して返せと難題をかけられたとき、1人の老人が現れ、蟻に糸を結びつけ、玉の穴の一端に蜂蜜を塗り、一端から蟻を通した。
 蟻は蜜の香りにひかれて穴を通り抜け、糸を通したのである。
 人々は感嘆してその名を問えば(吾は紀の国蟻通の神)と言って姿を消した。
 高宗は使者を遣わして紀の国を探れば、当村に蟻通の神が祀られており、これより朝野の信仰が篤くなったと伝えられている。
和歌山県神社庁-蟻通神社 ありとおしじんじゃ-

  • 泉佐野市の蟻通神社に伝えられている伝承は概ね次のとおりである。

 千年以上昔、平安朝の時代に「蟻通明神」として神社の名が世に広まっていくきっかけとなった、2つの故事伝承がありました。
 その一つは、紀貫之の歌集に出てくる故事です。貫之が神社を通過する途中、天候が悪化し馬が倒れた際、社頭で和歌を詠じて難を逃れました。歌が神慮を鎮めるという歌徳説話です。
 今一つは、清少納言の「枕草子」に記載されている蟻通神社の社名伝承です。その内容は、昔、唐(もろこし)から3つの難題を突きつけられましたが、それを解決したというお話です。その難題の答に、「蟻を使って玉に糸を通す」という説話があります。
 神社の表記は、中世以前の文献資料には、「有通神社」と記されています。「蟻通(ありとおし)」という社名をめぐる伝承ですが、「玉に蟻を通す」難題説話と、中世熊野三山参詣の様子が「蟻の熊野詣」と評された熊野街道沿いに神社が立地していたことの2点から、社名が「蟻通」と表記されたのではないかと考えられています。
蟻通神社について | 蟻通神社

 昔、ある天皇が、都から老人を追放した。ところが、ある中将だけは、老父母をひそかに家に住まわせていた。
 その頃、唐の皇帝が日本征服を狙い、知恵試しの難題をふっかけてきた。困った天皇は、中将にその難題を解かせた。
 曲がりくねって、中に細い穴のあいた玉に紐を通せというもの。中将は考えあぐね、こっそり老父母に相談した。「穴の一方に甘い蜜をつけ、他方から糸を結びつけた蟻を入れるといい」。蟻は蜜の甘い香りに誘われて玉の中を見事に通り抜け、紐を通した。唐の皇帝はほかにも難題を出したが、どれも老人の知恵で解決。唐はついに日本の征服を諦めたという。そして、老人の大切さが分かり、都にはまた老人が戻った中将は死後、蟻通明神として祀られた
 「蟻通明神」は和泉国大阪府泉佐野市)にもあり、こちらは紀貫之の和歌や『枕草子』、世阿弥の能『蟻通』にも登場する。東吉野村の蟻通神社は、平安時代末、ここから勧請されたという。
奈良のむかしばなし

 

  • 上述したように、「蟻通の神」については各地にさまざまな伝承が伝えられているが、これについて昭和56年(1981)に別府大学文学部(当時)の工藤茂氏が「現代文学における「姨捨」の系譜(三):蟻通明神のこと(二)別府大学国語国文学会「別府大学国語国文学 No.23」 1981)」において文献をもとに整理されているので、その一部を引用する。

現代文学における「姨捨」の系譜(三)
  -蟻通明神のこと(二)-
                  工藤茂
 蟻通明神にかかわる文献で最も古いのは、おそらく『貫之集』であろう。これは貫之自身が、折りにふれて出来た歌を書きつけていたと『大鏡』に語られている、彼の私家集である。その第十(一本によると九)に、次の歌が収められている。 .
   かき曇りあやめもしらぬ大空に
     ありどほしをば思ふべしやは
一見して意味がすうっと通らないのは、「ありどほし」の語の意味が判然としないからである。
(略)
 実は、この語はいささか工夫のこらされた掛詞だった。この歌の前に付された次の詞書を読むと、「ありどほし」とうたったその理由が納得される。
   紀の國に下りて、かへりのぼる道にて、
   俄に馬のしぬべく わづらふ所に「て」
   道行く人(々)立ちどまりていふやう、
   是はこゝにいましつる神の し給ふなむ。
   (略)
 これを要約すると、次のようになろうか。

 神社もなければ神のしるしも見えないところだったので、貫之は知らずに馬を乗り入れてしまった。するとたちまち馬が倒れてしまった。通りがかりの人が、それはここの神のしわざだから祈りなさいと教えてくれた。そのとおりにお祈りをしてうかがうと、ありどほしの神だという。そこで歌を作って奉った。 そのせいか、馬も生きかえった

