生石高原の麓から

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名馬・興禅寺号 ~上富田町市の瀬~

 紀州藩主に佛の道を説いた富山第二世良遂宗真和尚は、海蔵寺第四世住職を経て、上富田の興禅寺に隠住したが、田舎の不便な暮らしを案じた藩から「興禅寺号」という馬を贈られたという。

 

 興禅寺号は実に賢い馬で、和尚が外出するときは、装束を見て乗りやすいような姿勢をとった。いなないて来客を告げたし、使い走りも任された。首に徳利と手紙をぶら下げて、トコトコ酒屋に向う興禅寺号を見かけると、村人たちは、こぞって背中に人参や大根などをゆわえた。


 和尚は元禄9年(1696)11月15日、80歳で遷化したが、その前日、興禅寺号に「お前も固いものが食えなくなった。ワシが死んだら、ワシのところへ来い」と話しかけ、村人には「馬が死ねば、同じ墓に埋めてほしい」と告げた。和尚の死後、興禅寺号は馬屋から一歩も外に出ず、49日目に静かに息を引き取ったという。

 

(メモ:興禅寺は国道311号線市の瀬バス停から約500メートル。名馬の墓には、いまも香煙が絶えない。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

興禅寺の達磨坐像

 

こうぜんじ 興禅寺 <上富田町
 西牟婁郡上富田町市ノ瀬にある寺。臨済宗妙心寺派山号大雄山。本尊は釈迦如来日本一の大達磨があるところから別名だるま寺ともいわれる。平安期の昌泰元年(898)に竜統が開いたと伝える(別伝興禅寺歴代記覚/上富田文化財12)。鎌倉期の永仁5年(1297)、根皆田の峰ケ原に移転し法灯を維持したといい、興禅淵という地名が峰ケ原付近に残る。文明元年(1469)禅宗になった(同前)。戦国期、当地松山城主の山本氏の帰依を受けたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉紀州攻めの際、兵火にかかり焼失。中ノ岡に再建されたが、宗派は定まらず妻帯僧や山伏が住持を勤める状態が長く続いた(同前)。江戸期の寛文6年(1666)7月に臨済宗妙心寺末の海蔵寺田辺市)の東竜東湛が現在地に移し再興。以来妙心寺の末寺となった(興禅寺覚書/上富田文化財12)。当時境内には本堂・庫裏・観音堂などがあり、4町(筆者注:約436メートル)四方の山林を有した。田辺領主安藤直清は中興3世良遂宗真に帰依し、宗真のために知足庵を建立。扶持方米も給したという。慶長元年(1596)3月2日付紀州熊野田辺市野瀬山本之文書をはじめとする多くの古文書(町文化財)を所蔵する。
※筆者注:かっこ内の西暦は筆者による。

 

  • 名馬・興禅寺号の物語については、熊野路編さん委員会編「くまの文庫3 熊野中辺路伝説(下)(熊野中辺路刊行会 1972)」に「和尚に仕えた馬」という題名で次のように記載されている。

