生石高原の麓から

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からと岩 ~田辺市上秋津~

  会津をさかのぼると、岩と水のコントラストがすばらしい奇絶峡(きぜっきょう)に着く。その一角に、石の扉をぴったりと閉ざした岩穴がある。「からと岩」という。むかし、金の鶏を入れて石の戸を閉め、上に呪文を刻んで出られないようにしたものだとか。梵字らしいそれは、摩滅して読めない。

 

 あるとき、禅定坊という行者がここに住みついた。高い岩頭に仙人堂をつくり、滝に打たれたり、坐禅を組むなど、念仏三昧の行をする禅定坊に、里人は食べ物を喜捨したが、ある者が、石を焼いて食べている禅定坊を見かけたことから「石食い上人」とも呼ばれた。


 そのうち禅定坊は、「後世、この岩戸の文字を読む者があるならば、扉は自然に開くであろう」と言い残して穴へ入ったが、その後、呪文を読む人は現われず、重い石の扉は、コケむして、今も閉じられたままだ。

 

(メモ:国道42号線から約5キロ。紀伊田辺駅前発の龍神バスで、奇絶峡下車。春の桜、秋の紅葉が美しい。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

奇絶峡

 

きぜつきょう 奇絶峡 <田辺市
 田辺市上秋津にある峡谷。河口から約7km上流の右会津川流域で、「風土記」には「川中奇勝山峡をなすもの其間一里余にして秋津川其間を流る」とみえる。大小無数の奇岩の間を清流がほとばしり、春のサクラ秋の紅葉など、変化に豊んだ四季の渓谷美が展開する。大正末年にサクラが植えられて以来サクラの名勝としても知られる。古第三紀層の砂岩帯である三星山・高尾山の山塊に、先行谷状の横谷が形成され、河川勾配も急である。大正8年に開設された秋津川水力発電(筆者注:後に「関西電力株式会社川中口発電所」となり、平成16年(2004)廃止)はこの急流を利用したもの。奇岩の石質は硬く、石材や庭石に重用されたが、田辺南部海岸県立自然公園に指定(筆者注:昭和29年(1954)指定)されて以来、景観保護のため採石は禁止されている。昭和41年、滝上の絶壁に磨崖大仏(最大は7.3m)が刻まれた。これは堂本印象(筆者注:どうもと いんしょう 1891 - 1975 日本画家、1961年文化勲章受章)画伯が描いた三尊阿弥陀仏・観世音菩薩・勢至菩薩)を刻したもので、新たな景観の1つになった。一帯には文人墨客の句碑や歌碑、山地新道(筆者注:現在の上秋津地区から中山路地区への新設道路)の記碑もある。右会津川右岸を主要地方道田辺十津川線が通る。

 

  • また、現地には奇絶峡整備委員会が設置した奇絶峡の巨石群に関する説明板があり、次のような解説が記されている。

巨石群
 田辺領主、安藤帯刀直次紀伊頼宣の石塔に、この辺りの石が切り出されたことが、有名になり国学者等の来峡が奇絶峡の名の発祥となる。
 また明治40年、風景を維持するため奇絶峡保勝会が初声を挙げ、桜・紅葉等の植樹を行う。その後、岩道を歩く杖にと花杖を折られ、また牛馬を雇って岩石を持ち出す者も現れ、天然保護の為にと昭和5年、当時上秋津村長 雲表氏が初代保勝会長になり現在に至る。
     奇絶峡整備委員会

 

  • からと岩については、昭和59年(1984)に熊野路編さん委員会編により発行された「くまの文庫 12 石の仏たち(熊野中辺路刊行会)」の「奇絶峡のからと岩」の項に次のような記載がある。ここでは、岩戸に刻まれているのは「南無阿弥陀仏 元和6年(1620)12月上旬」という文字であるとする。