というのである。
 したがって先の歌の「ありどほし」とは、ありどほしの神のことだった。その神の神域を犯した理由と許しを乞う気持が、この歌の裏にこめられていたのである。
(略)
 さて、右の貫之の故事を手ぎわよく要約して、このありどほしの縁起を紹介しているのが、前に述べた『枕草子』である。その段は、次のような文章で始まっている。

蟻通(ありどほし)の明神、貫之が馬(むま)のわづらひけるに、この明神の病(や)ませ給ふとて、歌よみてたてまつりけん、いとをかし。

 清少納言はこの文の直後に、「この蟻通(ありどほし)とつけけるは、まことにやありけん」という感想(疑問)をはさんだうえで、前述の話を書きとめている。そしてこの段の最後を、次のような文章で締めくくっている。

さて、その人になりたるにやあらん、その神の御もとにまうでたりける人に、夜現れてのたまへりける。
   七曲(ななわた)にまがれる玉の緒をぬきて
   ありとほしとは知(し)らずやあるらん
とのたまへりける、と人の語(かた)りし。

 「その人」には二つの解釈があって、その一つは親孝行の中将(筆者注:東吉野村丹生川上神社の伝承引用文中にある中将)とするもの、もう一つは中将の親とする説である。「七曲にまがれる玉の緒をぬき」たる知恵、つまり蟻を使って曲りくねった玉の孔に緒を通した知恵を持っていた者が、神となって祀られたので蟻通明神と呼ばれたというのであるから、中将の親がその神となって顕現したととった方が自然であろう。ところが、後世出版された、『室町時代物語大成第二』(角川書店)に収められている草子では、中将が蟻通の明神としてあがめられたことになっており、元蟻通明神といわれた奈良県吉野郡の丹生川上神社の中の社の伝説でも、草子同様、中将が後に蟻通明神となって祭られたことになっているという。したがって一般には、蟻通明神の本地は親ではなくて、中将と考えられていたようである
(略)
 次にこの話が書き留められるのは、『俊頼口伝集』である。これは中古三十六歌仙の一人である源俊頼の書いた歌学書と伝えられ、俊頼随脳俊被抄または俊頼無名抄とも呼ばれている。
 それには次のように述べられている。

貫之が馬にのりて 和泉国に御はしますなる ありどほしの明神の御前を よるくらかりけるに 神の御前ともしらで 通りければ 馬俄にたうれて死けり いかなることにかと おどろき思て 火の光にほのかにみれば 神の鳥居のみえければ いかなる神の御はします とたづねければ 是はありどほしの明神と申て 物とがめせさせ給ふ神也 もしのりながらや とをらせたまひつると 人のとひければ かゝる神の御はしますともしらず すぎ侍りにけり いかゞはすべきと 禰宜をよびてとへば その禰宜たゞにはあらず わがまへを馬にのりながらとをる すべからくしらざれば ゆるしつかはすべき也しかはあれども 汝和歌の道をきはめたる者也 其道をあらはしてすぎば 馬さだめてたつことをえてん 御神の託宣なりといへり 貫之たちまちに水をあみて
   七曲(をた)に曲れる玉の緒を貫て
   蟻通しとは知すや有覧
かみにかきて やしろのはしらにおしつけて おがみいりてとばかり あるほどに むまたちまちにおきて身ぶるひをしてたてり ねぎゆるしたまふとて さめにけり

神の鳥居があったり、神社の禰宜をよんだり、細部に相違はありながら、その大筋はほぼ『貫之集』のそれと同じ話である。ただ大きな違いはその歌にあった。『俊頼口伝集』の歌は貫之の歌ではなくて、『枕草子』に蟻通明神が夜詣でた人に現れて詠んだ歌と記されていた、その歌と同じである。それがいつか貫之の歌と伝えられて、このように書き留められたのであろう。
(略)
 ところがこの歌を貫之の歌とする伝承はさらに続いており、中世の『神道』にも書き留められることになる。『神道集』は安居院(あぐい)唱導(筆者注:安居院 唱導教団(あぐい しょうどうきょうだん)は南北朝時代の仏教宗派の一つで、同派が制作した「神道集」は各地の神社の縁起を中心とした説話集・神道書である。)の正本と伝えられるもので、真福寺本、赤木文庫本、彰考館本、天理図書館本、河野本等、十数種の諸本がある。今私の手元にあるのはそのうちの一つ東洋文庫本だけである。それを見ると巻第七の三十八として「蟻通明神事」が載っている。
   抑蟻通明神者、欽明天王御時、
   自大唐云神璽一ト玉、大般若渡、
という冒頭で始まるこの話は、おおよそ次のような内容である。

