生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

高山寺 ~田辺市稲成町~

 「お弘法さん」と、土地の人たちに親しまれている高山寺は、紀南地方きっての名刹真言宗御室派の寺院で、聖徳太子の創建といい、太子堂には太子自作の像が、また御影堂には、弘法大師が糸田川の渕に自からの影を写して刻んだと伝えられる像が安置されている。

 

 熊野詣での途中、弘法大節は田辺の荘で、稲を背負った不思議な顔立ちの翁に出会った。国中を行脚していたお稲荷さんだった。すっかり意気投合した二人、神仏について話し合った。のち、大師が京都の東寺で修業していると、例のスタイルで、お稲荷さんがたずねてきた。そこで大師は大変喜び、丁重にもてなしたうえ、まつったという。


 高山寺近くの岩城山には、稲荷神社がある。お稲荷さんが、付近の谷で体を浄め、ここに鎮まったとか。

 

(メモ:高山寺には、南方熊楠の墓、合気道の開祖植芝翁の碑もある。国鉄紀勢線紀伊田辺駅から車で5分。稲荷神社は、そこから徒歩20分。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

高山寺

 

高山寺 <田辺市
田辺市稲成(いなり)町にある寺。真言宗御室派正面南山蘇悉地院と号す。本尊は阿弥陀如来会津川に臨む高台に位置する。創建は未詳だが、寛文6年(1666)の田辺領寺社書上帳田辺藩古記録/宇井文書)や元禄7年(1694)の田辺領寺社改帳(田所文書)などは、聖徳太子開創伝説を記し、寺内に弘法大師自作像を安置するという。児玉庄左衛門の「紀南郷導記(元禄年間成立)には「丑ノ方ニ糸田有り。此所ノ半バ南ニ御影ガ淵ト云フ有リ。昔弘法大師此淵ニテ御顔ヲウツシ、御影像ヲ彫刻シ給フ。其木像今勧修寺ニ有リ」という弘法大師像にまつわる話を載せる。現在多宝塔(文化13年建立)内に鎌倉後期作の木造聖徳太子孝養立像(県文化財を、また奥の院に室町中期の弘法大師坐像を安置しており、遅くとも南北朝期以前には存在していたと思われる田辺市誌)。古くは勧修密寺と呼ばれ6坊を並べていたというが、天正13年(1585)の豊臣秀吉紀州攻めにより、兵火にあい、寺宝・旧記のほとんどを焼失したという(南面山勧修密寺奕世年譜/高山寺所蔵、文化13年田辺領寺書上帳/田所文書)
(以下略)

 

  • 弘法大師高山寺お稲荷さん稲成神)と遭遇したという話について、「和歌山縣田邊町誌(田邊町誌編纂委員會 1930)」の「高山寺」の項では次のように解説されている。

高山寺
一、寺号宗派寺格所在地
 高山寺山号は正南面山、院号を蘇悉地院という。昔は勧修寺といい興算寺と改め後ち今の高山寺と改めた。古義真言宗仁和寺末、所在地は稲成村大字糸田

 

二、開創、沿革
(イ)草創の寺伝
 寺伝によると聖徳太子の御草創で、同寺の太子十七歳の木像は太子の御自作であるという。次いで弘仁七年(816)夏、弘法大師熊野遍歴の途、山下で異相の一老翁に遇い其稲荷神であることを知り、互に佛法を弘通し民衆を教化せんことを誓い、大師は山に登って聖徳太子の霊像を拝し、三密の秘法を修して合法久住を祈り、山麓の深淵に御影を写して真像を刻み、これを山上に安置して衆生結縁の懇誠をとめられた、現今境内御影堂の大師像は、此の大師自刻の霊像であり、御影をうつした淵を御影ヶ淵(俗に鏡ヶ淵という)と呼ぶ、と。 以上は寺傳の旧記、口碑であるが、真雅僧正弘法大師実弟十大弟子の一、大師に次いで高野山主たり、清和天皇の叡信厚く宮中に輦入を許された高僧)の「稲荷明神流記」に

弘仁七年孟夏之比 大和向斗藪之時。
紀州田邊宿異相老翁
其長八尺許、骨高筋太、
内含大権気、外示凡夫相
和尚快語、
神道威徳也、
方今菩薩此所、弟子幸也、
和尚曰、
霊山面拜之時誓約未忘、
此生他生形異心同、
秘教紹隆之願
仏法擁護之誓
請共弘法利生同遊覚台、云々