和尚に仕えた馬
 上富田町市ノ瀬興禅寺第二世良遂(りょうつい)和尚は、学識と徳望の聞こえ高い禅僧で、紀州藩南龍公(筆者注:紀州徳川家初代藩主徳川頼宣(1602 - 1671)のこと)田辺藩安藤帯刀(筆者注:紀州藩附家老・田辺藩初代藩主安藤直次、及びその直系である通称・安藤帯刀家の当主をいう。ここでは、主に田辺藩4代藩主・直清(1633 - 1692)を指していると思われる)も帰依していたという。
 和尚は紀州公から贈られたという名馬を飼っていた。興禅寺号と名づけられ、長年和尚に仕えてよく働いた。和尚を背に乗せて往来するほか、付近の村や十数キロ離れた田辺への使い走りもした。時には炭俵や米俵を背につけ、時には徳利を首にぶらさげ、また時には手紙を首につけて走った。人々は興禅寺号の通るのを見て、野良仕事の手を休め、帰りにはよく人参や大根などを背や首にくくりつけてくれた。
 馬小屋にはかんぬきもなく、放し飼いで、夜は小屋の中の上段で寝たが、早朝勤行の鐘が鳴る頃になると、いち早く起きて本堂の前で静かに読経を聞いていた。来客があると一声大きくいなないて告げ、和尚や小僧もその鳴き具合で用を判じた。和尚が葬式や法要で外出するときにはその装束を見てとって、玄関の脇にうずくまって乗り易い姿勢をとり、外から帰ったときもひざまずいて和尚を下した。
 良遂和尚は元禄9年(1696)に80歳で遷化(筆者注:せんげ 高僧が亡くなること)したが、亡くなる朝、興禅寺号に「わしが死んだらお前もすぐ来いよ」といい、また弟子たちには「興禅寺号をわしの墓のそばに埋めてやってくれ」と頼んだ。和尚の葬儀の際、興禅寺号は葬列のひつぎの横にうなだれて付き添い、人々の涙をそそったという。
 和尚の死後、馬小屋から一歩も出ず、食べものもとらず、和尚の四十九日の法要の朝、眠るように静かに死んでいった。時に元禄10年1月3日であった。馬にしては異例の葬儀が行なわれ、付近の寺僧や村の人々が大勢参列した。
 良遂和尚の遺言通り、和尚の墓のそばに葬られ、「名馬興禅寺号之墓」には、今も時々香煙が煙っている。

 

  • また、昭和52年(1977)に宇治書店から発行された荊木淳己著「むかし紀の国物語」には、上記の物語を典拠とした「名馬興禅寺号」という話が下記の通り掲載されている。

西牟婁郡上富田町の昔話》
名馬興禅寺号   出典=くまの文庫
 西牟婁郡上富田町市ノ瀬というところに興禅寺というお寺があります。その開創は遠く藤原時代にさかのぼり、現在の啓堂和尚で35代を数えるのです。
 このお寺は、またの名を、“だるま寺”とも申します。なぜ、“だるま寺”というのでしょうか。それは今の啓堂和尚が昭和38年に、私たちの紀州から太平洋戦争に参加して、異国の土に化した英霊3万柱の御魂を慰めるため、三万三千三百三十三体のだるま像、を揮毫(きごう)することを決心し、すでに二万体余りの揮毫を終えており、かつ境内には太平洋戦争の戦蹟地1123カ所に詣でて、その地の土をもち帰り、これをぬりこめて作った高さ8メートル余りの日本一の“だるま像”が建立されていることから、遂に“だるま寺”と呼ばれるようになったということです。
 さて、この興禅寺の裏山に、第25代住職であった良遂和尚のお墓があります。良遂和尚は徳の高い名僧として知られており、紀州の初代藩主徳川頼宣公や、田辺城主であった安藤帯刀などの帰依(きえ)も厚かったと伝えられています。
 良遂和尚の墓が安藤帯刀によって建立されていることから見ても、これらのことは容易にうなずけましょう。
 この良遂和尚の墓のそばに、あたかも寄りそうようにして、一基の苔むしたお墓があります。その表側の下半分には、一頭の馬の姿が浮彫りにされており、上半分には「名馬興禅寺号之墓」と刻まれています。
 どうやらお馬の墓のようですが、それにしても和尚のお墓の傍に、お馬のそれが建てられているのはどうしたことでしょう。
 これには生涯を通じた人と馬とのほほえましいエピソードが残されているのです。良遂和尚に深く帰依していた紀州公は、ある日、一匹の名馬を寄進しました。法事などに招かれて、遠い山道を往来する和尚を送り迎えするように・・・という思召(おぼしめ)しからです。
 この名馬は、寺の名に因(ちな)んで「興禅寺号」と名付けられましたが、まことに賢い馬でした。和尚が出かける時には、チャンと装束を見てとり、玄関の脇にうずくまって乗り易い姿勢をとり、外から帰ってきたときも、うずくまって和尚が下りやすいようにするなど、そこらの人間も顔負けするほどの賢さです。
 そして用事のある時には、近くの村や田辺の城下までお使いをするのでした。ある時には手紙を書いてもたしてやると、帰りにはその背中にチャンと炭俵や米俵を積んで戻ってきます。
 またある時には、徳利を首にぶらさげてお酒を買いに行ったり、手紙を運んだりするなど、その働きは本当に人間以上で、和尚さんも我が子同様に可愛いがっていました。
 村人たちも「興禅寺号」がポカポカと道を歩いているのを見かけると、馬の好物である人参や大根などを背中や首にぶら下げてやるのが常となりました。
 すっかりなついた「興禅寺号」は、ますます賢さを発揮しました。
 馬小屋にはカンヌキもなく、放し飼いで、夜は小屋の中で休んでいますが、夜が明けてきて、勤行を知らせる鐘が鳴り出しますと、本堂の前へやってきて、お経の読む声にじっと聞きいっています。
 来客があると「興禅寺号」は一声、大きくいななきます。
 よくよく慣れてきますと、その声にもいろいろな調子があり、表の方からか裏の方からも訳ってきて、馬の鳴き具合で、和尚さんも小僧さんも大体の用事の見当をつけたというのですから、そこらの飼い犬も尻っ尾を巻いて
こりゃ、かなワン、かなワン
と啼いたとか、啼かなんだとか・・・という有様です。
 こうして「興禅寺号」は、一山はもとより村の人たちの人気の的になっていました。
 元禄9年の秋も深まる頃から、良遂和尚は床についている日が多くなりました。和尚も、もう80才になっていたのです。
 亡くなる日の朝、和尚は杖にすがって馬小屋までたどりつくと
興禅寺号や、わしが死んだらお前もすぐに来いや
と云い残し、やがて弟子たちに見とられながら息を引きとりました。
 亡くなる前まで馬のことを気にしており
興禅寺号はわしの一番の友達じゃ。あいつが死んだら、わしの墓のそばに埋めてやってくれよ
というのが遺言になりました。
 和尚の葬儀の時には、興禅寺号はその柩(ひつぎ)のそばにうなだれて付き添い、人々の涙をそそったということです。
 その日から興禅寺号は、馬小屋から一歩も出なくなりました。
 そして好物の人参も口にせず、和尚の四十九日の法要が営なまれる日の朝、眠るように死んでゆきました。
 元禄10年1月3日のことと伝えられます。
 その心根を哀れんで、馬にしては珍らしい葬儀が営なまれ、付近の寺の僧侶や村人たちが沢山お詣りをしたそうです。
 往時茫洋・・・・・・良遂和尚と興禅寺号は、いまも仲良く天国で遊んでいることでしょう。

