生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

大塔村と大塔宮護良親王

(「紀州 民話の旅」番外編)

 現在は合併により田辺市の一部となった「大塔村(おおとうむら  平成7年(2005)に田辺市中辺路町日高郡龍神村東牟婁郡本宮町と合併して新・田辺市となった)」は、昭和31年(1956)に当時の三川村富里村の一部・鮎川村の一部が合併して発足した村である。

大塔村役場(現在は田辺市大塔行政局)

 大塔村市町村合併により新・田辺市となってから発行された「大塔村史 資料編二(2007 田辺市)」によると、昭和31年(1956)、大塔村が発足するにあたって三川村長富里村長鮎川村長の連名で県知事あてに提出された「村を廃し村を設置する処分申請」において、「大塔村」という村名は公募に基づいて決定されたもので、「三村共にそれぞれ大塔の宮護良親王の遺跡、伝説数多く、三村どちらにも偏せず又全国的にも有名なゆかりの深い人の名」であることから採用したと説明されている。

昭和31年8月20日
   三川村長 堤 幸男
   富里村長 坂本新次郎
   鮎川村長 樫原扇一郎

和歌山県知事 小野真次殿

 

 村を廃し村を設置する処分申請
西牟婁郡三川村富里村鮎川村を廃し、その区域をもって、昭和31年9月30日を期し、大塔村を設置する処分の申請をすることにつき、別紙の通り議会の議決を経たので、地方自治法第7条第1項の規定により、関係書類を添えて申請いたします。

 

 町村合併により「大塔村」の設置を必要とした理由
西牟婁郡三川村、富里村、鮎川村の三ケ村の区域は、西牟婁郡の22%をしめる大面積を容し、囲繞する山林の中にあっていわゆる農山村として富田川筋に表玄関をもち、人情風俗相似て、古来より経済的、行政的に密接なる関係にあって共存共栄の道を歩んで来た。
而して近時交通機関の発達と道路網の完備による距離的な短縮は、相互のつながりの度を益々増加することとなり、今回これらの三ケ村を合併して、地方自治体の財政を強化し行政の合理化を図り、以って産業上経済上の一大発展を期すると共に、文化の交流と相俟って関係住民の福祉の増進に寄与する所以である。との意見の一致を見るに至り、ここに新村「大塔村」を設置することになった。

 

新村名選定の理由、新事務所の位置及びその位置決定の理由
1 新村名選定の理由
西牟婁郡三川村、富里村、鮎川村の三村合併は、合体合併である為新たに村名を選定することとなり、合併促進協議会に於て種々協議の結果、一般村民より公募に依り「大塔村」と決定した
新村「大塔村」は三村共にそれぞれ大塔の宮護良親王の遺跡、伝説数多く、三村どちらにも偏せず又全国的にも有名なゆかりの深い人の名を取り「大塔村」と決定したのである。
(以下略)

 

 当地に伝わる大塔宮護良(おおとうのみや/だいとうのみや もりなが/もりよし)親王の伝承のうちで最も良く知られているが「餅つかぬ里」の故事であるが、これを含め、当地と大塔宮との関わりについて、社団法人日本土木工業協会(現在は他団体と合併して一般社団法人日本建設業連合会関西支部の広報誌「しびる Vol.18(2001)」の特集「大塔村 水呑峠」に次のような記事が記載されていたので参考に引用する。

