生石高原の麓から

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将軍山 ~大塔村(現田辺市)中の俣~

 日置川町との境界にある将軍山(標高748メートル)には、日下義龍一族の屋敷跡が残っている。戦いに破れた義龍が、家臣と共にかくれ住んだという。

 

 義龍はここで山を開き、ヒエやアワを栽培したり、イノシシやウサギを追って、細々と暮らしていた。しかし「いつか、この平和な生活も、敵に見つかって破滅するのでは」という不安におびえていた。


 ある日、見張りの兵が、はるか峠の鳥の群れを敵軍と勘違いし、報告を受けた義龍は「ついに来るものが来た。大軍と戦っても、とても勝ち目はない」と、家財を家臣に分け与え、夫人と共に近くの滝ツボに身を投げた。家来の多くも後に続き、淵には、ヨロイをまとった兵士の遺体が重なったという。

 

(メモ:中の俣地区は集落再編事業などで廃村同様となり、民家はわずか1軒。村役場から南へ約18キロ。地区を流れる川は「将軍川」。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

将軍神社(白浜町竹垣内の将軍川沿いに所在するが、日下将軍との関連は不明)

 

  • 将軍山(しょうぐんやま)は、旧大塔村(現在の田辺市大塔地区)と旧日置川町(現在の白浜町日置川地区)にまたがる山。「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」によれば、特定のピークの名称ではなく、山並一帯を指して「将軍山」と呼ぶとする。また、本文にある日下義龍について「楠木正成に追われたとも、信州から来たともいわれる」と解説している。

しょうぐんやま 将軍山大塔村・日置川町>
 西牟婁郡大塔村と日置川町にまたがる山。新生代第三紀砂岩層で、大塔山地から延びる支脈にある山。地図には748mの地点を将軍山としているが、実際には700~800mの尾根が連なり、主峰がないため土地の人々も山並み一帯を将軍山と呼んでいる。緩やかな山並みで尾根には平坦地が多く、幼年期の山容を呈する。山並み一帯は植林され、手入の行き届いた民有林が広がり、尾根近くにはアカガシ・スダジイ・サカキ・シキミ等多種の自然林が残る。また紀州寒蘭の産地として全国的に知られる大塔山系の自然)。地名の起源は日下将軍義竜謙徳とも)が部下とともに都落ちし、当地に居を構えたことに由来するという(三川村郷土誌)日下将軍は楠木正成に追われたとも、信州から来たともいわれる。付近には屋敷跡茶坊主の宮の伝承地もあり、また将軍川将軍滝の地名も現存する。渓流は入り組んでいるが、急流は少なく、数少ない急流の1つ将軍滝日下将軍の投身自殺した場所といわれる。鳥の飛ぶ姿に敵の来襲を感じた部下の報告で、末路を知った将軍は部下を解放し、滝に身を投じた。将軍滝では、旱魃の際村人は将軍をたたえ、獅子舞をまわし、「空は晴れても水田は乾く、雨を下され義竜さま」と歌って雨乞をしたという南紀の俚俗)

 

  • 本文の物語について、熊野路編さん委員会編くまの文庫3 熊野中辺路伝説(下)(熊野中辺路刊行会 1972)」には「将軍滝」という題名で次のように収載されている。

将軍滝
 大塔村と日置川町の境に標高748メートルの将軍山がある。日置川の一支流である将軍川は、この将軍山の西のすそを流れており、上流に日下将軍にまつわる悲壮な物語を伝えている将軍滝がある。
 昔、戦いに破れて熊野に落ちのびてきた日下将軍義龍という者がこの山に隠れ住み、家臣と共に山野を開いて、稗(ひえ)や粟(あわ)を作ってひっそり暮らしていた。だが、常に心にかかるのは、追手がいつくるかということであった。それで、毎日烏の森に見張り兵を出して、敵軍が来襲して来ないかと監視を続けていた。
 ある日、見張り兵は、はるか彼方を烏の群が飛ぶのを見て、敵軍の物の具の光と見違い「敵襲でございます」と大声で将軍に報告してきた。驚いた将軍は「ついに来るものが来た。万事休す。とうてい勝つ見込みがない」と思い、家臣一同に家財を分け与え、自分は夫人と共に滝壺に身を投じてしまった。家臣の中には主君のあとを追って殉死する者が多く、下流大瀬戸小瀬戸には大勢の死体が重なり合い、よろいの袖が流れ着いたといい伝えられている。
 日下将軍を中心とする落人の一団がひそかに暮らした所は稗糠の森と呼ばれていて、稗などを作って飢をしのいだことがうかがわれ、またお屋敷跡と呼ばれる所が、日下将軍の屋敷のあった跡だとされている。
 将軍滝はあまり高くないが、滝壺が広く、紺碧の水をたたえている。日照りのときは、この滝で雨乞いをすれば雨が降るといわれ、以前はここで獅子舞をして
   空は晴れても水田は続く
   雨を下され義龍さま
と歌い舞ったものである。