 

  • 本文中で良遂和尚興禅寺の前に住職を務めていたとされる海蔵寺は、現在の田辺市南新町にある臨済宗妙心寺派の寺院。慶長10年(1605)、浅野左衛門佐氏重(あさの さえもんのすけ うじしげ 関ケ原の合戦後に和歌山藩の初代藩主となった浅野幸長(あさの よしなが)の執政で、田辺城を築城し同地の事実上の領主となった)が建立したもの。同寺について「角川日本地名大辞典 30 和歌山県」には次のように記述されており、安藤帯刀家との関係が深かったことが伺われる。

かいぞうじ 海蔵寺 <田辺市
 田辺市南新町にある寺。臨済宗妙心寺派山号は慈航山。本尊は釈迦如来。慶長10年(1605)田辺領主浅野左衛門佐の創建。尾張国春日井郡如意村の瑞応寺(愛知県名古屋市に住していた叔父の天叔を迎えて開基としたという(寛文6年田辺領寺院書上/宇井文書)。また慶長15年(1610)の創建ともいう田辺市誌)天叔は由良の興国寺日高郡由良町を復興したことで知られる日高郡誌、興国寺文書/県史中世2)。元和5年(1619)、和歌山藩浅野氏の転封で左衛門佐安芸へ移った後、一時無住となったが、新領主安藤直次駿河国臨済静岡県静岡市の千厳の法を継いだ大秀宗智招請して以来、寺運は興隆。歴代住持が法系の拡充に努め、付属寺院8、末寺24を有するようになった田辺市誌)
(略)
寺宝として、県文化財の木造菩薩形坐像(14世紀作)を所蔵。弁慶の父といわれる熊野別当湛増屋島の合戦の時戦勝を祈願して船に安置したものと伝え、弁慶観音ともいわれる。

