生石高原の麓から

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救いの太刀 ~中辺路町(現田辺市中辺路町)道湯川~

  鎌倉時代岩神峠に狂暴な山賊が出た。この辺りは、熊野権現に通じる参詣路。参拝の旅人も絶えてしまった。このため京都の六波羅探題は、「山賊を退治した者には恩賞を取らせよ」と、ふれを出した。

 

 田辺の荘の湯川に住む武田三郎は、武芸に秀でた若者。熊野詣での女人に変装し、衣に太刀をしのばせて峠に向かい、現われた山賊と格闘した。ところが組み敷き、首をはねようとすると、太刀が見あたらない。そこで心の中で熊野権現を祈ったところ、不思議にも、賊との争いで遠くへはね飛ばされていた太刀が手元に戻り、無事、山賊を討つことができた。


 三郎は、この手柄で探題の激賞をうけたうえ、芳養の里に城を構え、湯川庄司忠長と名乗って民を治めたという。子孫はのち、日高の丸山に移り、十二代まで繁栄したとも。

 

(メモ:岩神峠(600メートル)は、野中から道湯川林道を通って北へ約20キロ。熊野詣での旧街道で、本宮まであと約20キロ。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

岩神峠(岩神皇子跡)

 

いわがみとうげ 岩神峠 <中辺路町
 岩上峠とも書く。西牟婁郡中辺路町にある峠。標高約670m。熊野街道で第一の険路である。熊野街道小広峠を下り、草鞋(わらじ)(約630m)を越え、栃ノ河を渡り、さらに当峠を越えて道湯川へ下り、湯川王子から三越へと向かう。峠の北側には岩神王子跡がある。草鞋峠の下りを女坂、当峠の上りを男坂といい、合わせて女夫(めおと)と呼ばれた。そして、中間の栃ノ河には江戸期仲人(媒介)茶屋という茶店があった。明治以後、道湯川への道は約600m南の新岩神峠国土地理院発行2万5,000分の1地形図に岩上峠671mとある)を通るようになり、本宮への道も現国道311号のように熊瀬川、四村川に沿って湯峰に下るようになったため、古道は廃道となった。昭和46年の西律氏の踏査により付近の古道と王子跡が明らかになり、現在は整備されている。


いわがみおうじ イハ神王子
 <中辺路町

[古代~中世]平安期から見える王子名。牟婁郡のうち。古くは石上とも書いたが、のちに岩神と記すようになった。小広峠より道湯川に至る熊野街道中辺路)沿いに位置する。初見は「中右記」天仁2年10月25日条で「次石上之多介、参王子許」とあり、藤原宗忠は社辺にいた飢えた老人に食を給したことを記している(大成)。源俊頼の家集「散木奇歌集」には「中宮亮仲実熊野へまゐりけるにつかはす」と詞書して「雲のゐる みこし いはかみ越えむ日は そふる心に かかれとそおもふ」という歌があり(群書15)、熊野路の険難の地として都の貴族にも知られていた。「明月記建仁元年10月14日条に「参近露王子・・・・・次中ノ河、次イハ神」と見え、後鳥羽院ら熊野参詣の一行が当王子社に参拝したことが知られる。鎌倉末期の「熊野縁起」に、当王子は新羅明神文殊師利菩薩とされ、また「仏生国鎮守」と注記されるなど比較的重要視された王子社であった(仁和寺蔵/神道史の研究 2)。なお、日高郡小松原の城主となった湯河氏の祖は、当地で強盗を退治した功により当地を封邑としてうけたという伝承がある(続風土記)。なお江戸期の地誌・紀行文の類には岩神峠の地名が散見する。また王子社は江戸中期までは存在したといい、王子社跡がある現在の中辺路町道湯川字岩神付近に比定される。

 

  • 本文中の「田辺の荘の湯川」は、現在の田辺市中辺路町道湯川地区を指す。上述の「角川日本地名大辞典」によれば、中世には単に「湯川」と呼ばれていたが、熊野本宮にある「湯川」地区と区別するために、熊野街道沿いにあることから「道湯川(どうゆかわ)」と呼ばれるようになったという。

どうゆかわ 道湯川 <中辺路町
 熊野川の支流四村川に合流する湯川川の上流域、笠塔峰要害森山の狭間に位置する。中世には湯川と称したが、地名の由来については、本宮町の湯川(下湯川)と区別するため、当地が熊野街道(中辺路)沿いであったことから道湯川と称するようになったという(続風土記)。「中右記」天仁2年10月25日条に見える「都千の谷」は(大成)、当地内の四村川上流付近にある栃ノ郷谷のことで、この谷は熊野参詣者の小休止の場でもあった。