 

  • 昭和5年(1930)に三川村昭和31年(1956)に富里村の一部・鮎川村の一部と合併して大塔村に、大塔村は平成17年(2005)に田辺市龍神村中辺路町・本宮町と合併して新・田辺市になった)が編纂した「三川村郷土史」には、「将軍川」という題名で同様の物語が収載されている。ここでは、この物語について「わずかな書物の断片や墨書の一滴すらも史実考証の助けとなるような資料は残されていないものの、単純な伝説とは異なり、この地方の人々の心に歴史的感激を起こすことによって史実以上の価値が認められる」と記されており、残念ながら日下義龍という人物の実在を示すような資料等は一切残されていないとする。

将軍川
 日置川の一支流にして、川添、三川の両村を貫流する将軍川の上流に有名なる将軍瀧あり。
 瀧は余り高かねど、瀧壺の広さ驚くべく、紺碧の水常に漣(さざなみ)を打つて岸を洗ひ其の深さ幾丈なるを知らず。
 是ぞ日下将軍の悲壮なる伝説を残せる所にして、お屋敷跡は宏壮なる邸宅のありし昔を偲ぶに足るべく、稗糠の森は日下将軍を中心とせる落人の一団が、稗を作つて飢えを凌ぎし事実を首肯せしむるに余りあり。
 更に茶坊主を祀れる茶坊主の宮、哨兵を置いて敵の襲来を監視せしといふ烏の森を踏査するに及んでは縦令(筆者注:たとえ)断簡零墨(筆者注:だんかんれいぼく わずかな書物の切れ端や墨の一滴でも)の以て史実の考證を助くるに足るものなしと言えども、単純なる伝説とは異なりて、此の地方の人々の心に歴史的感激を起さしむることに依つて、生きたる史実以上の価値を認めざるべからず。
 往昔日下将軍義龍謙德ともいふ)といへる武将、戦破れて落ち来り将軍山に居を構へ、山野を開いて稗を作り之を以て飢を凌ぎ、家臣を毎日交代に烏の森(前の川と将軍川の分水嶺をなし四方を展望することを得)に哨兵を派し、敵軍の来襲を監視せしめたりしが、或日遥か向ふの山に烏の飛べるを見て敵軍の物具の光と思ひ誤れる哨兵は、馳せ帰つて将軍敵軍来襲の旨を報じたり。
 将軍は到底勝算なきを思ひ、我が事終れりと観念して、家来一同家財を分ち与へ自ら奥方と共に身を投じて死す
 殉死する者亦(また)多く瀧の下流瀨戸小瀨戸の難所には数多の死骸重なり合ひ、下流鎧淵には鎧の袖流れ来りて沈めりと言ふ。
 此の将軍の瀧に旱魃(かんばつ)の時雨れ乞ひをすれば降雨ありとて、付近の村々にては、旱魃の時は爰(ここ)に来りて獅子舞をなし。
   空は晴れても水田は乾く
          雨を下され義龍様
と歌ひ舞ふといふ。現今この歌、おどりなどは止みたるも、獅子舞をなす事は今も昔と変らず。

※筆者注:「三川村郷土誌」は、「和歌山県大塔村交流サイト」において公開されており、上記は同サイトからの引用である。三川村郷土誌 −和歌山県旧大塔村交流サイト

 

  • 上記「三川村郷土誌」と同年に発行された那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」にも同様の話が「将軍滝の由来」という題名で収載されている。しかしながら、ここでは伝説の主を「一人の将軍」としており、日下義龍の名前は登場しない

将軍瀧の由来(富里)
 富里村の方から流れて来る大川があります。其の大川と三川村日向口と言う所で落ち合って居る川が乃ち此の伝説を作った将軍川であります。其の将軍川を段々と遡って行くと其処にはかなり大きな瀧があります。鞺々(とうとう)水は瀧壺に落ちこんで水煙が濛々と四辺をこめて居ります。此の瀧が昔から人の口に言い伝えられて居る将軍の瀧であります。其の昔何所かの戦に敗れた一人の将軍がかなり沢山の家来をひきつれて此所に人目をしのぶ落武者となったのです。落武者は何かにつけて心配の多いものですから、其所で米のとぎ汁を川下に流さなかったということです。
 又将軍は家来を串という所の向側にあたる烏の森という所に使わして敵の襲来に備えて居りました。それは寒い日も暑い日も年が年中見張りをするのでした。けれども此将軍の武運がつきたのでありましょうか。家来が或る日の事、相かわらず警戒して居ると、何に驚いたのでしょうか、沢山の烏が一時にぱっと飛び立ちました。そして其の黒々としたぬば玉の羽が日光をうけてきらきらと鎧の金具の様に輝きました。
 これを見た家来がいちづに敵を警戒していたものですから、すぐと敵が襲来したものだと思い込んでしまいました。そう考えると川の流れの音、木々をわたる風の音でさえ敵の作る鬨の声と聞きました。そこで大あわてにあわてた家来は早速息せき切って走り帰りすぐとこの事を将軍に言上しました。此れを聞いた将軍とうとう武運の尽くる時が来たのだと怨を残して家来共と一緒に瀧壺に入水して敢えない最後を遂げたのです。其の時に愛犬を抱いて瀧壺へ飛び込まれた。犬は陸に上ろうと頻りにもがき泳ぎまわって、そこらの石にかきつきました。そして其のかいた爪痕が今も歴然と残っています
 それから幾年かの星霜を経ました。瀑は昔とかわりなくとうとうと瀧壺に落ち込んで濛々水煙を上げて居ます。それから将軍の瀧という名がつけられました。そしてそこに源を発して流れている川を将軍川と言って居ます。尚又不思議なことは村に旱魃が続いた時に此の瀧に参詣するときっと雨を降らしてくれます。
※筆者注:読みやすさを考慮し、漢字及びかなづかいを適宜現代のものにあらためた。

