生石高原の麓から

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救いの太刀 ~中辺路町(現田辺市)道湯川~

  鎌倉時代岩神峠に狂暴な山賊が出た。この辺りは、熊野権現に通じる参詣路。参拝の旅人も絶えてしまった。このため京都の六波羅探題は、「山賊を退治した者には恩賞を取らせよ」と、ふれを出した。

 

 田辺の荘の湯川に住む武田三郎は、武芸に秀でた若者。熊野詣での女人に変装し、衣に太刀をしのばせて峠に向かい、現われた山賊と格闘した。ところが組み敷き、首をはねようとすると、太刀が見あたらない。そこで心の中で熊野権現を祈ったところ、不思議にも、賊との争いで遠くへはね飛ばされていた太刀が手元に戻り、無事、山賊を討つことができた。


 三郎は、この手柄で探題の激賞をうけたうえ、芳養の里に城を構え、湯川庄司忠長と名乗って民を治めたという。子孫はのち、日高の丸山に移り、十二代まで繁栄したとも。

 

(メモ:岩神峠(600メートル)は、野中から道湯川林道を通って北へ約20キロ。熊野詣での旧街道で、本宮まであと約20キロ。)

 

※岩神峠は熊野古道中辺路の主要経由地であるが、平成 23年9月の台風12号の影響により地滑りの兆候が見られるため、現在は通行禁止となっている。熊野古道については、仲人茶屋跡~蛇形地蔵の間で迂回路が設けられている。

※武田三郎は、甲斐武田氏に属する武田範長の末子(新羅三郎義光の曾孫義行から数えて六代目)である三郎忠長とされる。忠長は甲斐の生まれで、熊野に移住し、当地の湯川庄司の娘を妻とした。本文にある山賊退治の功によって六波羅探題から牟婁郡を賜り、牟婁一円を支配下においた後、芳養(はや)に内羽位(ないばい)の館田辺市中芳養、旧林村)を築いて本拠とした。この武田三郎忠長がやがて湯川姓を名乗るようになったことが中世の日高地方を支配した国人領主湯川氏のはじまりであるとされる。(武田悪三郎信忠武田範長が最初に湯川氏を名乗ったとの資料もあり諸説あるものの、湯川氏の始祖が甲斐武田氏であることは間違いないとされる。)

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(※印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。