 

  • 本文の物語について、熊野路編さん委員会編「くまの文庫3 熊野中辺路伝説(上)(熊野中辺路刊行会 1972)」では「山賊退治 - 救いの太刀」として次のように紹介されている。

山賊退治 - 救いの太刀
 岩上峠に鬼が出ると言われた。それは山賊の猛者であって、面相は鬼の如く髪をふり乱して殺気がみなぎっていた。時には村里へも立ち入ることもあるので、御幸路(筆者注:天皇・皇族らが通る道)の治安のために官兵をしばしば派遣された。賊は出没自在で、潜む場所も知ることができず、遂には熊野参詣の旅人もとだえてしまった。
 鎌倉幕府が京都においた六波羅探題は、このままでは捨ておけずと「この山賊を退治した者には恩賞を与える」との触(ふれ)を出された。

 清和源氏の末えいの武田三郎(別名=湯川庄司忠長は元来武勇にひいでて雄々しく思慮も深かった。「われ湯川村に住みながら、賤しき凡下によって多くの人の苦しむことはわれらが家の恥辱なり、いかでかこれを亡ぼさん」と決意し、熊野詣の女姿に身をやつし、衣の下には太刀を隠し、家来の平馬を下婢に装おわせ、袋を背おわせて後に随わせた。おぼろ月夜の山路を辿り行くと、はたせるかな、山賊が平馬の袋ものを奪い取ろうと飛びかかって来た
 三郎は衣を脱ぎ捨て、むんずと組み合い、互いにもみ合い、へし合いしているうちに、ついに谷底へところげ落ちてしまった。なおもいどみ合った末、ついに山賊を押さえ込み、首をかかんと太刀を探したが、いつのまにか刀身が抜け落ちて鞘ばかり残っていた
 三郎は驚きあわてたが、苦しいときの神だのみ、と心のうちで熊野権現を祈念し奉ったところ、不思議や岩の狭間に止まっていた太刀は、するすると三郎の間近にすべり落ちてきた。これ幸いと手に取り山賊に切りつけた。従者の平馬も馳せ下り、ともに山賊を討ち滅ぼしたという。
 この山賊の首を京都の探題の許へ持参し、その討取った次第を言上すると、探題は「まことにみごとなてがらなり」とごきげん斜めならず「日高郡安堵の御教書」を下された。
 三郎はその恩賞により牟婁と日高の境の芳養荘の「泊り」という地に城を構えて住み、故里の地名の湯川を姓とし、後には日高の丸山(筆者注:現在の御坊市に移り、十二代まで続いたという。

 

  • また、田辺市に合併する前の中辺路町が編纂した「中辺路町(発行:1988-1992)」では、「岩上峠の山賊退治」という題名で同様の物語を紹介している。その内容は、ほぼ上記引用文と同様のものであるが、三郎が与えられた恩賞については下記のように記載しており、日高郡ではなく牟婁内梅(ないばい 現在の田辺市芳養)の地を賜ったとする。

岩上峠の山賊退治
(略)
 武田三郎はその功により牟婁内梅の地を給い、城を築きここを根拠して、中世紀伊にその名を走せた湯川氏の祖となったという。

 

  • 上記「くまの文庫3」からの引用文において「清和源氏の末えいの武田三郎」とあるのは、三郎が、源義家八幡太郎義家)の末弟である源義光新羅三郎義光を始祖とし甲斐国(現在の山梨県を拠点とし甲斐武田氏(かい たけだし)の一統に属する者であることを指す。公益財団法人和歌山県文化財センターが制作したパンフレット「歩いて知るきのくに歴史探訪 ~湯川氏の故地を訪ねる~ 古絵図で歩く御坊駅周辺の文化財マップ 平成28年(2016)1月30日発行」では、三郎の出自と、その後の湯川氏の躍進について次のように紹介している。なお、このパンフレットでは、武田三郎の出自について、諸説あるものの武田範長の末子として甲斐の奈古に生まれた三郎忠長であろうとしている。 

 湯川氏清和源氏武田氏の流れを汲み、湯川の始祖については諸説があるが、武田範長の末子として甲斐の奈古(筆者注:甲斐源氏の祖とされる源清光(逸見清光、武田清光とも)の子・奈古(奈胡)義行 に連なる家系)に生まれた三郎忠長と考えられています。

 

