有田稲村の米吉というこどもが、命を助けてやった鯨の背に乗ってアメリカヘ渡り、そこの森の神さまから巨木をもらって帰った。「以前、お米をもらったお礼です」。少年はそういって、巨木を金持ちの家へ贈った。
この何の変哲もないお話は「稲村亭」(とうそんてい)の起源にまつわるという。
黒船の来航で日本中が大きく揺れた嘉永年間、有田浦の稲村崎は大飢饉に見舞われた。それを救ったのが、この地方の豪商・神田家。その恩義を忘れなかった浦人たちが、約20年後の明治4年、稲村崎に流れついた長さ5メートル、直径2メートルの巨木を神田家に運びこみ、隠居部屋の材料にした。それがいまの稲村亭だ……と。それにしても、洋式捕鯨発祥の地、海外移住の多い申本らしいお話だ。
(メモ:稲村亭は、国鉄紀勢線串本駅から商店街を歩いて約10分。すぐ近くに、応挙、芦雪で有名な無量寺がある。)
- この物語については、田辺市出身の教育者・那須晴次氏の著作「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」で次のように紹介されている。ここでは、子供が鯨に乗ってアメリカへ言ったという話は「お伽噺の様なもの」と表現されており、子供の名前は忠吉となっている。
稲村亭(串本)
「串本に亜米利加から流れてきた家がある」といはれる。それは今串本町879番地に在る神田清兵衛氏の邸宅 稲村亭というのがそれだ。この家は今から40年程昔 串本から程遠からぬ有田村の海岸に途方もない大きな材木が一本大浪に打寄せられた。
折ふし通りかかりの漁師何某といふ者が逸早く見付けて拾ひ取つたが長さが二間(約3.6メートル)の切口一間(約1.8メートル)もある大木、転がした端に人が立つと丁度頭と木がすれすれになつたといふ。四方は一面に虫に侵され水にさらされて切口なぞはもう丸くされてしまつて居る。何十年海につかつて居たものか見当が付かぬ位であつた。拾ひ上げた後に諸方から大分買手がついた。
所で その時から20年ほど前 稲村に大飢饉があつた。神田家が其倉庫を開いて盛に救恤(筆者注:きゅうじゅつ 困っている人に見舞いの金品などを与えて救うこと)を行つた事がある。漁師はこれを徳としてせめてかかる折にこそ其の恩誼の萬一にも報いんものと一切の買手を盡くしりぞけてこの珍しい大材木を惜気もなく無代で神田家へ贈つた。
神田家では折角の好意と喜んでこの贈物を納めたが この辺にはこんな大木を切る大鋸もなければ木挽も居ない。俄かに人を大阪に走らせて急に別仕立ての鋸を拵へさせるやら、仕事に慣れた木挽を雇ひあつめるやらやつさもつさ大騒ぎをした末、愈々この木を挽き割つて見ると驚いた--今の今まで水に蝕はれて薄汚い材木とのみ見えたものは割つて見ると中は幾十年間水に浸され木汗の全く拔けた亜米利加のレツド、ウツド(筆者注:Redwood 北米産の場合はスギ科セコイア属の針葉樹を指し、害虫や腐食に非常に強いことで知られる) さながら鼈甲(べっこう)の様な色に光つてゐる。立派な木であつた。神田家の人々は驚喜した。
それから浜に二間に余る大風呂を沸かして挽き割つた材木を一々これで煮て塩出しを行った。何分長い間潮に浸つて居た事とて切口から潮を吹いて持て余したといふ。而し塩出しがすむと木は堅いし色は美しいものであつた。記念の為めにこの木許(ばか)りで家を建てたら何うだらうかといふ議論が起つて遂にそれに決まつた。そして稲村亭が出来た。その室は八畳十畳の二室で柱、梁の類はもとより、襖、障子から、この室備付けの衝立、屏風、煙草盆に至るまで盡くこの一本の木で作ったのである。これに付いて幼時お伽噺の様なものを聞いた。それはその飢饉の後に村人は神田家に何かお礼をしようとして居た。ある時にその村の忠吉といふ子供が海岸の漁の見張りをして居ると小鯨がおよいで来たので村人を呼ばうとすると鯨は言ふのに「報らさないで呉れ、そのかはり良いものをやるから私の背に乗れと言つた」ので乗るとやがて遙るばる北米に着いた。鯨は「山に神が居るからもらへ」と言つたので忠吉はその理由を山神に言ふと一本の大材木を切つて呉れたのでそれに乗つてまた遙か大平洋を渡つて串本の隣の稲村にかへつて来た。村人は驚いて忠吉を迎へた。そして今までの話を村人に物語つてそれを恩を受けた神田家に贈つたのであると。