 欽明天王の御時、大唐から神璽という玉が大般若経に副えられて渡来した。
 もともとこの玉は天照太神が天下を治め給う時、第六天魔王(筆者注:仏道修行を妨げる魔のことを指す)に乞うて国を治める財としたものであった。人王の代になってからは代々の帝がこれを守ってきたが、孝照天王の御時に、天の朔女(さくめ)が計略をめぐらしてこの玉を盗み取って天に上り、失せてしまった。その後、秦奢(深砂)大王(筆者注:深砂大将とも 「西遊記」に登場する沙悟浄のモデルとされる)から玄弉三蔵(筆者注:「西遊記」に登場する三蔵法師のこと)の手を経て、また日本に戻ってきた。
 玄弉三蔵が仏の生まれた国に渡る時、流沙という河岸に一人の優なる美女がいて、
和僧はどのような宿願があって、これほど難所の多い道に来たのか
と問いかけた。
我は大般若経を東の国へ渡そうと思ってきたのだ
三蔵が答えると、美女は、

この道はあなたのような人の通るべき道ではない。急いで引き返しなさい
と言う。

我、生まれてから一度も禁戒を犯したことがない。それというのも、大般若経に深く志をかけているからで、特に般若心経こそ我の志すところなのだ。たとえそのために屍を流し曝すとも
と歎くと、その女人八坂玉を取り出して
和僧、この玉に緒を貫き給え。それができたら仏生国へ送りましょう
と言う。三蔵がその玉を請い取ってみると、形は蚕璽(まゆ)に似て色は黄であった。玉の中の孔は七坂(はた)に曲っていて、どうしても緒を通すことができない。どうしたものかと思案していると、道の傍の木の枝に機織という虫がいて
蟻腰着糸、向玉孔
と囀(さえず)った。悉曇(筆者注:しったん サンスクリット文字)の達人の三蔵はすぐにその意を解し、得心してその傍を見ると、大蟻が草の葉に遊んでいた。三蔵は大いに喜び、この蟻を取り、糸をその蟻の腰に結びつけ玉の孔口へ押し入れたところ、間もなく蟻は一方の孔口から出てきて緒を通すことができた。

 その時この女房はうち笑うかとみる間に怖しげなる鬼王の形となり、
我は是れ大般若守護十六善神の中の秦奢大王なり。汝、此の世一世の事ならず。過去七生も此の般若心経を渡さんとせしかども、自ら深く惜しく思食経なれば、汝の命を召すこと七度なり。汝、我が頸を見よ
とてうち向ひ給へば「七曝首(筆者注:7個のしゃれこうべ」を貫きて頸に懸け、三蔵に見せ給ふ、のである。それから、
これほどに志しているうえは、我らが守護を加えて送ろう
大王三蔵を肩に引懸け、天竺の仏生国へ渡して大般若並びに般若心経を与え、さらに東の国へと送った。そして
この玉はおまえに与えよう。仏法東漸の理によって、大般若心経もやがて日本国へ渡るであろう。その時に経に副えてこの玉も渡してほしい。もともとこの玉は日本国のものであったが孝照天王の時、天朔女が取って天上へ持ってきたものである。それを私が所持していたものであった
と言い、さらに、

私はひとあし先に日本国へ行って神と顕われ、般若部の守護神となろう
と誓った。

 このようにして秦奢大王は日本国に渡り、神と顕われて後、紀伊国田那辺という処に蟻通明神として祀られるのである。一方あの蟻通しの玉は、欽明天皇の御時、経と共に日本に渡来し、三種の重宝の一つとなった。

 ここまでが前半の部分にあたる。三種の神器の一つ八尺瓊の曲玉(筆者注:やさかにのまがたま 一般的には「八尺瓊勾玉」と表記する)の由来を、蟻通しの故事に絡ませて語る話がむしろ主となり、秦奢大王蟻通明神となって祀られる話が従となっている。
(略)
 このようにして時代と共に微妙に変化していった貫之の逸話は、謡曲「蟻通」において日本の文学として定着する。

