生石高原の麓から

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藤九郎神社 ~白浜町瀬戸~

 瀬戸浦にある小さな神社は、海の神さま。かつて田辺の沖を通る船は、海に供物を投げた。瀬戸浦の船主は、祭礼になるとノボリを立て、にぎやかに参拝したという。

 

 昔、箱船に乗った老人が瀬戸の浦に標着した。土地の西四郎太夫がこれを助けたが、老人はある日、近くの離れ島へ釣りに行き、ウツボにかまれて死んでしまった。そこで四郎太夫は手厚く葬むったあと神殿にまつり、代々神主をつとめたという。また、安達藤九郎盛長流罪となってここに漂着、神さまとしてまつられたとか。あるいは天皇の上陸場所ともいう。


 「紀伊風土記」によると、神体は「衣冠の木像」。小さな祠でありながら、元禄の「紀南郷導記」や享保の「鉛山記行」、万延の「西国名所図会」など、多くの古文書に紹介されているのは珍しい。

 

(メモ:温泉街から歩いて15分。近くに貝寺で有名な本覚寺があり、京都大学臨海水族館まで3キロ、また世界的粘菌学者、南方熊楠の記念館もある。)
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

盛長神社

 

  • この神社は和歌山県神社庁のWebサイトでは「盛長神社(もりながじんじゃ)」の名称で掲載されており、その由来について次のような解説がある。

 社伝によると、往昔うつろ船に乗せられた遺骸が漂着し、これを里人が丁重に葬り、毎日お湯を供えていたある日、神託があり「我は右大将頼朝重臣藤九郎盛長の霊なり、神として敬えば疫の悩みは守るべし」という。
 厄病流行で苦しんでいた里人は社祠を造り、崇敬したところ霊験あらたかであったという。
 文久2(1862)年の社寺書上帳によると、往昔四郎大夫宅の裏にあったという。
 江戸時代は安達藤九郎盛長宮明治元年盛長神社と改称。
和歌山県神社庁-盛長神社 もりながじんじゃ-

 

※筆者注:「うつろ船」は、日本各地の民俗伝承に登場する架空の舟で、「虚舟(うつろぶね)」、「空穂舟(うつぼぶね)」などとも呼ばれる。最も良く知られている事例は、享和3年(1803年)に常陸国(現在の茨城県)に漂着したとされるもので、いわゆる「UFO」のような形をした船に異国の女性が乗っていたと伝えられる。
参考:虚舟 - Wikipedia

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うつろ舟(Wikipediaより)

 

  • 上記の神社庁Webサイトによれば、同社の主祭神安達藤九郎盛長配祀神主祭神と同時に祀られる神)大江広元であるとされる。安達藤九郎盛長(あだち とうくろう もりなが 1135 - 1200)は、源頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕えていた武将で、鎌倉幕府成立後も頼朝の信頼が厚かったと伝えられており、上記伝承のように紀州へ流されたという事実は認められない。また、大江広元(おおえの ひろもと 1148 - 1225)も同様に源頼朝の側近を務めた人物で、紀州との特別な関係は伝えられていない。ちなみに、源頼朝の死後、鎌倉幕府13人の重臣による合議制により運営されることとなるが、安達盛長大江広元はいずれもこの合議のメンバーに加わっている。
    鎌倉殿の13人 - Wikipedia

 

  • 現地に設置された説明板には次のような解説が記載されており、同社の由来について、「安達藤九郎盛長にちなむ」、「漂着した髑髏(どくろ)を祀る」、「箱舟に乗って現れた老人を祀る」、「仲哀天皇ゆかりの徳勒津宮(トコロツノミヤ)に由来する」という4つの説を紹介している。

藤九郎神社
 社号は江戸時代においては「安達藤九郎盛長宮」といい、通称を「藤九郎さん」として地域で親しまれてきている。具体的な勧請の年代ははっきりとしていないが、「紀伊風土記」には寛文9(1669)年に再興の棟札ありとの記述が見える。また、明治3(1870)年3月に無格社に列せられている。
 祭礼については、江戸~明治時代には11月23日に行われており、大正時代には2月から3月にかけて、戦後から現在までは5月5日となっている。本社は海難を救う神として、近隣の漁師や船乗りの信仰を集めており、その若者たちによる奉納相撲が江戸時代から連綿と続けられてきた。最近では、子どもの部と一般の部にわかれ、多くの参加者で賑わっている。
 本社の特徴として、さまざまな由来や伝承が伝えられてきていることが挙げられる。

 

