生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

おしんの首 ~日置川町(現白浜町)安宅~

 日置安宅(あたぎ)の水軍は、戦国から江戸時代にかけ、熊野全域に強い勢力を誇った。

 

 享保3年(1530)、12代目首領、実俊が亡くなったが、弟の定俊は「わが子、安定丸が15歳に成長した時、家督を譲るよう」との実俊の遺言を守らず、安定丸が16歳になっても首領の座を渡さなかったため、一族の間で骨肉の争いが始まった。そのとき、配下の蔵人と、美しい娘おしんは相思相愛の仲だったが、家督相続の争いで敵味方に分かれた双方の親は結婚を許さない。


 二人は和歌山へ駈け落ちした。そこヘ、おしんの家臣がひそかに訪れ「刺客をさし向けるから、蔵人に酒を飲ませて酔いつぶせ」という。さからえぬおしんは、自から蔵人に代わって酔いつぶれ、その首を刺客に討たせた。蔵人は出家し、おしんの霊をとむらったといい、おしんはいまも、貞女の鏡として語りつがれている。

 

(メモ:安宅地区は日置川口から約2キロ、約250戸の民家が並ぶ静かな田園地帯。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

安宅氏本城跡

 

  • この物語は、荊木淳己著「むかし紀の国物語(宇治書店 1977)」に同名の「おしんの首」という題名で次のように紹介されている。

西牟婁郡日置川町の昔話》
おしんの首    =伝承民話より=
 戦国時代の末期から江戸時代の初期まで、熊野を中心として活躍したのが安宅水軍である。安宅水軍は日置川の河口を中心に大きな勢力を誇っていた。
 特に注目されたのは、安宅水軍の造船能力である。五百石から二千石積みまで、五十丁から百六十丁もの艪を備え、船腹の自由に開閉できるタテ穴から、いっせいに鉄砲で攻撃できるようになっており、艪をこぐ水夫五十人以上、戦斗用の武士五十人以上が乗り組んでいた安宅船と呼ばれる戦艦が、ここを根拠地としてどんどん建造されていたらしい。
 どうして安宅水軍に、このような巨艦の建造能力があったのだろうか。これは今でも謎とされているところだが、大陸文化の導入を行なっていた瀬戸内水軍あたりから吸収し、また自らの経験から開発したものと見ていいだろう。おまけに日置川の奥地は、名にしおう良質木材の産地である。
 この安宅一族の本拠地は、やや河口から遡上った日置川町安宅のあたりと考えられているが、当時は本城の外、鶴が羽根を広げた形に、左右に勝山城大野城の支城を、背後地に八幡山城を構えた攻めるに難く、出ずるに易い基地を形成していたものと思われる。

 

 さて、繁栄を極めた安宅一族にも、やがて落日が近ずいた。享禄3年(1530年)1月15日、安宅水軍の本城にほど近い下屋敷一帯で内乱が起きたが、これをきっかけに、次々と血腥い葛藤がくりひろげられる。
 事の起りは、12代領主だった安宅大炊頭実俊が、数年前にこの世を去るとき
とりあえず、弟の次郎太夫定俊に代を譲るが、一子安宅丸が15才になったら家督を譲り、その後見人となって、安宅一族を盛り立てよ
と遺言した。
 このことは早速実行され、定俊が13代領主となった。この内乱が起きた年、すでに16才に達した安宅丸に対し“遺言通り家督を譲ってほしい”と定俊に迫ったのが、安宅丸付きの家老対馬太郎である。
 ところが、定俊は烈火のごとく怒って、対馬太郎を一刀のもとに討ち果した。ここから一族入り乱れての内乱が幕を開く。
 これは安宅一族の内乱のかげに咲いた、若い男女の恋が迎えた悲しい物語である。

 

 安宅一族が我が世の春を謳歌していたころ、水軍の中に二木蔵人という青年武士がいた。凜々しい顔立ちで、心も優しく、しかも武術に秀でていたから、若い娘たちの憧がれの的でもあった。
 その蔵人の心を射止めたのは、同じ水軍の武士の娘であった“おしん”である。二人の間に何度となく手紙が取り交され、そして人目を忍んでの逢瀬がつづけられたが、蔵人の父とおしんの兄は、いずれも二人の恋を許さなかった。
 いま城中を覆う定俊・安宅丸の骨肉の争いに、二人はそれぞれ対立する立場にあったからであ る。どうしても父や兄の云うことを聞かない二人は、それぞれに勘当されてしまった。
 やむなく手に手をとって、和歌山に落ちのび、そこでささやかな世帯をもったのである。貧しいながらも、二人だけの満ち足りた生活がつづいた。
 やがて一族の内紛が収まれば、父や兄の怒りも解け、再びあのなつかしい日置川のほとりの故里へ帰ることもできるであろう・・・二人は慰め合いながら、その日の来るのを待っていた。
 間もなく、内紛はとうとう血で血を争う合戦となった。蔵人は決心して、日置川へ駈けつける。この機に手柄を立て、父の勘気を解こう・・・そう決心して、家を出てきたのである。
 しかし予想外に悪化した状勢の中で、
おしんの首をもってくることが先決、それ以外に方法はない
と、冷たく云い放ったのである。