 紀貫之従者二人を連れて、和歌三神の一つ玉津島明神に参詣の途次、「俄かに日暮れ大雨降り」「乗りたる駒さへ臥して」しまう。そこに蟻通明神老社人の姿で、
   瀟湘(しやうしやう)の夜の雨頻(しき)りに降って、
   遠寺(ゑんじ)の鐘の声も聞えず。
   何となく宮寺(みやてら)は。
   深夜(しんにや)の鐘の声。
   御燈(ごとう)の光なんどにこそ。
   神さび心も澄み渡るに。
   社頭を見れば燈火(ともしび)もなく。
と登場する。貫之は燈火を持っているその老社人を呼び止めて事情を話す。老人は驚いた風で、ここは蟻通明神の境内だが、そうと知って馬を乗り入れていたら、命もなかったろうにと語る。そして相手が貫之と知ると、「歌を詠うで神慮に御手向け候へ」とすすめる。そこで貫之は私心や邪心のない素直な心で
   雨雲のたち重なれる夜半なれば。
   ありとほしとも。思ふべきかは。
と詠む。老社人は「あら面白の御歌や」と感動し、貫之の罪を許して馬を生きかえらせ、自分は神の姿に帰って鳥居の笠木に隠れるのだった
(略)
 「蟻通明神」と称せられる話のもう一つの流れは、『枕草子』『奈良絵本』「伝説」のそれである。もっともその内容はずいぶん違い、「親棄山」のモチーフ(筆者注:東吉野村丹生川上神社の伝承にある老人追放のエピソードを指す)の有無によって、『枕草子』と後二者にきれいに分離されてしまう。前述のように『枕草子』の難題話には「親棄山」のモチーフが絡み、親孝行が語られる。 その点においては『今昔物語集巻五第州二』の天竺の話と類似しており、この話の起源はインドであろうとされている。
(略)
 これに対して「親棄山」のモチーフの無い『奈良絵本』「伝説(『日本昔話大成9』の五二三Bに分類されている奈良県吉野郡の蟻通明神の縁起)では、難題話と蟻通明神の縁起だけが結びつけられた形で存在していた。それを「蟻通明神のえんぎ」と仮りに名づけられて『室町時代物語大成第二』(角川書店)に収載されている『奈良絵本』に探ってみよう。その話の内容は、おおよそ次の通りである。

 たいそう賢い帝の御時、もろこしの大王から日本の帝に勅使がたてられた。もろこしの国が帝に奉った物は、蜀江の綿、藍田(らんてん)の玉、懈谷(かいこく)の笛、泗濱(しひん)の磬(けい)、さんこの盃、明月の玉など、ととりどりさまざまであった。

その中に五斗をうくるほとの、大きなる、ほらがい有、口は、ひらけたりといへとも、うしろにいたり、まかれること、いくえといふはかりなし
勅使、申けるやうは、此ほらの貝、口より、うしろに、いたるまてに、五色の糸を、つらぬきとほし、もろこしに返したまはらむとこそ、そうもん申あけけれ

 もしこの難問が解けなければ、日本の国をあなどり、もろこしの国が攻め寄せることは必定のこと。
 大納言公卿大臣を集め、どうしようかと詮議したがよい知恵が浮かばない。そこで広く殿上人たちに、何かよい思案はないものかとはかった。その時頭の中将が進み出て、孔子陳の国における故事を話して、私が糸を通しましょうと申し上げた。
 孔子の故事とは、孔子が陳の国で九曲の珠に糸を通す難題を出されて困っていた時、杜氏の娘の教えによって、その難題を解いたことであった。杜氏の娘の教えというのは「ほそき糸に、ありをつなき、珠(たま)の穴に、入給ひ、松のけふりに、ふすへ給へ」というものであった。
 はそれをお聞きになり、感心なさって、一件を頭の中将にゆだねられた。中将はほら貝を預って宿所に帰ると、人々を山につかわして蟻を求めさせ数々の蟻を取り寄せた。だが、並の蟻では糸を結んだ蟻の腰が半ばよりちぎれて、貝に糸を通すことができない。そこで大和の国春日の宮に十七日こもり、大きい蟻が手にはいるように祈った。それから七日たって、春日の山から二寸ほどの大きな山蟻が出てきた。中将は神の恵みと喜び、その蟻を使ってことなく五色の糸を通すことができた。そしてその恩賞として、和泉の国四万町を頂載し、右大臣に取り立てられたのであった。
(略)
 この神の性格を、この絵本では日本を守る「まもりの神」としている。国を守るということは、異国からの敵の侵入を防ぐことを意味する。たとえば、この絵本の次のような個所によっても、そのことは納得されよう。
   されは、異国より我朝をうちとらんと、
   兵をそろへて、日本をせめたる事、
   仲哀天わうより、後醍醐の天皇の御代にいたる迄、
   七度におよふといへとも
   神のちから、つよくましまし、
   ひとのはかり事、かしこきによって、
   たひたひ日本は、かちいくさして、
   一度も、ふかくはなかりけり。
 これを裏返して言えば、あらゆる道を塞(さ)えることによって、敵の侵入を妨害する神ということになる。そしてこの点において、この蟻通明神は、『貫之集』『大鏡』『俊頼口伝集謡曲「蟻通」神道』の系譜に連なる神ということができるのである。
BUILD Site - 現代文学における「姨捨」の系譜(三) : 蟻通明神のこと(二)

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。