1.鎌倉時代の武士「安達藤九郎盛長」の霊を祀るという説
 安達藤九郎の墓と伝えられるものは全国各地にあり、白浜を訪れた資料もないため、直接的な関連は薄いのではないかと推察される。

 

2.髑髏を祀るという説(ドクロ→トクロと訛った)
 このあたりに髑髏が流れつき、その後いろいろな祟りがあったため、髑髏を祀ったといわれる。海難者との関連で興味深い説である。

 

3.瀬戸に漂着した箱舟から現れた老人を祀るという説
 古くは少彦名命(筆者注:スクナヒコナノミコト 常世(とこよ)の国から訪れる小さな賢神)に代表されるように、老人(賢者)が現れて様々な利益をもたらしてくれる伝承のひとつの類型であると考えられる。
 瀬戸(筆者注:せと 当地の地名)はもともと「迫門(せと)」(海峡の意)をなしていて、のちにそれが陸地となったものであり、海との関係が深いことが窺える。

 

4.仲哀天皇の行宮である徳勒津宮(トコロツノミヤ)が、訛って「トコロ」の宮→「藤九郎」の宮となったという説
 斉明天皇をはじめとして持統天皇文武天皇行幸が行われてきた当地においては、可能性として充分に考えられるものである。
 また、南方熊楠翁も同様の指摘をされている。

 以上のように諸説が唱えられているものの、そのどれもが確証があるものではないため、今後の研究の進展に期待したい。
 また、本社は江戸時代以降の近世文書にたびたびその名前が登場する。例えば、享保年間に成立した「鉛山紀行」、寛政年間の「熊野巡覧記」、天保年間の「紀伊風土記」、嘉永年間の「西国三十三所名所図会」などに記されている。
 このように多くの伝説や伝承に彩られている藤九郎神社は地域の歴史を今に伝えるとともに、地域の住民同士の交流の場としても活躍している。
    平成23年4月
          白浜町教育委員会白浜町文化財保護審議会

 

※筆者注:日本書紀によれば、仲哀天皇が狩のために紀伊国徳勒津宮に滞在していたところ、九州の熊襲(くまそ)が反乱を起こしたため、天皇はこれを討伐せんと徳勒津宮から九州へ向かったとされる。その後、九州で仲哀天皇が急死したため神功皇后天皇に代わって軍勢の指揮を執り、朝鮮半島に出兵した。これが俗に言う「三韓征伐」である。なお、通説では徳勒津宮は和歌山市新在家附近にあったとする。

 

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「瀬戸村」の項には同社に関する次のような記述があり、同社の由来については上記引用文にある諸説のうち「髑髏説」をとっている。

藤九郎盛長社  境内森山除地
  書馬堂  庁
村の乾(筆者注:北西)にあり
神体衣冠の木像なり
何の故に盛長を祀るか其事詳ならず
土人の伝えに昔盛長うつろ舟に乗りて此に来り住む
其葬地村中にあり
土人祠を此に立て祀るという
又或は伝えて髑髏宮という
土人甚崇敬し
舟に乗るもの尤も奉崇すとぞ

今按ずるに藤九郎髑髏の転にして其初髑髏の流れ寄りたるを埋葬せしに祟などの事をいい触らし村民等祠を立其霊を祀りしより髑髏の称呼転じて藤九郎盛長を附会ししならん 寛文9年再興の棟札あり 安達藤藤九郎景盛社とあり

 

  • 他の文献に登場する藤九郎神社の記述について、下記の個人Webサイトでは雑賀貞次郎著「藤九郎の話 : その他 温泉地説話(紀南の温泉社 1935)」に基づいて取りまとめられているので、ここから一部を抜粋して紹介する。また、ここでは瀬戸地区での口伝として、本文にある箱舟に乗った老人西四郎太夫との話が収載されている。

紀南郷導記(筆者注:紀州藩士・児玉荘左衛門が元禄年間(1688 - 1704)に記した地誌・案内記)
 瀬戸浦の山にトクロの宮と云うて社有り、華表より内にて木の葉一つにても取れば忽ち煩うと云う。この宮を誤って藤九郎の宮といへり頼朝卿の長臣盛長、この所に流罪せられ卒す、即ち神に祀りしと也

 

一夜船(筆者注:北条団水が正徳2年(1712)に記した浮世草子
 あるとき、神霊が巫女に乗りうつり、われは藤九郎盛長が霊也うつほ船にて流れより里人のために神にあがめられぬ。疫のなやみを守るべし、と告げた

 

