生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

権八地蔵 ~すさみ町江須ノ川~

 明治の初年、すさみ町里野の東海岸にある大きな洞窟に、三人の親子が住んでいた。父親は伝次、母親はたま、男の子はたまの連れ子で権八といい、毎日、門づけに歩いた。

 

 ところが、たまが死んだことから、母を慕う権八に手を焼いた伝次が、釣りにことよせて江須之川の断崖から海へ突き落としたといい、以来この場所を「継子殺し」と呼ぶようになった。また、この事件のあと、洞窟のそばにすんでいた大蛇が急に姿を消し、行方がわからなくなったとも。そこで人々は、その前の島を大蛇岩と呼んだという。

 

 哀れな権八の供養に、と地元の人たちが昭和49年7月、近くに「権八地蔵」を建立した。県立江住海岸公園の一角でもあるそこは、天然記念物・江須崎に近く、枯木灘海岸きっての絶景の地。

 

(メモ:国鉄紀勢線江住駅から歩いて約30分、車の方が使利で、国道42号線で「江住県立海岸公園」の標示の場所を海側へ入るとすぐ。) 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

権八地蔵(延命地蔵尊)

 

  • この物語は、すさみ町が編纂した「すさみ町誌」の「第12章 民話と伝説」の項に「江須崎のまま子ごろし」という題名で次のように記載されている。(一部に現代では不適切と思われる表現があるが、原文の趣旨を尊重し、表現の修正は行わないのであらかじめご了承されたい)

江須崎のまま子ごろし
 明治の初めごろ、里野浦東海岸和深との境界附近)にある大きな洞窟を根城にして親子三人の乞食が住んでいた。
 父親は五〇歳前後で名は磯端伝次、母親はたまといい権八という一〇歳ぐらいの男の子を連れて伝次と同棲していた。
 三人は善良で近在に知られていたと見え、今日は東へ、明日は西へと物乞いに渡り歩いて糊口を凌いでいたようである。
 江須之川へもたびたび来ているうちに人情豊かな浦の人たちとなじみになり、特に子供の権八はみんなからかわいがられていた。
 ところがある日、伝次だけが権八を連れて来たので母親のたまはどうしたのかと聞いたところ、数日前に病気で死んだとのことでさすがに傷心していた。
 その後数か月たって、五月の初めに父子がやってきて、いつも親切にしてもらっている海蔵という漁師の網元の家へ寄り、子供と魚釣りをしたいのでなるべく丈夫な竿と子供の竿を貸してほしいと頼み、海蔵が道具はあるかと聞いたところ、いつも里野磯で釣っているので持っているが、江須之川ははじめての磯ゆえ釣れるかどうか判らぬと言いながら、竿を借りて江須之平(現在の公園)の方へ行った。
 しばらくして竿を戻しに寄ったが、魚の釣れた様子もなく権八の姿も見えなかった。
 その後、親子乞食は消息を絶ちいつしか忘れられていたころ、三年ぶりに伝次だけが一人で舞い戻って来た。
 よもやま話の末、子供も死んだといい、なんとなくそわそわして話のつじつまが合わないので問いただしたところ、実は権八が余りに亡き母のことばかり訴えて、泣いたりグズついていたりして、うるさく足手まといにもなるので、とうとう殺す気になり、竿を借りた日に釣りに行くようにみせて磯へ連れて行き(丈夫な竿を求めたのも計画的)高い崖から突きとばし、途中松の枝に引っかかったのをさらに竿でつつき落として殺害。なに食わぬ顔で戻ったもののいかにも後味が悪く、あの時の権八の泣き叫んだ悲鳴が今も耳の底を離れず、後悔のあまり、きょうあの場で懺悔の念仏を唱えてやればあの子も浮かばれはしまいかと思うにつけ、矢も楯もたまらず決心してやってきたのだとさめざめ泣きながら訴えた。
 この「まま子ごろし」の崖のすぐ西側に天井の高い抜け通った大洞窟(龍歩洞)があり、中ではテングサもアワビもとれるが薄暗くて潮が冷たくなんとなく気味の悪い淵もある。
 この洞窟と対座する型で江須崎西側にも抜け通りの中に波の打ち寄せる砂浜もある(じょう)の越(こし)と呼ばれる洞窟がある。
 この二つの洞窟を大蛇が往き来してすんでおり、たまに龍歩洞前に横たわる平らな大きな島へ渡って甲羅を太陽に光らせ、トグロを巻いていびきも高々とねている時もあって、人々はこの島を大蛇島(おおじゃしま)と呼んだ。現在は磯釣場として最適の場所である。
 この大蛇は、権八の事件のあった日から急に姿を消し、行方がわからなくなったとのことである。
 洞の中のアワビはノミを幾本食わしてもしがみついてなかなかとれず、漁師や婦人たちは、てっきり権八の祟りだとこわがり寄りつかなかったほどであった。
 また、崖の上から石を投げると権八の声のようなこだまが返って来るとも言われてきた。
 地元では昭和四十九年七月二十四日「権八地蔵」を建立して権八の霊を供養し
そばに、
   権八の声かも秋の潮騒に    千魚子
の句碑が立てられている。