 一方、留守中に、おしんの許へ兄の使いがやってきた。おしんの勘当を許すが、その条件として
この使いの者に、蔵人を討たせよ
と命じてきたのである。おしんは窮地に立たされた。
もう私たちのことは、お構い下さるな
と答えても、許されなかった。和歌山という離れたところにいる蔵人が、どのような手を打って援軍をたのみ、敵方に加わるか訳らぬ・・・との思案とあっては無理もない。事態はそれほどに急迫していたのである。
 おしんは決心した。そして泣く泣く使いの者に
夫が帰り次第、湯をすすめて髪を洗わせ、そしてお酒を前後不覚になるまですすめましょう。夜ふけて奥の間に忍びこみ、洗い髪を確めて、夫の首をお討ち下さい
と答えた。
 翌日、夫の蔵人が疲れ果てて帰宅した。おしんは湯をすすめて髪を洗わせ、どんどん酒をすすめた。疲れと酔いと安心で、夫は泥のごとく眠りこんだ。その夜更けに、約束通り使いの者が忍び込み、洗い髪を確めるや否や、蔵人の首を討ち、用意の布にまいて逃走していった
 待ちかねていた兄は、この知らせを聞いて大層喜こび、早速に首実験をしてみると・・・意外や意外、それは蔵人のそれではなく、おしんの首だった。
 “貞女のかがみ”として、人々はおしんのことを賞めそやしたが、はるか和歌山で風の便りにこのことを聞いた蔵人は、人生の無常を悟って直ちに出家し、おしんの霊をとむらったという。
 遠い戦国の世の、骨肉の争いのかげに咲いた悲しい愛のロマンである。
※筆者注:ここでは嫡子の名を「安宅丸」としているが、下記の「日置川町史」の記述にあるように「安宅一乱記」では実俊の嫡子を「安定」としていることから、本文のとおり「安定丸」と解する方が適当と思われる。

 

  • 安宅(あたぎ)氏は、鎌倉時代後期から戦国期にかけて水軍力を背景に活躍した地方領主で、いわゆる「熊野水軍」の一派に位置付けられる。和歌山地方史研究会編「地方史研究の最前線(成文堂出版 2020)」では、この時期の安宅氏の活動について次のように紹介している。

熊野水軍が築いた城館群 -史跡安宅氏城館跡-
 安宅(あたぎ)は、鎌倉時代後期に執権北条氏によって阿波国(現徳島県より派遣された一族と伝わる。もともと安宅氏が拠点とした安宅荘(あたぎのしょう 現白浜町、日置川下流域)は「関東成敗地」として北条氏の影響が強い土地柄であったが、同時期に「熊野海賊」が紀伊半島沿岸部を中心に猛威を振るっており、それらを抑える役割を担ったのが、安宅氏と考えられている。その後、六波羅探題(ろくはらたんだい)である北条仲時(なかとき)に殉じ、勢力を減退させるが、南北朝期の動乱の中、主に北朝室町幕府方)として、淡路島の海賊退治紀伊水道を挟んだ阿波国の所領経営を任されるといった水軍領主としての活動がみられる。
 戦国期の安宅氏は、紀伊国守護の畠山氏との関わりが深まっていく。応仁の乱以降の紀伊国では、畠山氏が畠山義就(よしひろ)義英(よしひで)派と畠山政長(まさなが)尚順(ひさのぶ)(尚慶 しょうけい ・ト山 ぼくざん)派と二分して争っていたが、それ以外にも熊野三山をはじめとする宗教勢力、室町幕府奉公衆山本氏・湯河氏・玉置氏等)在地領主層(安宅氏・久木小山(ひさぎこやま)氏・周参見(すさみ)氏等)といった各勢力が、それぞれの利害関係のもと協働と敵対を繰り返しており、複雑な様相を示していた。
(略)
 天正期以降の安宅氏は、秀吉の紀州攻め(筆者注:1585)により帰順し、豊臣家の水軍の一派として活躍することとなる。近世期においては、紀伊藩の地士として地域では影響力を持つ存在であった。
 安宅氏は、久木小山氏と共同で日置川流域の山林を管理しており、大坂城の普請にあたるなどといった材木運送全般を取り仕切っていた。熊野水軍により紀伊半島から海路で運ばれた物資の代表として森林資源(材木・檜皮 ひわだ)が挙げられており、安宅氏も例に漏れず日置川流域の森林資源を掌握していたようである。

