生石高原の麓から

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高山寺 ~田辺市稲成町~

 「お弘法さん」と、土地の人たちに親しまれている高山寺は、紀南地方きっての名刹真言宗御室派の寺院で、聖徳太子の創建といい、太子堂には太子自作の像が、また御影堂には、弘法大師が糸田川の渕に自からの影を写して刻んだと伝えられる像が安置されている。

 

 熊野詣での途中、弘法大節は田辺の荘で、稲を背負った不思議な顔立ちの翁に出会った。国中を行脚していたお稲荷さんだった。すっかり意気投合した二人、神仏について話し合った。のち、大師が京都の東寺で修業していると、例のスタイルで、お稲荷さんがたずねてきた。そこで大師は大変喜び、丁重にもてなしたうえ、まつったという。


 高山寺近くの岩城山には、稲荷神社がある。お稲荷さんが、付近の谷で体を浄め、ここに鎮まったとか。

 

(メモ:高山寺には、南方熊楠の墓、合気道の開祖植芝翁の碑もある。国鉄紀勢線紀伊田辺駅から車で5分。稲荷神社は、そこから徒歩20分。)

 

南方熊楠(みなかたくまぐす)は和歌山市出身の博物学者、生物学者民俗学者で、田辺周辺で晩年を送った。「博覧強記の天才」と称され、中国建国の父と呼ばれる孫文と深い親交で結ばれていたほか、昭和天皇の紀南行幸の際に粘菌類等に関するご進講を行った際にキャラメル箱に標本を入れて献上したエピソードでも知られる。南方の死後に白浜を訪れた昭和天皇は、熊楠を偲んで「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」の御製(天皇が詠まれた和歌)を詠んだが、天皇が個人の名を入れた御製を詠むことは異例と言える。

※植芝翁(植芝盛平、うえしばもりへい)は現在の田辺市出身の武道家。大正末期から昭和前期にかけて、大東流合気柔術をベースに日本古来の柔術・剣術などを独自の精神哲学でまとめ直して「合気道」を創始した。また、宗教団体大本の実質的教祖・出口王仁三郎からも大きな思想的影響を受けている。大正13年(1924)には新たな宗教国家の建設を目指す王仁三郎とともに満州へ渡ったが、この際、敵の銃弾が飛んでくる前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見えたので、これを避けることで銃弾から逃れられたとのエピソードもある。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(※印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。