閑際筆記(筆者注:儒学者藤井懶斎が正徳5年(1715)に記した随筆)
 或ヒト問ウ、邪神は是何物が成所乎、曰我レ甞テ諸レを先輩に聞ク、人を以て言ワンニ之ヲ、凡閭○の小人、身厳刑に羅リ、或は争闘に死シ、或は○抂に殺サレ、或は畏厭に歿せる物、其怨気結して不レ散して妖を為ス、人之ヲ察せず、祭リて為スレ神ト、紀州田辺藤九郎の祠の如キ是なり

 

鉛山記行(筆者注:南画家・祇園南海享保18年(1733)に記した紀行文)
 有社曰藤九郎、祠末知何神、渉海者遇風乃投銭物洋中愍祈、輙應、其銭物潮送之必致祠下
(筆者注:藤九郎という社あり、未だ何の神かは知らず。海を渉りて風に遇う者、銭物を洋中に投じて祈らば、すなわち応ず。その銭物は潮に送られて必ず祠下に至る)

 

本朝俗諺志(筆者注:俳人・作家の菊岡沾凉が延享4年(1747)に記した奇談集)
 綱不知神社紀州綱不知の山上に社あり藤九郎盛長の霊を祭ル、廻船碇をおろしてあがらざる事あり其節いつくもあれこの神に祈願すればかるく上ル、事神変也

 

ます穂のすすき(筆者注:詳細不詳)
 安達藤九郎盛長社は牟婁郡湯崎瀬戸浦に有、本朝俗諺志盛長の霊験の事を載、船人沖にて碇を失ハばこれ藤九郎神に祈請すれば必ズ海より浮クと云、又一説に瀬戸の藤九郎の社は古の徳勒津の誤也、日本書記仲哀天皇紀伊の国居徳勒津宮と有ルはこの所なるべし 音訓して徳勒津藤九郎と謬と云ウ 然シ共証実無シ暫く土人の口碑に随う

 

 さらに、文久二年の書上げをみると
縁起奮記無御座候故 勸請之時代相知不申候得ども 往古 四郎太夫居宅之裏に御座候 勸請せし由申伝ニ御座候 則此所を盛長宮奮地と□□□□(不明)不浄忌給ふ 此所へ御所持之品埋候山申伝ニ御座候」とある。
 これは文久の分しか残っていないが、もっと以前、恐らく元禄の頃からこういう書上げをしていたものと推察すべき理由がある。四郎太夫の家は姓を西といい、代々当主を四郎太夫という、藤九郎に神主として使へて明治に及んだ。いまもその家存し親族も多い。瀬戸で伝へいう、昔箱船に乗った老人が漂着した、祖先の四郎太夫がその老人を助け箱から出して いたわりかしづいたが、老人は喜んで四郎太夫に姓を西とつけ、毎日浦の遊び島という磯へ魚釣りに出かけ機嫌よく遊んでいたところ、ある日釣りあげたウツボに噛まれて死んだその老人を祀ったのが藤九郎さんであるという。遊び島は船をつけ又櫓や櫂がふれると祟りがあるといい、今も浦人はこれにふれぬように注意しているという。それから箱船は最初江津良の浜へ流れよったが、ところの人々は助け出さず、そのまま沖へ突き出したので、江津良の人が参拝し祈願すると、神さまは横を向いて知らぬ顔をするという。また藤九郎鎌倉幕府の創業に功績を立てながら、讒者のために瀬戸に配流されて年を経、ここに歿して神に祀られたともいう。
藤九郎さん 

 

  • 同社の由来を安達藤九郎盛長によるという説については、那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」にも次のような話として掲載されている。

魚釣の鼻(湯崎)
 湯崎の海辺 何時も魚釣に行く魚釣の鼻と言う所がある。そこで、もし道具をかく(磯に道具のつりが引っかかること)なればどんなにしても取れず、又其所へ舟で来て櫓をあてるなれば必ず大損害をうけると言う伝説がある。
 昔源頼朝公の御近臣安達藤九郎盛長と言う人があったが、頼朝公の勘気に触れて紀州へ流された。盛長は今の瀬戸の盛長山に一人住まっていた。この人は大層魚釣が好きで又上手であったそうだ。或日この盛長が今の魚釣の鼻-昔は何といったか、わからないが-そこへ行ったのだ。所が、どうしても釣れない。終には道具をかいてしまった。何年間と魚を釣りに行ったが上手な盛長もここで一回だけかいたのだ、そこで盛長が怒ってそれからは死ぬまで魚釣りに行かなかったそうだ。
 盛長の住まっていた所へは今もあるとおり、藤九郎盛長神社という祠が建てられた。それが今の村社である。

