生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

小山肆成(こやま しせい)~日置川町(現白浜町)久木~

 久木に、わが国で初めて天然痘の予防ワクチンを開発した、小山肆成の生家跡がある。

 

 天然痘天平7年(1838)に大流行。「倒れる者、山野に満ちた」といわれたほど。その後も患者は跡を絶たず、村人は病人に赤い布をつけて山に隔離し、その山を「悪さ山」としておそれたという。

 

 肆成は文化4年(1807)の生まれ。若いころから京都に出て、兄・文明の許で勉学、16歳で岡田南涯に師事。その後、宮廷医を経て烏丸で開業、猛威をふるった天然痘の防疫に取りくんだ。苦闘8年。ジェンナーの牛痘の効果を碓認した肆成は、多くの牛を実験台にして、嘉永2年(1849)、国産牛痘苗の開発に成功した。

 

 県道沿いの生家跡には、古い門棟が残っているだけ。杉木立と、コケむした石積みが、昔をしのばせる。

 

(メモ:国鉄紀勢線紀伊日置駅から約15キロ。バスで20分。)

 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

小山肆成生家跡

 

  • 小山肆成は、独自の研究により天然痘ワクチン「牛化人痘苗(ぎゅうかじんとうびょう)」を開発した医師で、同時代に世界初の全身麻酔手術に成功した紀北の華岡青洲とともに「北の青洲、南の蓬洲(ほうしゅう、小山肆成が用いた号)」と並び称される和歌山県医学界の偉人である。

 

  • 天然痘(てんねんとう)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症で、疱瘡(ほうそう)痘瘡(とうそう)とも呼ばれる。非常に感染力が強く、致死率が約20%~50%と高いため、古くから恐れられた病気であった。また、治癒した場合でも顔面などにひどい瘢痕(一般に「あばた」と呼ばれる)が残ることが多い。世界的にワクチンが普及したことにより、日本では1974年に、世界ではソマリアで1977年に最後の患者が確認されて以来天然痘の患者は発生しておらず、世界保健機関(WHO)は、1980年5月に天然痘世界根絶宣言を行った。これは、人類に有害な感染症の根絶に成功した、最初でかつ唯一(2020年現在)の事例である。
    天然痘 - Wikipedia

 

  • 肆成(蓬洲)の業績については、和歌山市出身の作家・神坂次郎氏の「紀州歴史散歩 古熊野の道を往く 創元社 1985」で詳しく紹介されている。

 いまではもう昔ばなしになってしまったが、二百年ほど前までは天然痘に対する恐怖は想像以上のものがあった。この伝染病のため、多くの人たちが命を失った。たとえ癒っても、顔にアバタができ、生涯、醜い顔を嘆き悲しまねばならなかった。当時の疱瘡の予防、治療法といえば、赤い着物を着たり、焼いた牛の糞を煎じて飲んだり、顔にナベ底のススを塗ったりするマジナイしかなかった。
 後年、天然痘の痘苗(ワクチン)に心血をそそいだ熊野の医師、小山蓬洲(ほうしゅう)もその著『引痘新法全書』全二巻(漢文)のなかで「わが郷里の熊野でも、天然痘を鬼のごとく恐れている・・・だから、病人が出れば深い山の中に小屋を建てて隔離し、身内の者が看病につく。その者が感染して倒れると、次の者が看病に出向き、また感染する。こうして天然痘患者が一人出れば一家親族が全滅する」と述べている。
 蓬洲天然痘に取り組むようになった背景には、この悪疫のため親族一家が「一児を残して全滅した」という悲劇がある。
 熊野の久木村(日置川町久木)に生まれた蓬洲は、俊才の誉れ高い医師の兄に従って京にのぼり、医術を宮廷医官高階枳園に学ぶ。蓬洲天然痘の研究に没頭したころ、イギリスの外科医ジェンナーが開発した「牛痘法の種痘の話はすでに日本にも伝わっていたが、長崎に輸入された患者のカサブタは長い航海に乾ききっていて効果をあげるにいたっていない。
 ジェンナーの牛痘法を中国医書の『引痘法』で知った蓬洲は、それを日本語訳して諸国の医師に呼びかけ、自分もまた牛痘苗の発見に情熱を燃やした。諸国に門弟を走らせ天然痘にかかっている牛を探し求め、そして、その牛の乳房にできたウミをとって人体に接種した。次には逆に天然痘患者の家の牛に、患者のウミを植えてみた。が、すべて失敗であった。蓬洲が目指したのは、中国の人痘法でもジェンナーの牛痘法でもない。人痘と牛痘を綯いまぜた牛化人痘苗(ワクチン)の培養育成であった。
 「かくして試みること(熊野牛)数十頭・・・かくすること三千日。ようやく牛痘を得たり
 蓬洲が、家財を売り払い、刀まで売って辛酸ののち、念願のワクチン培養に成功したのは嘉永2年(1849)のことであった。
 ・・・嘉永2年という年は、わが国の種痘史上特筆すべき年である。この年7月、オランダ船がもたらした痘漿をもって蘭医モーニッケが三児に接種して一児に善感を得、また、この法を奨励した佐賀藩主、鍋島直正藩医楢林宗建をして、その子に種痘せしめ、つづいて9月、長崎から送られた痘苗を用いて京の日野鼎哉が接種に成功している。おなじく日野から送られた痘苗によって、大坂の緒方洪庵が好果をおさめ、同年11月、江戸では佐賀から送りとどけられた痘苗で伊東玄朴が接種をしている。が、いずれも接種しただけの話である。
 小山蓬洲が開発した国産ワクチンが、これらの医人たちに提供されたかどうかの記録は残っていない。だが、無名の医師たちの間で広く使われたことは間違いない。最近の医学書が、ようやく蓬洲の功績を記すようになったことをみても明らかである。残念なのは、そんな著名医師たちの陰にかくれて、蓬洲の名があまり知られないことである。偉大な功績と、世間での名はつながらぬものらしい。

