生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

怪力獺田 ~田辺市稲成町~

  昔、稲成の里に、獺田(おそだ)というカの強い若者がいて、阿波の力自慢の相撲取りからカくらべを申し込まれた。そこで獺田は、そばの太い孟宗竹を二本引き抜き、二本の指で押しつぶして褌(ふんどし)をつくり、一本を相手に渡した。

 

 二人は声をはり上げて組み合ったが、たちまち阿波の力士は、獺田に目よりも高くさし上げられ、砂の中にめり込むほど投げつけられ、命からがら阿波へ逃げ帰った。


 話を聞いた阿波の親方連は「こんな強い男がいては、四国の力士はいつまでたっても天下一にはなれない」と相談。今後、紀州に強力な男が生まれないように、と熊野権現に祈願。大きな灯籠を、こっそり田辺の熊野権現(闘鶏神社)に奉納した。以来紀州からは、獺田のような怪力の男は出なくなったという。神社には今も燈籠が残っており「力封じ」の石燈籠と呼ばれている。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

地蔵寺 千田川吉蔵墓(詳細は下記参照)

 

  • 本文では、この物語は「獺田(おそだ)」という若者の物語として描かれているが、これを「獺田川(おそだがわ)」とする話があることに加え、「千田川(せんだがわ)」という実在の力士に関する伝承であるとする資料もある。これらが同一の人物をモデルにしたものであるのか、あるいは別々の人物の伝承が入り混じって混乱が生じたものであるのかは不明であるため、本項ではこれらを併記して紹介する。

 

  • 本文と同様の話は、日本児童文学者協会編「県別ふるさとの民話 和歌山県の民話偕成社 1980)」に掲載されている。ここでは若者の名は「獺田川(おそだがわ)」とされており、伊作田(いさいだ 現在の田辺市稲成町)獺田川の墓があるとされるが、この墓については不詳である。

獺田川(おそだがわ)  <伝説・田辺市
 むかし、田辺の伊作田(いさいだ 今の田辺市稲成町)に、獺田川いう豪力の若もんがおった。なんせえ、米俵の先に筆をむすんで、片手であんじょう持ち上げて字ぃ書いたいうから、なみの力持ちやありゃあせん。
 獺田川いわれて、紀州五十五万石はもとより、とおく和泉(今の大阪府南部)摂津(今の大阪府兵庫県にまたがる地方)四国にまで名のとどいた力相撲やったそうな。
 ある日のこっちゃ。四国の阿波(今の徳島県から身のたけ7尺(約2メートル12センチ)もあろうかとおもわれる若い大力士が、獺田川の家を訪れて、
お頼み申す。あっしは阿波の名もない田舎相撲でごぜえます。ぜひ、獺田川関とひと手お手あわせいたしたく、罷り越した次第にごぜえます。
と、大声で立ち会いを申し込んだんやと。
 あいにく、獺田川は留守で、縁側で石臼挽きやった老婆が、
それは、それは、遠路はばかりさん(ごくろうさん)でして。あいにく、倅めは山へ柴刈りに行っておらんけど、もうおっつけ帰って来る時分やさかい、まあ手あぶりでもして、一服しゃんせ。
いうて、奥から、ふた抱えほどもある大きな鉄火鉢を、片手で楽に下げて、持ってきたんや。
 年聞いたら、今年で90歳ちゅうこっちゃ。
 阿波の力士は青うなって、
こりゃあもう敵わん。90歳の老婆が、こんな力持ちやさかい、意気さかんの獺田川いうたら、どんなに強いやらわからん。命あってのものだねや。
 と、逃げ腰になるところへ、老婆が、
お待ちどうさん、お客人、どうやら、倅めが帰ってきあるあんばいじゃ。
いうから、よう耳澄まいたら、ズッシン、ズッシン地響きがして、はるかむこうから小山が、むっくり、むっくり動いて来るんが見えるんや。
 もう敵わん。阿波の力士は震えだして、
ちょっと、先に訪ねる所があり申して。お手合わせは、またこの次に。
いうて、逃げ出してしもうたと。
 ほどのう戻って来た獺田川は、惜しいことしたいうて残念がって、田辺の浜まで追っかけて行って
せっかくやさかい、是非ともひと手おあいて申そうかい。
と、阿波の力士を呼び止めたんや。
 いまはもう逃れる術もない。阿波の力士も覚悟を決めて、両力士は田辺の浜で立ち合うことになった。
 田辺の浜は、ひさかたぶりに獺田川の怪力を見んもんと、いっばいの人ざかりや。
 獺田川は早速、太い孟宗竹を二本引き抜いて、かるがるう二本の指で押しひしゃいで褌を二つこしゃえた
 阿波の力士も大きいが、獺田川はそれに輪ぁかけたくらいごっつうて、頼もしい。
 竹の褌を締めた両力士は、よいしょと睨みあい、掛け声いさましゅう張り合うたが、もう勝負にもなにもなりゃあせん。一息もせんまに阿波の力士は、いっぺんに目ぇより高う持ち上げられてしもうて、砂の中にメリメリッと、投げつけられてしもうたんや。
 阿波の力士は、命からがら逃げ帰ったと。
 この話を聞いた阿波の相撲取りの親方衆や、贔屓の旦那衆が、
こりゃあ、えらいこっちゃ。こんな豪力が紀州にいては、これからさき四国の力士が天下に名ぁ上げられん。
いうて、よう相談したんやと。
 ほいて、夜、こっそり、阿波から大きな石灯籠を舟で運んで、田辺の熊野権現鶏合宮(筆者注:いまくまのごんげん とりあわせのみや 現在の闘鶏神社)に奉納し、今後紀州に強い力士が現れんようにいうて、熊野権現に願をかけたんやそうな。
 ほいでかどうかわからんけど、その後、紀州には獺田川みたいな強い力士が出らんようになったちゅうこっちゃ。
 今でも田辺の闘鶏神社には、「元禄五壬申歳(1692)六月六日、施主阿州徳島」いうて記された、高さ一丈(約3メートル)近い力伏せ石灯籠が、苔むして残っとるし、伊作田(いさいだ)には獺田川の墓がある。
     <再話・正木肇
※筆者注:読みやすさを考慮し、原文のかな書きを適宜漢字にあらためた。