 

  • 昭和5年(930)に発行された那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会)」には、「良遂大和尚」という題名で名馬・興禅寺号の話とともに良遂和尚が海蔵寺から興禅寺に移った際のエピソードなどが収載されている。

良逐大和尚 (市之瀬)
 良逐和尚は今より凡そ270年前の人である。和尚は肥前の人で海蔵寺に住職をなしていたが或事の為に郷里に帰ろうとして寺を出立した。
 そして富士城(筆者注:現在の海南市藤白のことか)という所迄来た時 丁度 安藤帯刀公がお通りになった。帯刀公と和尚は兄弟の如く非常な親しみをもって交際していたので、帯刀公は直ちに輿よりおおりになっていうのに、「其所を通るは良逐でないか」とお尋ねになった。和尚はしたしく帰郷の事情をこと細かに申しあげた。がしかし公はなかなか承知されないで、この地に永久に止まる様に繰り返し繰り返しく解き聞かせたので、和尚は公の友情の深いのを感謝してとどまる事になった。和尚もう海蔵寺にとどまらずお前の好きな土地へ隠居せよとの御命令があったので早速市之瀬の興禅寺に参りたいと言う事をお告げになった。公はそれが為に和歌山の地より観音堂を仕組んで送り田地八町四面を与えて市之瀬へ隠居さす事になった。其所で余生を安楽に送った。
 和尚が或る夏の夕方附近の山をめぐっていた。すると此の天気の良いのに不思議にも湿っている一個の大きい石を見出した。和尚はしばらくの間ながめていたが軈(やが)てこの石はきっと雨天、晴天を知っている石に相違ない言う事を覚った。それで明日は必ず雨が降るだろうと思っていた所その翌朝は非常な大雨が降ったと言う事である。
 この石は雨が降る前兆には必ず湿るのであった。不思議なこの石を地蔵尊にきり「天乞地蔵」と命名して寺より半里位の山に小さい御堂を建て安置する事になった。毎年二月二十四日は地蔵尊のお祭で投餅、見世物等の催しがあるので附近の老若男女数をつくして参拝する。
 和尚は又自分の子供よりも可愛い一匹の馬を養なっていた。その馬は非常に賢こくやさしくて和尚のお使いは勿論、寺役人が山より伐り出して売る材木までも、背に積んで市場へ運んだそうである。又店に買物に行く時には買物の品をしるした紙片をつけて行かせ、店の前へ行けば直ちに一声嘶(いなな)いて主人を呼び出すのである。主人は背の紙片を見て求むる品物をつけてやると又一聲嘶いて帰って行ったという事である。村の人達は皆神馬の如く敬まい馬がお通りになると門口に待っていて「お馬さん鞜(くつ)を打ってあげましょう」と言って親切になし鞜が新しいならば足につるし、まぐさ迄も村の人達によって運ばれた様である。今でも寺へ登る道を馬道といっている。
 この馬道昔は随分広かった様だが今では細い道となってしまった。其後間もなく和尚は病に臥した。病中自分の子供とも愛撫する馬に「今度はとても駄目だからお前と一緒に極楽往生をしよう、きっとその通りにしてくれよ」と再三繰り返して眠るが如く逝いてしまった。
 その後馬は毎日毎日嘆き悲しみ、和尚が死んで四十九日にもならないうちに、死んだという事である。
 和尚の墓は寺の東方に設け石碑の前には馬を埋め、今では村の人々から深く深く尊崇されて参詣する者が絶えない。

 

  • 興禅寺で隠居する良逐和尚のために田辺藩4代藩主・安藤直清が建立したとされる「知足庵(上記「伝説の熊野」からの引用文では「観音堂」とされている)」について、興禅寺のWebサイトでは次のように解説されており、あわせて興禅寺号の頌徳碑に関する解説も記載されている。