 

  • 小山肆成の業績が広く知られるようになった大きなきっかけの一つが、和歌山県出身の小説家・山本亨介(やまもと きょうすけ 1923 - 1995)による「種痘医 小山肆成の生涯時事通信社 1994)」の出版であった。この中で、山本氏肆成の業績について、医学者・医学史家の富士川(ふじかわ ゆう 1865 - 1940)の著作をもとに次のように紹介している。

医学史にみる肆成の業績
 肆成の業績が初めて医学史に取り上げられるのは、既述のように昭和12年(1937)になってからであった。現代の医家は、牛痘苗を作出した肆成の仕事に、どのような評価を与えているのか。いくつかを紹介する。

種痘術の祖の私考』 富士川著作集4
 西洋種痘の法を聞きたるのみにて発奮其術を工夫せし人、余が知る所にては三人あり。共に嘉永2年モーニッケが痘痂を齎(もたら)したるの前に係る。亦是れ種痘術の祖を言うに際して漏すべからざることなり。
 第一は大村藩侍医長与俊達(長与専斎翁の祖父)なり。嘗て英国の書を読て、牛痘の法を戴すると見て大いに喜び、共苗を得んと欲し、牛二頭を買い、嬰児の痘を種え其膿を取て之を試むること数次、皆成らず、(以下略)
 第二は紀人小山有造なり。嘗て邱喜が著せる引痘略を校し、引痘新法全書と題し天保13年之を刊行(注・天保13年は序文で、弘化4年刊)し、以て西洋牛痘の法を世に知らしめたり。此人牛痘苗を得んと欲し、人を但馬に遣し(注・天王寺の牛市)、牛犢一頭を畜て人痘の落痂を牛の鼻口に注入るること数次、牛即ち発熱不食発汗一二日にして解熱すれども、乳傍更に痘に似たるものを出さず、茫然として手を束ねしが、本草綱目を閲して白牛蝨を用て痘を免るるの説あるを見、以爲(おもえら)く牛虱猶効あり、況(いわん)や牛血其効なからんやと。
 由て牛乳の小泡の血を取り之を痘漿に和して法の如く施すに三四日にして四顆六顆現点し、又三四日にして発熱悪寒身痛腰疼ありて渾身発痘す。然れども一人の難症なし此術を施すこと数百人に及びたれども薬を服せしは十の一二のみ
 後更に工夫して上好の人痘を犢牛の乳房に種ゆること数頭にして、乳傍疱を生じたり、之を取り得て、試に接種するに皆四顆六顆現点して、灌漿満膿落靨十余日にして成功を告ぐるに至れりと云う。
 第三は狭貫の医官井上宗端氏なり。氏は牛体に生ずる痘を採り、人体に移接して天然痘を預防せりと云う。

 

  • 天然痘に罹患した人の膿や痂皮(かひ、かさぶた)を健康な人に接触させて免疫を得ようとする方法(人痘法)は古くから中国、インドなどで行われており、日本にも18世紀半ばには紹介されている。しかし、この方法では真の天然痘に罹患する可能性があり、一定の危険を伴うものであった。ジェンナーが開発したのはウシ由来の天然痘ウイルスをヒトに接種する方法(牛痘法)であり、人痘法と比較して安全性が極めて高いことが特徴であった。これを知った肆成は、中国で書かれた牛痘法の指南書を和訳し、「引痘新法全書」として京都・大坂・江戸で出版したが、この時点ではまだ日本国内で人に接種可能な牛痘を得ることはできなかった。そのため、肆成はヒト由来の天然痘をウシに罹患させ、ここから得た牛痘(牛化人痘苗)をヒトに接種して免疫を得ることに成功したのである。

 

  • 肆成は研究のために私財をなげうち、実験用の牛を買い求めるために家宝の刀や家財を売り払ったというエピソードが伝えられている。

 