 

  • 昭和5年(1930)に発行された那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会)」にも同様の話が掲載されているが、題名は「千田川の怪力」となっており、獺田川ではなく千田川吉蔵という実在の力士の話とされる。

千田川の怪力(田辺)
 田辺町江川に昔千田川と言う角力(すもう)取りが住んでいて、当時日本でも有名な角力取りでした。四国にも強い角力取りが居て一度千田川と角力を取ろうと思って千田川の家へ来て見たが折悪るく、千田川は薪を取りに行った留守でしたので待っていた。
 と千田川の母がもう余程年を取っているのに60貫(筆者注:約225キログラム)位の火鉢をさげて来たので四国の角力取りがおそろしくなって帰ろうとしました。するとそこへ千田川百貫(約375キログラム)程の薪を持って帰って来たので再び驚いた。やがて会津川原の土俵でいよいよ角力を取ることになった。
 両力士が土俵に上ると見るまに、千田川片手で相手の男を高くさし上げて天か地か」と言うと、彼の角力取りは「天だ」と言ったので天へ高くほり上げられてもんどりうって地上に投げ付けられ、そのまま死にました。之を聞いた四国の角力取りの親類の者が田辺へ強い角力取りが出ないように闘鶏神社へ石燈籠を立てたそれからは強い角力取りが田辺地方に出ないのだそうです。
 さて千田川は大阪に出て当時の関取朝日山の弟子となったが、例の怪力でめきめき昇進して小結となり江戸に赴き徳川将軍の観覧を得てとうとう二代目千田川吉蔵と名のって天下に名を轟かした。
 或時千田川が錦衣故郷に帰った時、関取の力の程を見せて下さいといったところ、千田川が早速米一俵を借り受け、その先に筆を挿み墨をつけて、米俵を手にささげ千田川と軽々鮮かに書いて見せた、併(しか)し何といっても16貫目(約60キログラム)の米俵を手にしてのことだから千田川の川の字の最後の線がゆがんだそうである。千田川の碑は今元町金比羅権現の表通りにある。碑文は次の如くである。

 

千田川吉蔵の碑
力士通称吉蔵。千田川其号也。
考甚兵衛有七子。力士第六子也。
家世農。力士幼而有力。
容貌魁偉。骨法不凡。
殆有抜山之勢。及長不生産
乃去之浪速。学角觝於朝日山
朝日山所謂頭取者也。時力士年甫十九。
日夜奮励。能究其術
班藉累進至小結。後趨江都
大君之寓観。名声大噪於四方
実文政四年(筆者注:1821)也。吾候徴而賜以月俸拾口
越十一年(筆者注:1828)春正月疾而死於家。享年三十八。
于本所万精院
力士為人潔整尚気節義侠自任。
亦為世所一レ知也。
一男一女男先夭。官時賜二口米
以存其後焉。頃伝其技之徒。
其名之湮滅。相謀建碑于地蔵寺門外
以表歲時奠供之地云。
弘化二乙已年(1845)十二月曰
  北新町 甚助建之 