 

  • 日置川町が平成8年(1996)に発行した「日置川町誌」には「ひきがわのむかしばなし」という書籍からの引用として「将軍の滝」という題名で次のような話が収載されている。ここでも将軍の名前は登場していないが、時代については「鎌倉時代末のこと」としている。

将軍の滝  (将軍)
 将軍川の上流、竹垣内集落の上手に「将軍の滝」と呼ばれる滝がある。
 今から650年ほど前鎌倉時代末のことだといわれる。
 この滝の近くに、敗戦の将軍が30人ほどの一族とともに落ちのびてきた。
 いつ、敵が攻めよせてくるか、との不安におびえながら常時山の頂上に見張りを立てて生活をしていた。
 見張りは、川原の石を一個ずつ見張りの山に持ってあがった。このとき積みあげられた小石の山が頂上にあるということである。
 ある日のこと、竹垣内の向かいの山から、何かにおびえたようにたくさんのカラスが飛び立った。これを見て山頂の見張りの者が「たいへんだ、敵が向こうの山まで攻め寄せてきた!」と報告をした。
 これを聞いた将軍は、一族を集めて戦いの準備をしたが、見張りの報告は「寄せ手は大軍である」ということである。
 将軍たちは「今はこれまでだ、これ以上逃げ迷うより、いさぎよく死を選ぼう」ということとなり、一族ことごとく滝に身を投げて死んでしまった。
 これ以来、この滝を「将軍の滝」、ここから流れる川を「将軍川」と呼び、この滝の下流の渕に鎧がかかっていたということで「鎧が渕」、竹垣内の向いの山を「カラスの森」と呼ぶようになったということである。
   (『ひきがわのむかしばなし』)

 

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「竹垣内村(現在の白浜町日置川地区)」の項には次のような記述があり、将軍川の名の由来は「将軍宮」という石の宝殿(詳細は不明)によるものであろうとしているが、その「将軍」については「大将軍を祀りしなるべし」とあるばかりで、具体的な伝承については触れられていない。

竹垣内村
(略)
将軍川の源にして山深く
村境東西の長さ三里に及ぶと云う
瀧あり 其下流将軍宮という石の宝殿あり
大将軍を祀りしなるべし
故に瀧を将軍瀧という
将軍川の名此に起れり
※筆者注:読みやすさを考慮し、漢字及びかなづかいを適宜現代のものにあらためた。

 

  • 上記「三川村郷土誌」の記述にあるように「日下義龍」に関する資料は一切残されていないようであるが、古座川町の三尾川地区には「日下」の姓を持つ旧家がある。この家について、上述の「紀伊風土記」の「三尾川村」の項には次のように記述されているが、この古座川の日下氏が日下義龍と関係があったかどうかについては定かではない。

三尾川村
(略)
○旧家   日下幸内
家系にいう
永正年中(1504 - 1521) 
日下左近将監 
信州より潮崎荘安指浦に和深浦の小名)着岸し
当所に来り 土居を構えて居住す
其後裔 大荘屋を勤む
今 医家となる
不動木像一体を蔵む
厨子
 應永十一甲申十二月廿三日 
 願主 藤原信近道衛御敬白
とあり又赤旗二流を蔵む
別家に 地士 安之右衛門為助あり
○地士 二人
  日下安之右衛門
  日下為助
※筆者注:読みやすさを考慮し、漢字及びかなづかいを適宜現代のものにあらためた。

 

  • メモ欄にある中の俣地区の現状については、下記の個人サイト「村影弥太郎の集落紀行」中の「中ノ俣」の項で紹介されており、現在は完全に無人となっているようである。
    中ノ俣(大塔村)
  • メモ欄中「村役場」とあるのは、現在「田辺市大塔行政局」となっている。

 
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。