奇絶峡のからと岩(上秋津)
 右会津川の鷹尾山麓に四季の清遊の場として人々に親しまれた奇絶峡がある。この峡の上手に「からと岩」といわれる戸のような岩があり、わずかに文字が残っている。昔、金の鶏を中へ入れて石の戸を閉め、上に呪文を刻して鶏が出ぬようにしたといわれる。
 また、いつの頃か禅定坊という石を常食とした石喰上人ともよばれた行者が住みつき、入定は石の門をあけて中に入り「後世この岩戸の文字を読むものがあるならば門は自ら開くであろう」といい残したという話である。

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からと岩の刻字

 

  • また、現地には二種類の説明板が設置されており、それぞれ次のような解説が記されている。

からと岩
 往時この付近は熊野行者の行場であった
 行者の中には奇人も居ったが、其の中のひとりに焼石を喰いつつ荒行を続けた僧が居ったので、里人はこの人を石喰上人と呼んだという。石喰上人は後に川向う岸にある岩戸に入り「この戸に書いた字を呼んだ者があれば岩戸は自然に開いて中から黄金の鶏が時を告げるであろう」と遺言して入定したと伝えられる。
最近の調査によればそれは
  南無阿弥陀仏 
    元和六年十二月上旬
と読み取れるという
(熊野中辺路「石の佛たち」)

 

唐戸岩(からといわ)
 天の岩戸に似た扉型の岩壁があり、これを唐戸岩と呼ぶ。昔、この峡中に妖鬼が棲んでいて、白昼でも通行人を悩ますため、人々に恐れられていた。その頃、一人の僧が来て人々のために祈願して、法力を持って妖鬼を扉の中に封じ込め、後世この扉の文字を読むものが現れるまで出ることを禁じたと言う。石には、南無阿弥陀仏と年号が彫られていたが、昭和の終わり頃、はげ落ちて現在は確認することができない
   奇絶峡整備委員会

 

  • 田辺市上秋津地区で様々な地域づくり活動を実施している「秋津野塾」では、昭和59年(1984)に発行された「ふるさと上秋津 -古老は語る-」の内容をWebサイトで公開している。このうち、「奇絶峡の夢物語」という項で「からと岩」に関して次のような話が掲載されている。ここでは、本文にある禅定坊というのは人名ではなく、坊舎の名前であるとされる。

 行者の岩の入り口から、二三百歩上って、右手川を渡って向うに「唐戸岩」があります。神代物語の「天の岩戸」に似た扉が見えます。昔この辺りにが住んでいて、通行人なやますので、恐れられてました。その頃一人のお坊さんが通りかかって、ごきとうをして、鬼をこの扉の中に封じこんで、扉に文字を書きつけ、後々この文字を読んでくれるまで、出てはならんといましめました。或る人がこの文字を読んで終りに近くなった時、急に扉の中がうなり出したので、怖ろしくなって逃げてしまいました。
 またこんな話もあります。千光寺が焼けてから、三十年程も後のことです。千光寺をたずねて、高雄山に上りましたが、お寺は焼けてしまってありません。お僧さんは仕方なく、千光寺の隠居であった、禅定房に入って住んでいましたが、このお坊さんが亡くなる時この扉の中に入って、もし後々扉の文字をまちがいなく読んでしまった人には、この中にある宝物を全部あげる。しかし読みもしないで、開けた時には、どんなさいなんが起こるかも知れない。といましめたと言うことです。
秋津野塾 地域づくりで天皇賞を受賞した地域

 

  • 本文や上述の「石の仏たち」などの伝承に「金の鶏」が現れ、やや唐突な印象を受けるが、これは天岩戸神話に登場する鶏常世長鳴鳥 とこよのながなきどり 天照大神が天の岩戸に隠れた際に、戸を開けて大神を呼び出すために泣かせたとされる)と関連しているのかもしれない。

参考平凡社「世界大百科事典 第2版」の「鶏」の項より)
 日本で最初に文献にが現れるのは《古事記》においてである。天照大神天の岩屋戸に隠れ,世界がことごとく闇になったとき,八百万(やおよろず)常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を鳴かせ,天鈿女(あめのうずめ)に舞わせて,天照大神を呼び出す話で,鶏はまさに,太陽を呼び出すものとして立ち現れている。
常世長鳴鳥とは - コトバンク

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。