※筆者注:読みやすさを考慮し、適宜漢字及びかなづかいを現代のものにあらためた。

 

  • 上記引用文中に登場する千田川吉蔵について、個人ブログ「【偉人録】郷土の偉人」では、2017年1月9日付けの産経新聞和歌山版からとして下記のような記事が紹介されている。

江戸時代の大関、千田川吉蔵の墓 親方らが巡業で法要 /和歌山(産経新聞・2017/1/9)
 江戸相撲が隆盛となった19世紀初頭の文化・文政時代に人気を博した紀伊田辺出身の大関千田川吉蔵(1790~1828年)の墓が田辺市上の山2の地蔵寺(藤本密隆住職)の入り口にある。
大関は当時の最高位だったので、千田川は最強力士の一人だった
 幼名は熊吉。容姿はいかめしく、「山を動かすような勢い」と称された突進力の持ち主だった。
力士への道がひらけたのは、炭問屋の主人のおかげだった。
 千田川が店で炭俵を運ぶ手伝いをしていた時、最盛期は6尺2寸(188センチ)、35貫(131キロ)だったという巨体とパワーを目の当たりにした主人が「田舎に埋もれさせるのは惜しい」と考え、家族を説得したという。
 成人となる前に、家業の農業を継がずに大阪相撲朝日山部屋に入門。
 熊野潟(「熊の潟」とも伝わる)のしこ名で活躍した後、20代半ばでより大きな人気を得ていた江戸相撲へと活躍の場を移した。
 「千田川」にしこ名を改め、紀州藩の田辺城主、安藤氏のお抱え力士として一世を風靡(ふうび)したといわれる。
 しかし病を得て38歳の若さで死去。墓は、1845年に地元の素人力士たちの発起で建立された
 千田川の逸話は近年、絵本「怪力 千田川」に描かれ、2015年に田辺市であった大相撲巡業の際には、地蔵寺の墓の前で、現役親方らが参加して法要も営まれた。
 墓の刻文には「その名声が失われるのを防ぐために」と記されている。
 望みどおり、現在の大相撲の礎を築いた一人として認められているといえるだろう。
江戸時代の大関、千田川吉蔵の墓 親方らが巡業で法要 /和歌山(産経新聞・2017/1/9) : 【偉人録】郷土の偉人

 

  • Wikipediaには、「千田川熊藏(せんだがわ くまぞう)」のタイトルで次のとおり千田川についての記述がある。

千田川熊藏
 千田川熊藏(せんだがわ くまぞう、1792年 - 1828年2月22日(文政11年1月8日))は、大坂相撲朝日山部屋、真鶴部屋、玉垣部屋に所属した元大相撲力士第99代大関。のち千田川吉藏。本名は目良熊吉吉藏)。紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市)出身。188cm、体重不明。最高位は西大関

経歴
 大坂相撲を経て、1814年11月に関脇格で江戸相撲に加入、紀州藩の抱えであった。翌場所には大関に上がった。大関から陥落して2場所後に、四股名千田川吉藏に改めた。以後も三役、上位で実力を発揮したが病に倒れ、1823年2月以降土俵を離れた。1828年に現役力士のまま死去した。

 

成績
幕内16場所57勝36敗38休5分預15無勝負

 

改名
熊野潟千田川熊藏千田川吉藏
千田川熊藏 - Wikipedia

 

  • 千田川」の名は、現在も年寄名跡(としよりめいせき/みょうせき 力士が引退後に相撲協会の運営に携わるための資格・役職 現在は105の名跡がある)の一つとして現代に伝承されている。令和3年時点では、元小結・闘牙(とうき すすむ)年寄・千田川を襲名している。

 

  • 千田川の物語は「怪力 千田川」という題名で絵本にもなっている。田辺市立図書館のWebサイトでは、電子絵本としてこの物語を読むことができる。
    電子絵本 田辺市立図書館

 

  • 獺田獺田川)」の物語として語られるエピソードは、「千田川」の田辺時代のエピソードとほぼ同一と言って良い。しかし、いわゆる「力封じの石灯籠」がその刻字のとおり「元禄五壬申歳(1692)」に建立されたものであるとすれば、1792年生まれとされる千田川に由来するものとは考えられない。だとすれば、先に「獺田(獺田川)」のエピソードに基づいて石灯籠が建立された後、千田川の大活躍によって獺田(獺田川)の怪力譚があたかも千田川のものであったかのように伝えられていった、と考えるのが順当であろうか。ただ、そう考えると、「力封じの石灯籠」が建立された丁度100年後に「怪力 千田川」が誕生したことになり、皮肉な結果になったということもできるのだが。


*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。