  筆者注:大意は概ね次のとおり
  弘仁7年(816)の初夏(陰暦4月) 空海が修業中の時
  紀州田辺の宿で異形の老翁に出会った
  身長八尺(約2.4メートル)ばかり、骨太な体格をして
  内には威厳を含んでいるものの、外見は平凡な姿に見えた
  空海を見て快活に言った。
   私は(以前出会った)神である。聖空海には威徳がみえる。
   菩薩(自らも修行をしつつ、衆生を救う仏)ここに至れり。(私の)弟子となるは幸いなり。
  空海曰く
   霊山でお会いした際の約束を未だ忘れてはいません。
   今生であれ他生であれ、姿形は変わっても心は同じです。
   には密教興隆の願いがあり
   には仏法擁護の誓いがあります。
   私の寺院(東寺のこと)でともに仏教を広め、衆生を救ってまいりましょう、云々

とあるから、単なる伝説と言い得ないと
※筆者注:本テキストは昭和46年(1971)発行の覆刻版(多屋孫書店)を参考にした。

 

  • 上記引用文中の「稲荷明神流記(正式には「稲荷大明神流記」)」は、東寺京都市に伝わる文書で、同寺と稲荷神との関係を記したもの。この文書について、宗教学者山折哲雄(やまおり てつお)氏は「「神」から「翁」へ : 基層信仰にかんする一考察(「国立歴史民俗博物館研究報告 2巻」国立歴史民俗博物館 1983)」において次のように書いている。ここではまた、高山寺とは直接結びつかないものの、「稲荷大明神流記」よりも先に成立した「稲荷記」という文献に空海が「田辺ノ王子」で稲荷大明神と対面した記録のあることが述べられている。

 「老翁」の姿で登場する稲荷神を記すもっとも古い縁起は、『稲荷大明神流記』といわれているものである。これはまた『稲荷流記』、『稲荷鎮座由来記』とも称され、これには空海の後嗣・真雅の著と記されている。しかしこれは後世の仮託であって、古写本の吟味により実際には鎌倉末期もしくは南北朝初期の成立とみられている。その記録の冒頭に、次のような「稲荷来影」の情景がでてくる。
(略)
 弘仁7年(816)、空海紀州田辺の宿で「異相老翁」に出逢う。その丈八尺、筋骨隆々として内に威厳を蔵しているが、外には常凡の風をみせていた。かつて二人は中国の霊山で面会し、「仏教紹隆」と「仏法擁護」を誓約しあった仲であった。のち弘仁14年(823)になって空海東寺を賜ったが、まもなくそこへ、紀州で逢った「化人」が稲を荷い杉の葉を提げて訪れる。かれには二人の女性二人の童児が従っていた。かれらは再会を喜び、東寺の「杣山」をトして利生の勝地と定めたという。
(略)
 稲荷明神の発生を物語る縁起としては、右の『流記』よりやや先き立つ時期に成立したものに『稲荷記(内題「稲荷ノ権現大明神ノ福徳敬愛ノ御本誓ノ事」)が存する。これは鎌倉中・末期の成立といわれるものであるが、しかしそこには「田辺ノ王子ニテ大明神ト和尚空海)ト御対面アリ」とのみ記されていて、大明神は異相をした「老翁」の姿をとってあらわれてはいない。ただそれにかわって、のちに空海が東寺を賜り、そこへ明神を招請したとき、稲荷大明神が「女躰」をとってあらわれたとしている点が異なっている。

 

  • 現在、稲荷信仰の総大社となっているのは伏見稲荷大社京都市であるが、有田市には同社の創建和銅年間(708 - 715)とされる)よりも前に稲荷神が鎮座したとされる糸我稲荷神社(いとが いなりじんじゃ)がある。文化7年(1810)、当時の神官・林周防寺社奉行に報告した「糸鹿社由緒」によれば、同社の創建は「37代孝徳天皇白雉3年(657)壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあることから、伏見稲荷神社の創建よりも50年以上前の出来事であったとされる。これにより、同社の社前鳥居には「本朝最初稲荷神社」の額が掲げられている。
    糸我稲荷神社|有田市公式ウェブサイト

 

  • 本文で岩城山にあると書かれている稲荷神社は、通称「伊作田稲荷神社(いさいだ いなりじんじゃ)」と称されている。和歌山県神社庁のWebサイトによれば、社伝では弘法大師がこの地を訪れた弘仁年中(810 - 824)の創建とされるが、異説もあり詳細は不詳という。

創立年代は不詳であるが、社伝によると鎮座は、弘法大師が熊野社参の弘仁年中(810 - 824)という。
紀伊風土記は旧湊村(近世の田辺町紺屋町)の稲荷社を当地に移したと記す。
また神社明細帳は、神武天皇の御代の鎮座と記す。
いずれにせよ往古の創立を語るもので、崇敬されていた神社である。
和歌山県神社庁-稲荷神社(伊作田) いなりじんじゃ(いさいだ)-

 

 


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。