 忠長は熊野道湯川(筆者注:現在の田辺市中辺地町道湯川)に入り、忠長を迎え入れた湯川庄司(筆者注:「庄司」は荘園を管理する下司(現地駐在の役人)の職名)の娘を妻として熊野に腰を据え、近くの岩神峠に出没する山賊を退治するなどして武名は近隣に鳴り響かせたそうです。その功によって六波羅探題から牟婁を賜り、牟婁一円を支配下におき、その後、芳養(はや 現在の田辺市芳養)に進出して内羽位(ないばい 芳養の地名、内梅ともの館を築いて新たな本拠としたそうです。そして、平井脇田らの家臣を従え、武田を改めて湯川を名乗ったとされています。

 

 室町幕府全盛期には幕府奉公衆として活躍し、戦国時代には日高郡亀山城を本拠として、紀州国人領主の旗頭的存在として勢力を振るいました。しかし、豊臣秀吉紀州を平定するため、天正13年(1585)に十万余の大軍を率いて出陣し根来寺を焼き討ちにし、太田城を水攻めにすると同時に、紀南地方の平定に着手しました。紀南に進攻した秀吉軍は湯川方の諸城や湯川氏の本城である亀山城を攻撃したため、亀山城を焼き払って熊野山中に退き抗戦を続けました。このことから、秀吉湯川氏の攻略をあきらめ本領安堵を条件に和議が成立しました。

 

 紀伊国は秀吉の弟豊臣秀長に与えられ、翌天正14年(1586)に湯川直春山本主膳とともに、大和郡山に和議のため参候した際に謀殺されたとされています。これにより、秀吉の紀州平定が完成しました。直春の死後、嫡子丹波守光春秀長に仕えて三千石を領しました。秀長の没後は、浅野家(筆者注:関ヶ原の戦いの後に浅野幸長和歌山城主となるが、その跡を継いだ弟長晟の代に、城の無断改修を咎められて改易となった福島正則に代わって広島城主となる)に仕えて安芸に移り宮島奉行を勤めました。湯川氏の家臣団は四散し、紀州の在地領主層も近世的封建体制に組み込まれ、紀南の中世は終焉を迎えました。

 

  • 甲斐国を拠点としていた武田氏紀伊国に進出した経緯について、「中辺路町(発行:1988-1992)」では次のように解説している。また、ここでは武田三郎を、武田信光の二男・武田信忠(通称:悪三郎)であろうとしており、上述のパンフレットの記載とは異なっている。
    ※筆者注:武田信光甲斐武田氏の第5代当主。二男信忠については、悪三郎という通称名の由来を含め詳細は不明。仁治2年(1241)、父・信光が、自らにかけられた執権北条泰時に敵意を抱いたとの嫌疑をはらすため、信忠を義絶する形で北条氏への服従の姿勢を示したとされており、このとき甲斐を離れて湯川へ移住したのではないかとの説がある。
    武田信光 - Wikipedia

(略)
 右の熊野別当滅亡後の熊野地頭等知行人の分布表(引用省略)に見られるように、公家と結んで散々手を焼かせた熊野に対する処置は、かなり厳しいもので、残党追補はもとより重要な家人衆の配置や、熊野に明るい旧国造族の起用など思い切った人事をしていることによっても、幕府の熊野統治への並々ならぬ決意の程が窺える。
 出自が平氏である北条幕府として同族である佐原色川潮崎など平氏出身の族を、配したことは当然として、源氏出身の熊野山検校衆を守護するような形で熊野本宮山と古くから関係のある甲斐源氏武田の族が本宮周辺に来住していることが注目される。
 武田新羅三郎義光の流れで甲斐国の豪族として八代荘(筆者注:現在の山梨県笛吹市とその周辺に館を構えていた。
 この八代荘は久安(1145)年中、甲斐国であった藤原顕時が熊野山の神験あらたかさに感じ、当時自分の荘園であった八代荘を、勅許を得て熊野本宮社に寄進していた。ところが長寛元年(1163)10月、新たに補任された国司がその代官などをして本宮山神領であるこの八代荘を傷人の上強奪する事件を起こしている。事件は史上有名な「長寛の勘申」となって、当時の一流学者による論争が展開され、“伊勢と熊野の神体、同体か否か”まで論ぜられる程の大事件となり、結局は八代荘は本宮に返され、国司以下の代官・荘官は処刑されている。
 甲州武田代々の所領や一族の館の多い八代荘でのこの事件は、熊野山と武田を深く結ぶに充分であり、後々武田の族が多く熊野に進出する太いきずなとなったことも考えられる。
 熊野山神領の八代荘は甲府盆地の中央に位置する穀倉地帯で、熊野山年貢米富士川を船で下り、武田信義守護職であった駿河から海路熊野に運ばれたに相違ないが、途中の伊勢には信義の子信隆守護職となっていたから、海路での海賊に対する警固は、武田氏や、源氏の同族村上(後の村上水軍の手によって、充分な配慮がなされていたと思える。
 長寛の勘文事件から60年、前述の承久の変の直後のころから、熊野に甲州武田の族が次々と来住し、本宮周辺に居を構えている。
 それら武田族の中で当時の熊野街道中辺路の、“岩神峠”に、出没して参詣者を苦しめた賊を退治したと伝える、武田三郎が最も有名である。
 武田三郎については諸説があって、生歿年も不詳であるが「武田系図」、『吾妻鏡』の記述から推定すると(1180 - 1250)のころの人物で、前の承久の変に勢田合戦で雄名を馳せる武田信光の二男武田悪三郎信忠であろうと思われる。