大塔宮護良親王の熊野落ち諸説
 時は中世、南北朝へといたる乱世の時代のことです。
 権力を強め、専制化を進める北条氏に武士層の支持は失われつつあり、また二つに分裂していた皇統の対立など、不穏な時代を予感させた鎌倉幕府末期。大塔宮護良親王は1308年(延慶元年)、後醍醐天皇の皇子として生まれます。
 彼は鎌倉幕府の意向に沿い、元服の儀を行なわずに、門跡として比叡山延暦寺に入りますが、その様子は「一を聞いて十を知るたぐいまれな御器量、真理を把握して即座に仏智となす才能は花と開いて・・・ 」といわれるほどに才知・人望に優れた人物であったようです。
 1331年8月、比叡山幕府軍の攻撃を受け、親王楠正成赤阪城(現、大阪府千早赤阪村へと逃れます。
 同10月、赤阪城落城親王熊野をめざし落ちていきます(太平記「大塔宮熊野落事)。なぜ、熊野へ逃れたのかについては、高野山に拒まれたための窮余の策であった説、また楠正成の叔母近露村(現、中辺路町近露)の豪族、野長瀬(のながせ)に嫁いでいたためとする説(滝川政次郎著「熊野」)などがあります。
 また、熊野への行程についても紀伊の海岸線から切目王子を経て熊野古道の中辺路から熊野本宮へと向かう行程清水孝教木村鷹太郎著「十津川郷士」)、また奈良の吉野か五条あたりから天川峠を越え十津川の奥の北山をめざしたとの説大西源一著「大塔宮熊野落考」)など諸説あります。多くは切目川に沿って東進し、現在の龍神村柳瀬荘から十津川に至った「紀伊風土記」の説を重視しているようです。これらの説に対し、大塔村に残る大塔宮熊野落の伝説を辿ってみましょう。

 

熊野古道の裏道を辿る隠密行程
鮎川から水呑峠、そして静川へ
 親王の熊野落ちの諸説について、追手の目をくらますためには隠密行動であり、いわゆる”影”による偽装工作だったのかもしれません。しかし、大きな街道を避け、人里離れた山路を辿ったことは想像にかたくあり ません。
 大塔村に残る親王の足跡とは、切目川沿いの集落、印南町上洞(かぼら)から南下し、田辺市上芳養(かみはや)日向(ひなた)から馬我野(ばがの)を経て大塔村鮎川に出る裏古道の経路です。それぞれの地には、大塔宮親王にまつわる伝説が残されていますが、たとえば、馬我野という地名は、この地に辿り着いた大塔宮が疲れた馬を放ち労をねぎらったことに由来するといわれています。
 さて、1331年(元弘元年)、親王一行鮎川王子に着きます。ここから一行は、水呑峠を経て下川下からさらに奥地へ、安川渓谷を遡り、熊野本宮を仰ぐ村、静川(しずかわ)へと経路をとっていきます。

 

深山幽谷の地に残る数々の伝説
 大塔宮の足跡を偲びながら、今も残る伝説の数々を拾ってみましょう。
 大塔宮の従者で先導役をつとめていた侍が、小川のヒヨというところで空腹と疲労のため行倒れたといい、それを祀る小さな祠がひっそりと残っています。
 また、大塔宮が鎌倉で殺された後、隠れ人(諜報者)も処刑されますが、村人が山の中に墓を建て祀ってきたという、三人武士の墓。小川地区に伝承されている盆踊りは大塔宮を供養するためのものといわれています。
 小川の剣神社大塔宮を祭神とし、親王の御剣を神体としていますが、この由来は、小川に夜毎光るものがあり、村人たちは大いに恐れますが、大塔宮の剣であることを知り、これを祀ったというものです。この神社は明治40年住吉神社に合祀されています。また、安川には剣神社跡がありますが、これは親王が京都に還るにあたり、家臣に剣を遺したが、家臣の子孫が鮎川村に転じるにあたり、剣の柄を遺したとされる柄塚が下川下に残っています。
※筆者注:現在住吉神社に合祀されている「劔宮」の由緒では、護良親王が鎌倉で拘禁された際に追手から逃れた家臣・竹原兵庫守(十津川で親王を助けた竹原八朗(後述の五條市大塔村の項を参照)の弟)が、かねて親王から拝領していた宝剱を御神体として小川の地に熊野劔宮を創建したと伝えられている。
住吉神社:熊野の観光名所

 