知足庵
 今を去る三百余年前(創建 延宝三年(筆者注:1675年))紀州藩城代家老安藤帯刀公(筆者注:安藤直清が、良遂禅師の隠居所として創建されたもので、安藤公の祈願所でもありました。
 その折りに下附された名馬興禅寺号」の物語(下記参照)は、後に人・馬哀惜の情話を伝えています。また、安藤家の家紋入りの古篭も当時を偲ばせます。
 三百余年の風雪に耐えていた当時の建物も近年に老朽化が進み、昭和六十年に再建されました。
 聖観世音菩薩の外に文殊菩薩毘沙門天薬師如来千手観世音菩薩地蔵菩薩不動明王弘法大師等が安置されています。
 当庵は別名「知足庵道場」とも呼ばれ、法話や座禅会など多目的な活動の場としても利用されています。

頌徳顕彰像・頌徳顕彰記碑
 良遂宗真和尚は今を去る三百年前、紀州藩 稀に見る碩徳の高僧にして大納言頼宣公(筆者注:紀州徳川家初代藩主徳川頼宣光貞公(筆者注:同2代藩主徳川光貞城代家老安藤氏(筆者注:田辺藩安藤帯刀家の帰依をうけ、当山入寺の際知足庵知足軒を建てられ愛馬を拝領した。
 愛馬は興禅寺号命名され、田辺白浜方面の使い走りは申すに及ばず師の外出にはうずくまって乗下馬を助けて柤用を果す。
 元禄九年十一月十五日師の遷化にあう。
 愛馬はその日より馬小屋にこもり食を断ち師の四十九日忌に静かに息を引きとる。将に忠馬たる所以である。
 ほほえましくけなげな愛の物語を後世に伝承すべく石像を建立した。
 像石工は中国福建省福州の名工 良遂和尚悟道の師 隠元禅師出生の地なるが故なり。
臨済宗妙心寺派 大雄山 興禅寺

 

 

  • 上記「むかし紀の国物語」からの引用文にもあるように、興禅寺の前住職・故 吉田啓堂(よしだ けいどう 2015年没)氏は長年にわたり海外で戦没者の遺骨収集に携わっており、同寺に建立された達磨像には遺骨収集地の砂が塗り込められている。和歌山県のWebサイト「ようこそ知事室」には、平成22年(2010)度に行われた吉田氏と仁坂和歌山県知事との対談の内容が掲載されているが、この中で吉田氏は興禅寺の住職となった経緯や達磨像建立の様子などについて次のように語っている。