 

  • 上記「むかし紀の国物語」では、「安宅船(あたかぶね/あたけぶね)」と呼ばれる大型戦艦を安宅氏が建造したものであるとしているが、これについては異論も数多く存在する。ちなみに、Wikipediaの「安宅船」の項には次のような解説が掲載されている。

 安宅船安宅阿武とも書き、中近世の日本の軍船のうち大型のものを指した。大きいものでは長さ50m以上、幅10m以上の巨体を誇り、大安宅(おおあたけ)と呼ばれる。史料上に安宅船の名が現われるのは、16世紀中葉の天文年間頃である。河野氏配下の伊予、すなわち当時の水軍先進地域である瀬戸内海西部において初出が確認できる。
 安宅船」と呼ばれるようになった由来は定かではないが、戦国時代に淡路近辺を根拠としていた安宅氏からきているという説、巨大で多くの人の乗り組める船であったから「安宅」となったという説、「暴れる」という意味があった「あたける」という動詞から来ているという説、北陸道の地名である安宅(あたか、現石川県小松市と関係あるという説、陸奥阿武隈川流域を指した古地名の阿武と関係があるという説などがある。名称に関する決定的な説はないが、日本の船の種別名では肥前松浦の松浦船、熊野灘の真熊野船の様にその船が建造され、使われていたりした地名を冠すると考えられるものが多い。

ja.wikipedia.org

 

  • 旧日置川町が編纂した「日置川町史」には「水軍領主安宅氏の勢力基盤 -船-」という項が設けられており、「安宅船」と「安宅氏」との関係について検証を行っているが、同書ではこの両者の関係については否定的な立場をとっているようである。

水軍領主安宅氏の勢力基盤 -船-
 戦国時代の海戦における主力艦として、「安宅船」の名はよく知られている。「安宅船」とは、五百から二千石積、五〇から一六〇丁櫓の大型船で、箱造(はこづく)りの船首をもち、大筒(おおづつ)を備、総櫓(そうやぐら)に楼閣(ろうかく)をあげた、まさに「海上の城」と呼ぶべき戦艦である。第二次木津川口(きづがわぐち)の戦い毛利水軍(もうりすいぐん)を撃破した織田信長(おだ のぶなが)麾下の水軍の主力艦である九鬼嘉隆(くき よしたか)の「鉄船」や、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)朝鮮出兵に出撃した同じく九鬼氏の「日本丸」、そして三代将軍徳川家光(とくがわ いえみつ)が建造を命じた御座船(ござぶね)安宅(あたか)」は、いずれも船舶史を飾る巨大戦艦だが、「安宅船」の特徴をもつものであった(石井謙治『和船Ⅱ』)。

 

 この安宅船」の名が、紀伊国牟婁郡安宅荘、およびこの地の水軍領主安宅氏に起源するものだとする説を提起したのは、明治時代の著名な歴史家・星野恒氏である(星野恒1894)。星野氏は、熊野山中の良材と、熊野灘紀伊水道の荒波とが、進んだ造船技術を育み、安宅氏のもとにおいて「安宅船」を生み出したものと考えた。
 今もこの説を鵜呑みにする概説書・専門書は多いが、この説には受け入れがたい問題点がある。何より「安宅船」の音は、アタカブネであるのに、地名の「安宅」はアタギである。安宅船」の安宅の語源は、「阿武(あたけ)る」すなわち暴れまわることにあると考えるべきである。それに海上の安定した城というイメージが加わり、「安宅」の文字が宛てられるようになったものと思われる(石井謙治『和船Ⅱ』)。

 

  • 本文にある安宅家の家督をめぐる一連の騒動は、江戸時代に記された軍記物語「安宅一乱記」に詳述されている。しかしながら、この物語には創作の部分が多く、史料として用いることは適当でないとの批判もある。これについて、「日置川町史」では次のように解説しており、「戦国時代の実際の戦闘や地域社会の現実が忘れ去られた後に成立した物語とみなければならない。その時期は、おそらく江戸時代の末期であろう。」と結論づけている。
    ※その反面、同書では、安宅一乱記の内容は歴史的な事実とは認められないもののその下敷きとなった伝承があったことは認めている。これについては同書を参照されたい。