餅つかぬ里と水呑峠の由来
 鮎川・小川の村は「餅つかぬ里」と呼ばれています。山伏の姿に身を変え、険しい悪路を越え鮎川に辿り着いた護良親王の一行は、空腹に耐えかねていました。折りから、村は収穫を祝う亥の子祭りで、家々では餅をつき、軒には粟餅が吊るされていた。「せめてこの餅を・・・ 」と家臣は村人に食べ物を求めます。しかし、すでに村には「落人には食をあたえてはならぬ」という幕府の厳しいお触れがいきわたっており、どの村人もかぶりをふるばかり。一行は一片の餅すらも手に入れることができませんでした。さて落人の身の如何ともし難く、谷水に空腹を凌いだという言い伝えに、その名を残す水呑峠の由来です。後日、あの山伏たちが親王の一行であったことを知った村人たちは大いに恥じ、悔い、爾来、餅をつくことをやめてしまい、「餅つかぬ里」と呼ばれるようになります
 おもしろいことに、この「餅つかぬ里」伝説は「紀伊風土記」で親王が辿ったとされる切目から十津川に至る街道沿いの諸村にも残っています
 1333年、宮は十津川から吉野に移ります。同年、吉野城落城。翌年(建武元年)、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、改争にまきこまれた大塔宮は捕らわれ、鎌倉に幽閉されてしまい、ついには殺されてしまいます
 この後も、世は平安からは程遠く、建武の新政に失敗した後醍醐天皇吉野に逃れ、南北朝の対立が深まっていきます。
 権力を求める政争の世にあって、運命に翻弄された大塔宮の物語は、鄙びた山村の風景に哀しくも華やかな彩りを感じさせてくれます。


コラム
600年目の餅つき
 昭和10年夏の各新聞には、「餅つかぬ村大塔村600年ぶりに餅つきを再開したという記事が載っている。これは7月25日京都嵯峨大覚寺における護良親王600年御遠忌法要、また鎌倉宮で8月13日から3日間行われる600年大祭に、鮎川村代表らが参列。その際、600年の風習を破り、はじめて餅をつき、これをお供えし過去の許しを乞うというもの。村ではこれを機に正月の餅つきの行事が再開したという。
※筆者注:鎌倉宮明治2年(1869)に明治天皇の勅命で創建された神社。同社の詳細について本項で後述する。

社会法人 日本土木工業協会 関西支社 -しびる 2001年発行 Vol.18-

 

 「大塔村史 通史・民俗編田辺市 2011)」の「民俗編 第七章 大塔宮伝説と劔神社」には、「大塔宮600年祭」の項があり、上記引用文にある「600年目の餅つき」の詳細が記載されている。これによれば、600年祭を契機として「餅つかぬ里」のエピソードは全国的に広く知られるようになり、アメリカでも紹介されたことがあるという。「大塔村」の発足はこれより20年ほど後のことであるが、600年祭において地域住民の崇敬の念が全国から高く評価されたことが新村名の決定に影響を及ぼした可能性は充分に考えうることであろう。

大塔宮600年祭
 「六世紀の風習を破り、お詫びの餅献上」と見出しを付け、鎌倉宮で行われる大塔宮600年祭の一逸話として、大祭前の昭和10年8月13日付けで『時事新報』が「紀州鮎川の一寒村が600年の風習を破って、餅をつき同宮大祭に献ずることとなった」と報道している。これは大塔宮熊野落ちにかかわる鮎川村字小川の説話によるもので、食を求めた落人が大塔宮とは気づかず、施すことができなかった。後に宮と知った村人は大変悔み、以後正月といえども餅はつかず謹慎していたが、大塔宮600年祭を機に村民代表が、神前に餅を供え、祖先の非礼の許しを請うたのである。餅の奉献を取り持ったのは、鮎川村出身で大阪在住、平賀三郎(大塔宮から劔を賜ったとされる宮の側近)の子孫といわれる田上憲一である。8月19日に、内務・宮内・文部・海軍・陸軍各大臣、神奈川県知事・鎌倉町長の祝辞に続き祭文を田上憲一が奏上して、祖先の非礼を謝罪し、村人は今後も餅を食わないと誓った。この慣習を紹介した南朝史蹟研究家下村清次郎(大阪)、鮎川村住吉神社(劔宮)の宮司音無定三、祖先が親王から横矢の姓を賜ったといわれる近野村村長横矢球男も参拝していた。この逸話は新聞やラジオ放送で報道され、大塔宮600年記念大祭鎌倉宮の記録に、追記として扱われたのである官幣中社鎌倉宮社務所編「六百年記念大祭記録」)
 昭和10年来日した、日本研究者であるアメリカ人女性へレン・ミアーズ鎌倉宮で見たセレモニーのことを英文の「日本国天皇」という論文で発表していると、中村政則著『歴史のこわさと面白さ』所収の「餅なし正月の謎を追う」に紹介されている。鮎川村からの代表者が餅を供えて、600年前の皇子への非礼に対して謝罪したことは、アメリカでは想像できないことで、皇族に対しへき地においても、村人が懐(いた)く根強い畏敬(いけい)の念を象徴することで、「天皇崇拝は近代日本における最も重要な政治的仕掛けである」としている。村の代表の行為が中央で注目を浴び、それがミアーズの目にとまり論文の一部となった。村人の思いが意外な面に展開したといった感がある。 