 

  • メモ欄にある「本覚寺」は、古くから漁師達より貝殻の寄進を受け蒐集していたことから、「貝寺」の異名を持つ。同寺の名前を冠した「ホンカクジヒガイ」をはじめ、約千種類3万点の貝を所蔵・展示している。紀州藩との関係も深く、紀州藩初代藩主徳川頼宜をはじめ、歴代藩主がたびたび同寺を訪れたとの記録が残されている。
    本覚寺|スポット|南紀白浜観光協会

 

  • 同じくメモ欄にある「京都大学臨海水族館」は正式には「京都大学白浜水族館」といい、組織的には「京都大学 フィールド科学教育研究センター 瀬戸臨海実験所」の付属施設として位置付けられている。同実験所のWebサイトでは、白浜水族館について次のように紹介している。

白浜水族館
 当水族館は、80年以上の歴史がある水族館です。もともとは、実験所での研究に必要な生物を飼育する施設でしたが、1930年の昭和天皇行幸一周年の記念式典を機に一般公開され、数度の増改築を経て現在に至っています。年間約6万人の入館者が訪れ、実験所で実施される多くの学生実習でも利用されています。
 展示している海洋生物は、全て白浜周辺で採取されたもので、常時およそ500種を展示しています。身近な磯や干潟の生きものから、水深数十mの刺網や釣り漁で採取された無脊椎動物と魚類を飼育しており、黒潮の影響の強い白浜周辺の海の生き物の多様性を間近に見ることができます。
瀬戸臨海実験所

  • 瀬戸臨海実験所に所属していた久保田信(くぼた しん)氏は、クラゲの一種であるベニクラゲが、成熟した後に再び未成熟のポリプの状態に戻ることによってひとつの個体が10回以上も成熟と若返りを繰り返すことが可能であることを確認した。この結果は「不老不死のベニクラゲ」として世界的に注目を集めたほか、国内でも大きくメディアに取り上げられた。同氏は、2018年3月末をもって京都大学を定年退官(退官時の役職は准教授)し、その後は一般社団法人ベニクラゲ再生生物学体験研究所を主宰している。
    久保田信先生|京大先生図鑑|探検!京都大学
    ベニクラゲ再生生物学体験研究所

     

  • 同じくメモ欄にある「南方熊楠記念館」は、南方熊楠(みなかた くまぐす)の業績を顕彰するとともに熊楠に関する膨大な資料の保存、公開および学術振興を図るために設けられた施設で、昭和40年(1965)に開館した。熊楠和歌山市出身の博物学者、生物学者民俗学者として知られ、晩年は田辺周辺で過ごした。「知の巨人」、「博覧強記の天才」と称され、中国建国の父と呼ばれる孫文と深い親交で結ばれていたほか、昭和天皇の紀南行のおり、粘菌類等に関するご進講を行った際にキャラメル箱に標本を入れて献上したエピソードでも知られる。南方の死後に白浜を訪れた昭和天皇は、熊楠を偲んで御製(ぎょせい 天皇が詠まれた和歌)を詠んだが、天皇が個人の名を入れた御製を詠むことは異例と言える。これについて、南方熊楠記念館に建立された「南方記念館建設之碑」には次のような碑文が刻まれている。

昭和4年6月1日 天皇陛下は御召艦長門に乗御供奉の那智 灘風外6隻を従えさせられ威風堂々南紀に行脚 田辺湾に御入港の際 本県が生んだ世界的大学者南方熊楠は湾内神島の御案内役を勤め 又御召艦上で生物学について御進講申し上げた 

神島には

 

一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森そ
(筆者注:沖の風よ、たとえ一枝といえども心して吹け 我が天皇の愛(め)でられた森であるぞ)

 

との赤誠(筆者注:せきせい 少しも嘘や偽りのない心)の歌碑がある その後昭和7年 陛下再び当地へ行幸の際 往年を御回想になり今は亡き南方翁追懐の御歌をお詠み遊ばされた

 

雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

 

吾等県民はこの君臣水魚の誉と南方翁の偉大なる業績を永遠に遺さんとし 風光絶佳しかも陛下の御思出深き神島を指呼の間に望むこの地を選び 常陸宮殿下の御鍬入れを賜り 総工費3600万円を投じて 昭和40年3月この記念館を完成 御製碑と両々相まって不朽の記念とした

   昭和40年4月 -南方記念館建設之碑

 
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。