「安宅一乱記」の虚構
 戦国期の安宅氏を題材にした軍記物語「安宅一乱記(あたぎ いちらんき)」は、平易な文体で書かれ、そこに身近な地名や人名が盛り込まれていることから、町民には親しみをもって受け入れられてきた。「安宅由来記(あたぎ ゆらいき)」は、その要約本である。
 大永6年(1526)、安宅家の当主・大炊頭実俊(おおいのかみ さねとし)が没する。嫡男安定(やすさだ)はいまだ元服前であったため、実俊の弟治部太夫定俊(じぶだゆう さだとし)がその後見に立った。享禄3年(1530)、安定は16歳になった。家老たちが、安定の家督相続を定俊に迫ると、定俊は激怒してこれを拒絶し、一門・家臣を巻き込んでの内紛となる。一旦は、反対派家臣の一揆を鎮圧し、安定を那智に没落せしめた定俊であったが、周辺豪族を味方につけた安定の反撃にあい、逆に八幡山(はちまんやま)城に追い詰められ自刃する。「安宅一乱記」は、こうした安宅一族骨肉の争いを主題として、さらに果てしなく続く内粉劇の展開を描いている
 「安宅一乱記」については、かつて「安宅氏の血族で戦国末期の様々な戦闘を体験したある人物が、当時手元にあったいくつかの記録・文書等に基づいて書き綴り10巻の書にまとめた」もので、江戸時代初期に成立した史料性の高い軍記と評価されたことがあるため(『熊野水軍史料安宅一乱記』)、そこに描かれていることが、そのまま真実とみなされる場合があった。しかしながら本書の内容を詳しく検討してみると、戦国を知る人物の著作、一次史料に準じて扱うべき史書とはとてもいえないことが判明する。
 まず第一に、享禄の安宅家内紛は、確度の高い史料には、一切取り上げられていない。それどころか「紀伊風土記」や「南紀古士伝(なんき こしでん)」「十河家家伝書」など、江戸時代後期に編纂された、この地域の伝承を豊富に収めた地誌・記録の類にも、この事件はまったく触れられていないのである。同様に、この物語に登場する主要人物も、その実在は確認できない。なるほど16世紀前半の安宅家当主として史料上に登場する「安宅大炊助」は、「安宅一乱記」の「安宅大炊頭実俊」に似た官途を名乗ってはいるが、実名は「有高」あるいは「俊■(二文字目がいずれの史料でも判読できない)であり「実俊」ではない
 第二に、叙述のなかに、戦国時代には考えられない戦闘描写がしばしば見られる。また事実認識の錯誤も多い。享禄3年の内粉の際、緒戦の八幡山の戦さで、寄手が「八幡山に百八拾人、下モ屋敷ニも八拾五人」の死者を出したのをはじめ、「榎本が勢百二拾人討れ」「吉田勢も五拾人計り討れ」など、これ以後の安宅荘内の戦闘ですさまじい数の軍勢が討ち死にしている。到底事実とは考えられない
 また領主としての規模からみて対等な立場にあったはずの久木小山氏や周参見氏などを安宅氏の被官であるかの如く扱い、郡規模の国人領主である湯河氏などを安宅氏と対等の領主として描くなど、安宅氏の存在を常識では考えられないほど過大評価している。さらに「一 阿州にて弐万石(中略) 大野五郎氏元」「一 同国・土佐 壱万石(中略) 榎本形部大輔泰忠」以下、安定から29人の家臣への知行割りに至っては噴飯ものである。要するに安宅氏を大名に見立てるわけであるが、もちろん現実とはかけはなれている。ちなみに石高制が普及するのは江戸時代のことである。
 享禄4年には、阿波の三好長慶(みよし ながよし)が350騎を引き連れて渡海し、安宅荘での戦闘に参加したと記述する。ところが現実には長慶は当時10歳の元服前の身であり、父元長(もとなが)をさしおいて、自分の意思で発向できるはずはないし、そうした事実も確認できない(『第一回熊野水軍シンポジウム 海 戦い・商い・暮らし 報告書』)。長慶のような中央の著名な武将も「安宅一乱記」にはたびたび登場するが、安宅氏とのかかわりは事実とは考えられない部分が多い。
 以上、確認した諸点から、「安宅一乱記」が「戦国末期の様々な戦闘を体験した人物」の著作などではありえな いことは明らかである。むしろ戦国時代の実際の戦闘や地域社会の現実が忘れ去られた後に成立した物語とみなけ ればならない。その時期は、おそらく江戸時代の末期であろう。