 

 また、那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」ではこの地にある大塔峰大塔山 おおとうざん  1,122 メートル)の命名の由来として大塔宮の故事を次のように紹介している。

大塔峰(富里)

 東に大塔 海抜二千尺(筆者注:約606メートル)、西水蚕(筆者注:不詳 「海」の意か)、南半作(筆者注:半作嶺(はんさみね) 894メートル)に はてなき熊野三千峰 げに大塔峰こそどういう由緒で此名を得たか?。これこそそのかみ吉野朝庭南朝の勢衰え給うに及んで大塔宮護良親王は時勢のやむを得ないのを考え給うて、都から遙々と山伏の姿に身をやつして紀州川添村(現在の白浜町日置川地区)を通り、富里村の東いわゆる大塔峰にお逃げあそばされてここにしばしお忍びになったので此名がある。
 やがて宮は又大塔峰より下り出でられる時、麓の劔山と言う所に御剣をお置きなされて、行かれたと。我らの祖先はこれを恭しく祀り奉ったのが今の劍神社だ。劍山の前に立った時これが宮の形見かと思うとそぞ涙がにじみ出て当時を追懐せずには居られない。

※筆者注:読みやすさを考慮し、漢字及びかなづかいを適宜現代のものにあらためた。

 

 上記引用文では大塔宮がこの地を訪れたのは「南朝の勢が衰えた頃」としているが、いわゆる「大塔宮熊野落ち」とされる事件は建武の新政以前の出来事であり、南朝が成立したとされる建武4年/延元2年(1337)には既に大塔宮は死去していた(1335没)ことから、この記述は信憑性の低いものと言わざるを得ない。

 ちなみに、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「市鹿野荘」の項では「大塔峰」の名の由来について次のように記述されており、「大きな多和(たわ 山が撓(たわ)んだところ、峠)」が地名の由来であろうとしており、大塔宮伝承については触れていない。

大塔峰

(略)

山頂二峰をなす
北にあるを一の森と称し
南にあるを二の森という
大塔大多和の義にして
二峰の間 
大なる多和をなすを以て
大多和といいしが転じたるなり

 

 県内には、大塔村以外にも大塔宮に関連する故事、伝承を有する地は多い。本ブログでも、別項「軍道の腰神さん」、「野長瀬一族」で取り上げているので、こちらも参照されたい。
軍道の腰神さん ~印南町崎の原~ - 生石高原の麓から
野長瀬一族 ~中辺路町(現田辺市)近露~ - 生石高原の麓から

 

 現在は奈良県五條市に合併されたが、かつては奈良県にも大塔村(おおとうむら)があった。奈良県大塔村命名の経緯について、五條市のWebサイトでは次のように紹介している。

大塔宮護良親王について
 後醍醐天皇の皇子として建武中興の大業に活躍された大塔宮護良親王(だいとうのみやもりよし(もりなが)しんのう)については、太平記などに詳しく紹介されているところですが、護良親王が熊野へ隠遁されようとした折に当地域に差し掛かり、熊野から十津川奥にかけての豪族であった「竹原八朗」「戸野兵衛」の助けを得て建武の中興を実らせたことは、明治22年の旧大塔村誕生時、村名を大塔村としたほどに地域の誇りとするところです。