  • 肆成牛化人痘苗を開発した経緯について、昭和41年(1966)に発行された「紀の国百年人物誌(阪上義和著 紀の国文化社 非売品)」では次のように紹介している。

 蓬洲(筆者注:肆成)の痘苗発見への執念はまことにすさまじいものであった。8年余の歳月をかけて、遂には刀を売り払ってまで実験用の牛を買い集め、ありとあらゆる臨床実験を重ねた。
 最初は、牛の乳房にできたデキモノから膿(うみ)を採り、人体に植えつけてみたが、天然痘らしき膿疱(のうほう)は出来なかった。次に患者の膿を、こんどは逆に、天然痘患者の家の牛に接種してみたが、これも失敗した。さまざまな試みがこつこつと続けられたが、ことごとく失敗するという有り様であった。
 それでもくじけず、苦心惨憺を重ねていた蓬洲の頭に、ある日ふと、「牛はシラミによって天然痘の免疫になる」という、『本朝綱目(筆者注:「本草綱目」の誤りと思われる)』の一節が閃めくように浮んできた。シラミが免疫性をもたらすということは、牛の血にそれが隠されているということだ。蓬洲は早速、患者の膿から出る痘漿(とうしょう)と、牛のそれとを混ぜて人に接種したところ、天然痘らしき腫れものができた。成功である。時に嘉永2年(1849)、ジェンナーが牛痘を自分の子どもに接種してから53年目にあたる

 

  • 小山肆成の業績については残された資料が少ないことから正確な評価を行うのは困難であり、彼が作成した「牛化人痘苗」の詳細や、具体的な使用実績等についても不明なことが多い佐賀大学地域学歴史文化研究センター教授の青木歳幸氏は、「種痘法普及にみる在来知佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要(7), 1-21, 2013-03)」で次のように述べており、「引痘新法全書」による知識普及活動は評価しているものの、肆成が「牛化人痘苗」の試みに成功したかどうかは疑問であるとしている。

紀伊国医師小山肆成も「引痘略」を要約し「引痘新法全書」(弘化4年)として大坂・京都・江戸の書店より出版した。同書はルビをふって庶民に理解できるようにし、痘漿による腕種法を伝えていた。
(略)
牛に人痘を植え付け、免疫のある国産牛痘苗を得ようとするいわゆる牛化人痘法実験は、紀伊小山肆成も行った。嘉永2年(1949)になって、肆成は牛に人痘を接種して牛痘苗を得ようと工夫を重ね、牛の乳房の発泡を、妻に接種した。「引痘略」の通りに、女だから先に右腕に、続いて左腕に牛痘を接種したところ、成功し、以後、近所の子数十人に接種して効果があったと述べている
(略)
添川正夫氏によれば「今日では人痘ウイルスと牛痘ウイルスとは別種のウイルスであって、人痘材料を牛に接種して、いわゆる牛化人痘法を作出することはできないというのが定説になっている(筆者注:日本痘苗史序説 近代出版 1987)」と述べ、従って小山肆成が牛痘苗作出に成功したと述べるのも疑問であるという
佐賀大学機関リポジトリ

  • また、国立感染症研究所室長、米CDC(疾病予防管理センター)客員研究員などを歴任し、「人類と感染症の歴史(丸善出版)」などの著書もある加藤茂孝氏は、学術情報誌「モダンメディア 2019年4月号(第65巻4号)」における「人類と感染症との闘い」と題した連載の中で、次のように述べている。

(略)
ことによると、この痘苗は牛痘かパラポックスウイルスに属する偽牛痘ウイルスの可能性もあり得る。彼は独力で研究を行ったが、妻と養女が亡くなり家系が絶え、記録が散逸して彼の業績が忘れられているのが残念である。
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  • 小山肆成は、鎌倉時代から南北朝時代の頃に熊野水軍の雄として活躍した武士集団「久木小山氏」に繋がる家系とされる。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」には、久木小山氏のおこりについて次のように記述している。これによれば、久木小山氏は下野国(栃木県)を支配していた小山(おやま)氏の当主小山高朝を祖とするとされる。ただ、この記述によれば高朝の長男を秀朝とするが史実では高朝が改名して秀朝を名乗っており、また實隆は同族であるものの古座に拠点を置いた「西向小山氏」の祖とされているなど、記載内容はやや信憑性に欠けると思われる下野国から移り住んだのではなく、在地の豪族であったとの説もある)。しかしながら、久木小山氏が紀南最大級の武士集団として活躍したことは事実である。

其祖は小山下野守藤原朝政より六代
下野守高朝の三男 新左衛門尉實隆といふ
(高朝三子ありて長を判官秀朝 次を石見守経幸といふ
 小山は下野国都賀郡の郷名にて和名抄にでたり
 をやま と称ふ
 當家も をやま といひしを今は こやま といふ)
實隆 鎌倉の命によりて
南海の賊徒をしづめんために
元弘の頃 一族郎黨若干を率ひて牟婁郡に来り
潮崎荘に止る

 

  • 小山肆成の業績を後世に伝えるため、地元有志により平成20年(2008)に「小山肆成顕彰会」が設立された。また、県道日置川大塔線沿いにある生家跡は公園として整備されており、平成24年(2012)に顕彰碑が建立された。

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。