 

記念物(史跡)  安宅氏城館跡(あたぎし じょうかん あと)
 1 種別(区分) 記念物(史跡)
 2 名称(員数) 安宅氏城館跡 指定面積 122,431.67 ㎡
 3 所有者 白浜町、法人、個人
 4 所在の場所 西牟婁郡白浜町安宅他
 5 指定年月日 令和 2 年 3 月 10 日

(指定理由)
 安宅氏城館跡は、鎌倉時代末期から南北朝の動乱を経て、室町・戦国時代の紀伊国の複雑な政治情勢の中で、安宅氏が地方領主(熊野水軍)として、自らの領域を支配するために築いた城館群である。
 安宅氏城館跡は、安宅氏の本拠である安宅氏居館跡をはじめとし、八幡山城中山城跡土井城跡要害山城跡大野城勝山城跡及び大向出城からなり、それぞれが固有の役割・性格を担っている。これらの城館跡は、列島の東西を結ぶ海上交通の結節点である紀伊半島南岸部において、安宅氏が自律的な領域支配をおこなっていたという証左となる。とくに戦国期においては、隣接する勢力との抗争の中で、戦略的に城館を築城している状況が確認でき、中世の熊野水軍の領域支配の様相の一端を示している。また、他の熊野水軍の城館跡と比較して卓越した規模であり、かつ良好に遺存し、それらが相互に関連している様相が窺え、熊野水軍の存在形態を示す城館跡として貴重である。
 今回、安宅氏城館跡のうち安宅氏居館跡、八幡山城跡、中山城跡、土井城跡及び要害山城跡の5か所が史跡に指定された。これらについては、白浜町教育委員会が測量調査、分布調査及び縄張り調査を実施している。また、一部については発掘調査を実施し、遺構の遺存状況及びその年代が明らかになっている。

 

  • 本文にある「おしん」の物語は、「源平盛衰記」巻第十九「文覚発心附東帰節女事」にある袈裟御前(けさ ごぜん)の物語と極めて類似している。この物語は、神護寺中興の祖と讃えられ、源頼朝の庇護を受けて全国の有力寺院を再興したことで知られる文覚上人(もんがく しょうにん 1139 - 1203)が出家を決意する重要なエピソードとして知られているが、その内容は下記のようなものであり、ほぼ上記の物語と同じ構造を有している。
    ※文覚上人については別項海中の井戸 」も参考にされたい

伏見区あれこれ:ふしみ昔紀行(平成15年1月)
 平安末期、鳥羽上皇に仕える北面の武士遠藤盛遠(筆者注:えんどう のりとお = 後の文覚)が、同僚の渡辺渡(わたなべ わたる)の妻袈裟(けさ)に密かに想いを寄せ、袈裟の母を脅して仲立を頼み、想いを遂げようとした。袈裟は渡のことを想えば胸が張り裂ける気持ちだったが、母の命には代えられず盛遠の申し出を承諾する。
 袈裟は盛遠に「本当に私を想うのなら、渡に髪を洗わせ、酒に酔わせて寝かせておくので、ぬれた髪を探って殺してほしい」と話す。盛遠は喜んで夜討の支度をし、日暮れを待った。
 家に帰った袈裟は渡を酔いつぶして休ませ、自分の髪をぬらし、側に烏帽子を置くと「露深き浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき」と辞世の句を詠み燭台の火を消した
 盛遠は闇夜にまぎれ、ぬれた髪を探り、一刀のもとに首をはね、袖に包んで持ち去った。しかし、月明りに照らし出された首は愛しい袈裟のものであった
京都市伏見区役所:伏見区あれこれ : ふしみ昔紀行(平成15年1月)

  • 上述した袈裟御前の物語は、御伽草紙「恋塚物語」として広く知られるようになり、江戸時代には浄瑠璃歌舞伎の演目ともなっている。このため、こうした物語性の強いストーリーが安宅家の内紛と結びついて、「貞女の鏡」譚として定着していったのかもしれない。ちなみに、第7回カンヌ国際映画祭(1954)で日本映画としてはじめてグランプリ(現在のパルムドールを獲得した「地獄門(監督:衣笠貞之助」は、この袈裟御前の物語をもとにした菊池寛の戯曲袈裟の良人が原作である。
    地獄門 - Wikipedia

 


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。