(略)

大塔宮の名を村名に
 こうした歴史の舞台となった大塔地域は、護良親王を助けた史実を郷土の誉れとし、明治22年の旧大塔村政発足時には、村名を大塔宮の呼称にちなみ「大塔村」としたのでした。ただし、「だいとうむら」としては宮に対して恐れ多いとの思いから、読みは「おおとうむら」としたのだと言われています。

www.city.gojo.lg.jp

 


 南北朝時代末期にあたる元中9年/明徳3年(1392)、南朝の第4代天皇である後亀山天皇は京都へ赴いて後小松天皇に神器を譲渡し、南北朝の合一が成立した(明徳の和約)。この時点では、皇位は「両統迭立」とされており、後小松天皇の後は南朝系の皇子が皇位を継ぐことが定められていたが、現実には南朝系の天皇が誕生することはなく、この時点で南朝は事実上消滅したということができる(いわゆる「後南朝」の動きが散発的に史上に登場するものの、政治体勢に大きな影響を与えることはなかった)

 

 これ以後、現在に続く皇室の血脈は北朝を継ぐ者で占められていることから、江戸時代末期までは後醍醐天皇をはじめとする南朝方の皇族やその家臣らは「朝敵(朝廷に敵対する者)」と位置づけられてきた。ところが、幕末の「尊皇攘夷」論の思想的原動力となった「水戸学(第2代水戸藩主・徳川光圀が編纂した歴史書大日本史」を基礎とし、第9代藩主・徳川斉昭が発展させた)」では、南朝こそが正統に皇位を継承したものであると主張していたことから、明治維新によって尊王思想が主流を占めるようになると、北朝に与した足利尊氏と戦った楠木正成新田義貞らを「忠臣」「勤王(朝廷のために働くこと)」として大いに讃える動きが活発になった。中でも、明治15年(1882)に宮内省が全国の学校に頒布した「幼学綱要」において、「忠節」の項に楠木正成・正行親子の物語が掲載され、続いて明治20年(1887)には当時の文部省が編纂した教科書「尋常小学読本六」において後醍醐天皇楠木正成の物語が27ページにわたって取り上げられた※1ことから、楠木正成「朝敵」から一転し、優れた忠臣として絶大な知名度を獲得することになる(形式的には、永禄2年(1559)に正親町天皇から楠木正成を朝敵から除外する勅免が出ている※2
※1 塚﨑昌之「明治期以降、河内・摂津における「楠公遺蹟」の「発見」と「創造」 -「臣民」教育・地域振興・観光-(大阪大谷大学 教育研究 第46号(2020年度))」学会誌 | 教育学会 | 教育学部 | 大阪大谷大学

※2 朝敵 - Wikipedia

 

 このように、幕末期における尊王思想の爆発的拡大によって南朝の忠臣の再評価が行われることと軌を一にして、南朝の初代天皇である後醍醐天皇の皇子であり、足利尊氏と最後まで対立した大塔宮護良親王社会的評価を復権させる動きが現れた。その嚆矢となったのが、明治天皇による鎌倉宮かまくらぐう 神奈川県鎌倉市の創建である。同宮は、護良親王が幽閉されていたという東光寺(廃寺)の跡地に、明治2年(1869)、明治天皇の勅命によって創建された神社である。同社のWebサイトには創建の経緯として次のような説明が掲載されている。

 明治2年2月、明治天皇建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。
 親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられました。
 なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮行幸遊ばされました。
 お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっております。

鎌倉宮について


 奈良県大塔村が誕生したのは明治22年(1889)のことであるが、当時は上述のように南朝復権の真っ只中にあったと言ってもよい時期であり、大塔宮護良親王楠木正成尊王思想の体現者として絶大な人気を誇っていたであろうと考えられる。和歌山県大塔村が誕生したのは昭和31年(1956)であり、これよりは随分後のことになるものの、この時点でもなお、依然として大塔宮の伝承が多くの人々を惹きつけるだけの大きな魅力を有していたと考えることができるだろう。