 

  • 通称「権八地蔵」は正式名称には「延命地蔵」というようで、上記引用文にもあるように昭和49年に建立された。地蔵尊のそばにある看板には、次のような由来が掲げられている。

延命地蔵尊由来
 抑々(そもそも)昔の江住村と和深村の境界の磯にある洞窟を根城に住んでゐた傳次権八と言ふ子を連れた母たまと同棲してゐた。
 たまの死後 権八が十歳位の時、母を慕い日夜泣き叫ぶので、傳次権八を釣に連れていくふりをして此の崖から突き落して死なせた。
 所謂まゝ子殺しとして傳わっている此處へ、哀れな権八の供養に建てたお地蔵さんである。
  南無阿彌陀佛
昭和四十九年七月二十四日建立
        老人クラブ仲よし会

 

  • 上記「すさみ町誌」からの引用文の中で「江須之平」と呼ばれている土地は、村落としては「江須之川」に属し、江須の川漁港の西側で、海岸から南に突出した台地状の岬のことをいう。「江須崎(えすざき)」と呼ばれることもあるが、狭義には「江須崎」はこの岬の突端にある陸繋島(りくけいとう 砂州によって陸地とつながった島)のことを指すので注意が必要。狭義の江須崎は、鬱蒼とした原生林が残り、特にハカマカヅラ、サカキカヅラ、ナシカヅラ等の蔓性巨樹が多いことから「江須崎暖地性植物群落」として国の天然記念物に指定されている。
    江須崎暖地性植物群落 文化遺産オンライン

 

 

  • 日本童謡の園」は、童謡「お花がわらった」「大きな古時計」などを作詞大きな古時計は訳詞)した保富康午(ほとみ こうご)がすさみ町出身であったことや、「まりと殿様紀州の殿様の歌)」、「鳩ぽっぽ新宮市出身の東くめ作詞)」など紀州ゆかりの著名な童謡があることから、すさみ町がまちおこしのため昭和62年度に整備したものである。園内には「まりと殿様」「鳩ぽっぽ」「お花が笑った」のモニュメントに加え、代表的な童謡7曲(「赤とんぼ」「七つの子」「みかんの花咲く丘」「めだかの学校」「うみ」「てるてる坊主」「夕焼け小焼け」)の歌碑が建立されている。
  • 保富康午は、童謡以外にも多数のTVアニメ主題歌を作詞したことでも知られており、代表作には次のようなものがある。

サザエさんのうたサザエさん 火曜日放送版オープニング)
  作詞:保富康午 作曲:渡辺宙明 歌:堀江美都子
がんばれドカベンドカベン オープニング)
  作詞:水島新司/保富康午 ​作曲:菊池俊輔 歌:こおろぎ'73
キャプテンハーロック/われらの旅立ち
   (宇宙海賊キャプテンハーロック オープニング/エンディング)

  作詞:保富康午 作曲:平尾昌晃 歌:水木一郎
おれは鉄兵おれは鉄兵 オープニング)
  作詞:保富康午 作曲:渡辺宙明 
  歌:藤本房子、こおろぎ'73、コロムビアゆりかご会

グランプリの鷹(アローエンブレム グランプリの鷹 オープニング)
  作詞:保富康午 作曲:宮川泰 歌:水木一郎フィーリング・フリー
  (この作品については保富庚午が原案・監修も担当)
など
保富康午 - Wikipedia

 

  • 「すさみ」という地名について、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「周参見浦」の項には次のような記述があり、「風が吹きすさ(荒)ぶ」等の「すさぶ」に由来するものとであろうとしている。

周参見の名義を考うるに
古歌に風すさぶ 吹すさぶ
などいうと同じ義にて
此地 浪風の烈しき海なれば
須佐備字美(すさびうみ)を略して
須佐美と称(とな)うるなるべし

 

  • 昭和30年(1955)3月31日に旧・周参見(合併と同日付けで三舞村大字太間川を編入大都河村及び佐本村が合併して「すさみ町」が成立するまで、この地の名称は「周参見(すさみ)」と漢字で表記されていた。合併後の「すさみ町」は、日本で初めて「全てひらがなで表記される町村名」を持つ町となった山口県むつみ村の成立は翌4月1日である)。ちなみに、市で初めて「全てひらがなで表記される市名」を付けたのは青森県むつ市昭和35年(1960)成立)である。
  • 下記の個人サイトによると、平成になると若干「ひらがな町村名」の自治体が増加しているが、昭和時代に存在した「全てひらがな表記」の町村はわずかに5町村のみであったとのことである。

和歌山県西牟婁郡 すさみ町  昭和30年(1955)
山口県阿武郡   むつみ村  昭和30年(1955)
        (平成17年(2005) 合併により萩市
和歌山県伊都郡  かつらぎ町 昭和33年(1958)
北海道幌泉郡   えりも町  昭和45年(1970)
滋賀県東浅井郡  びわ   昭和46年(1971)
        (平成18年(2006) 合併により長浜市
ひらがな町村名 ‐ 通信用語の基礎知識

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。