(略)

 熊野の警固について『明月記』には「南海の地頭等警衛の由」と見えて、その内容については明かではないが、このころ前述した甲斐源氏武田の族や、後の南北朝のとき活躍する武士たち新補地頭や、下司職となって来熊し、承久の変後の熊野山と熊野の警備に当たったと見れる。
 『群書系図部集』「紀伊武田系図」に、紀伊湯川の祖について、武田家弘の子、「川次郎範長」(川の上に道湯の二字脱か)とみえる。また日足に入った西氏の祖 武田四郎弘俊武田冠者政隆御本庄に居住しその地名を称した御本三郎武田師房)らが、新補地頭や熊野山警護人となって、幕府から派遣されて熊野に来住するのもこのころであろう。
 このころ熊野三山検校は、長厳の後をうけた定豪であったことは前述した。三山別当は安貞2年(1228)7月、琳快別当職であったが、同じ別当族の新宮覚遍によって下野国に流され、かわって快命(23代別当範命の子)が第26代三山別当に補任された。
 かくて熊野は三山検校、別当を始め、権力者は一新され幕府勢力に色濃くぬり替えられて、古来より独自の地位を保ってきた熊野は、もう往時の熊野ではなく初期的ではあるが、封権制度下における社会構成へと移行していった。

※筆者注:「長寛の勘申(ちょうかんの かんじん 一般的には「長寛勘文(ちょうかんの かんもん)」という)」とは、荘園の支配権をめぐって熊野三山荘園領主国司(地方役人)とが争ったことが発端であるが、朝廷から意見を求められた明法博士(みょうほうはかせ 現在の法学者にあたる官職)中原業倫が「伊勢と同体である熊野権現を侵犯したことから重罪に値する」との勘申(意見具申)を行ったことから、「熊野権現は伊勢神と同体であるか否か」を巡って大きな論争が展開されることとなった。
長寛勘文 - Wikipedia

 

  • 武田三郎の出自について複数の説があることについて、播磨屋が運営する個人サイト「戦国武将家一覧」中の「武家家伝 - 湯川氏」の項には次のように記載されており、江戸時代の寛政5年(1793)から文政2年(1819)にかけて発行された「続群書類従」中の「紀州武田系図」と「群書類従」の「武田系図」でそれぞれ記述が異なることや、江戸時代初期に文書化されたとされる「和州(若州)湯川彦衛門覚書」に「武田家の次男」とあることなどから、どの資料を典拠とするかによって見解が異なっているもようである。
    ※「群書類従」、「続群書類従」はいずれも江戸時代の国学者塙保己一はなわ ほきいち 1746 - 1821)が収集 した様々な古書を編纂してまとめ上げた叢書。「群書類従」は寛政5年(1793)から文政2年(1819)にかけて木版で刊行されたもので、「続群書類従」は明治35年(1902年)から活字本の刊行が始まり、全巻の刊行が完結したのは昭和47年(1972)のことであった。

湯川氏
(略)

 湯川の始祖については諸説があり、『続群書類従系図部集』の「紀州武田系図」では、奈胡義行(武田氏・初代信義の弟)の曾孫武田家弘の孫忠長に「湯川庄司・本宮住」と記して湯川氏の祖としている。一方、同じ群書類従の「武田系図」では信義の孫武田悪三郎信忠が、はじめて湯川を称したと記されている。また、江戸初期に文書化された『和州湯川彦衛門覚書』は、「湯川の先祖は、古昔甲斐国武田の次男なり。(中略)次男は甲州を立ち退き、紀伊の国熊野の内、湯川と申す所に城を構え居住す、湯川の先祖是れ也」と記している。いずれにしろ、湯川氏が甲斐武田氏から出たことには変わりがない。
武家家伝_湯川氏

 

 

  • 岩神峠付近の熊野古道は地滑りの兆候が見られるため令和2年現在通行禁止となっており、仲人茶屋跡~蛇形地蔵の間に迂回路が設けられている。


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。