仁坂知事:ご生家はお寺さんですか?
吉田さん:そうなんです。ちょっと、変わった寺でしてね。和歌山県ではおそらく珍しく百姓寺というか、お寺に田地田畑を持っておりまして、檀家こそ少ないけれども、それで長年弟子を養っていました。うち、出家したのは5人でしたが。
仁坂知事:つまり、農業経営もしておられたということですね。
吉田さん:そうです。禅の方でいうと作務禅みたいなもので、「作務を尊ぶ」ということです。それで自分たちで作ったものを食べていました。また、禅宗では、ずっと肉食妻帯が許されていなかったですから、妻帯したのは私の父親が初めてです。
仁坂知事:やっぱり臨済宗系の禅宗でいらっしゃる。
吉田さん:そうです。臨済宗妙心寺派です。ここの興禅寺がずっと荒れ放題に荒れていて、戦後、後継者に恵まれず、雨漏りがひどく、ただ、由緒と歴史だけはある寺で、いわば格式が高いわけですね。戦後僅か5年で、私で6人目。もうそれはひどい寺でした。
仁坂知事:お父様からそこへ行ってこいということだったんですか?
吉田さん:いや、父からは全くそういう話は無くて。当時、私は京都南禅寺で修行中でした。師匠である柴山全慶老師から「あんた、もらわれているぞ」と言われました。「どういうことですか」と聞くと、「紀州の興禅寺を知っているか」と問われたので、「隣村の寺です」と答えたら、「えらい荒れているらしいですが、あんたに住職になってほしいと要請がありましたよ」ということでした。大本山妙心寺の方からもらい受けに来たんです。それで、確かめにやってきてびっくりしたわけです。
仁坂知事:荒れていたからですか。
吉田さん:はい。私の前の住職候補者5人は私の知人や先輩ばかりで住職になっていたのではありません。しばらく様子伺いにやって来たという感じですね。しかし、どなたも敢えて火中の栗を拾わなかったのかもしれません。それは面白いなと思って。みんなが逃げた理由はそれなりにあったでしょうが、その一面、やり甲斐があるかもしれないと思いました。
仁坂知事:なんでそんなに荒れていたんですか?
吉田さん:先住が既に老僧でかなりお年をめしておられたということがありますし、それから、戦争中で、働ける男性は兵役に取られ、女性は農地を守ることが精一杯でしたからね。長い戦争と農地改革の影響もありますし、人手不足も大きな原因です。
仁坂知事:それを再建されたのは、どういう手法でされたんですか?
吉田さん:元々土っぽい人間で、とにかく子どもの頃から体験しておりましたし、自分で瓦を捲って赤土を煉って、そこへ瓦を葺いていくことから始めないと仕方なかったんです。
(略)
仁坂知事:(筆者注:遺骨収集の)一番初めは何年からですか?
吉田さん:昭和40年です。
仁坂知事:昭和40年ですか。それまでに、なかなか行けなかったんですね。
吉田さん:そうです。遺骨収集は昭和40年から昭和55年までですから、15年間ですね。
仁坂知事:ちょうど昭和40年というと、私なんか物心がついている感じだと思うんですけどね。ようやく行けたのはその頃なんですね。延べ何回くらいになるんですか?
吉田さん:遺骨が見つかって拾ってくれたのをいただきに行ったのを含めると31回です。それから、その中には、例えば徐州作戦で大勢亡くなったとか、ノモンハンで大勢亡くなったとか、中国の激戦地がありますね。そこの遺骨は帰っているんだけども、遺族を連れて慰霊に行きました。その頃は、まだお父さんやお母さんが割合と元気だった。だから、最後の願いだから連れて行ってと言う方がいらっしゃった。今日とは、全く違う情景だった。あの興禅寺の平和達磨は、お骨の下の砂を一掴みづつ袋に入れてきて、それが120何箇所になって、その砂を塗り込めて作ったんです。
仁坂知事:ご自身で作られたそうですね。
吉田さん:はい。私ともう一人若い男と2人で。色んな所で工法を習ってきて、ショートコンクリート工法というんだそうですけど、網の目のように、鉄筋でアングルを作って、どれくらいの大きさでどのくらいのトン数だったら、鉄筋をどのくらいの太さにしなきゃならんとか、それからどれくらいの幅に組まなきゃならんとか、計算上出てくるわけですね。そういうようなことを、まず最初に少し勉強して、誰も玄人が入らずに、素人が2人で作りました。
仁坂知事:すごいですね。工期は作り始めてから何年ぐらいですか?
吉田さん:工期は、初めは1年の予定だったんです。ところが、あれはちょうど昭和40年代後半の物不足の時だったので、鉄筋は無いは、第一にセメントが無かった。だから、土木業者さんを回って、セメントを1升づつ寄付していただきました。そんなんで3年かかって、昭和49年の4月29日に竣工式を行いました。その時に、仁坂知事さんの大先輩の大橋知事に来ていただいたんです。
上富田町の興禅寺前住職の吉田啓堂さん | 和歌山県

 

  • 興禅寺の達磨像は本体の高さが約5メートルとされ、一般的には「日本一のだるま像」と呼ばれている。令和2年現在、Webで「日本一のだるま像」と検索すると、「立ち達磨達磨大師が立った姿の像)」としては岐阜県飛騨市補陀山洞雲寺が所有するものが高さ8.9メートルで「日本一」を標榜しており、「坐像達磨大師が座った姿の像)」としては静岡県伊豆市土肥達磨寺にあるものが高さ約5メートルで興禅寺と同様に「日本一の坐像」を標榜している。興禅寺・土肥達磨寺ともに像の高さを「約5メートル」としているのは、あえて差が生じないよう双方が配慮しているためであろうか。
    立ち達磨|観光・体験|飛騨市公式観光サイト「飛騨の旅」
    伊豆市 観光情報 特設サイト 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。