※引用にあたり、漢字の旧字体を適宜新字体にあらためた。
旧神田(かんだ)家別邸(稲村(とうそん)亭)
紀伊半島南端の串本町を代表する商家、神田家は鯨漁などの事業を営んだ。旧神田家別邸は明治7年の建築で、敷地中央に南面して建つ農家型の平面で、桟瓦葺きの大屋根を載せる。目の詰んだ柾目(まさめ)のスギ材を用いて造作し、端正な造りで上質である。現在は、飲食店、宿泊施設として活用。登録有形文化財(建造物)の登録について | 文化庁(「一覧表」参照)
- 神田家の後裔とされる方の個人ブログ「稲村亭日乗」では、「稲村亭 流木で作られた家の話 2016年03月13日」の項で稲村亭について詳細に記されている。これによれば、かねて隠居所を作ろうと考えていた神田清右衛門第十二世 直堯(なおたか)翁のもとへ、有田村(現串本町有田)の稲村崎の漁師から巨大な流木を拾得したので差し上げたいとの話が寄せられたとのこと。翁は只ではもらえないということで、五両を漁師に支払い、その半額を役所に払った上で自らのものとした。後に、漁師の親族が集まった際に「他へ売れば二十両にもなろうものを、五両で売るなんて馬鹿者じゃ」と言われたが、「先年の大飢饉の際、翁が匿名で米を無償で配ってくれたこと、また、安政の飢饉の際に貧者に米、味噌、醤油や銭を配ってくれたことへの恩を忘れたか。」と言い切ったとされる。
稲村亭 流木で作られた家の話 - 稲村亭日乗 - 上記のブログにはまた、飢饉の際に住民に米を配ったことに関する直堯翁の話も掲載されているので、以下にその一部を引用する。
深美氏から説明(筆者注:材木を安価で差し上げるのは飢饉の際に米を配ってくれたことへのお礼であるという趣旨)を受けた直堯翁は思い出した。
『あの当時は当今とは違って船も少なく、また船足もおそかったため、特に天災の多いへき地であるこの地方(串本一帯)では主食の米が底をついて飢饉の状態になることは決してまれではなかった。
ことにその年は滅多にないひどい飢饉であった。たまたま私が有田の勇蔵方へ立ち寄ったとき、偶然にも大阪から荷を積んだうちの米船が今着いた、と店の者が知らせて来た。
それで早速その一部を勇蔵方へ荷揚げさせ、有田周辺の貧しい人たちに家族数などに応じて然るべく無償で配ってあげてほしい、但し決して私の名を出してはいけない、と頼んで帰ったときのことを指しているわけであろう。
また、その前の安政飢饉云々というのは、やはり同様なことで、そのときは米、味噌、醤油のほかに銭三百文位ずつ家族数の多少に応じ、当地方一帯の貧者へ贈ったことを指しているものと思われる』
- 上記ブログによれば、これらの記録の初出は、神田清兵衛氏が編纂した「一樹の蔭」(大正十年八月 非売品)であるとのこと。
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同じく上記ブログによれば、2011年に和歌山県教育委員会を通じて橿原考古学研究所で分析を行ったところ、この木は北米産のレッドウッドではなく、「スギ科のスギ」であることが判明したという。
- 令和元年(2019)7月1日、稲村亭ほか1棟が「NIPPONIA HOTEL 串本 熊野海道」として再興された。これは、地元のまちづくり会社「株式会社一樹の蔭」が事業主体となり、串本町・紀陽銀行・一般社団法人ノオトの三者が支援するプロジェクトで、当初は宿泊施設(客室3室)と飲食施設(レストラン、カフェ)でスタートし、将来的には他の古民家もあわせて宿泊施設等を拡張する予定となっている。
古民家ホテル串本にオープン レストランやカフェ併設:紀伊民報AGARA
- 本文では串本を「洋式捕鯨発祥の地」と記載しているが、いわゆる洋式捕鯨(近代捕鯨)については、明治32年(1899)の日本遠洋漁業株式会社(山口県長門市仙崎 数度の合併を経て現在は日本水産株式会社)設立に始まるとするのが一般的となっている。また、「古式捕鯨」については諸説あるものの、和歌山県では太地町が発祥の地であるとするのが通説である。詳細は別項「鯨えびす」を参照のこと。
鯨えびす ~太地町太地~ - 生石高原の麓から
串本の捕鯨
近世における口熊野の捕鯨基地といえば、鯨方の名で呼ばれた太地浦・古座浦・三輪崎浦の存在がよく知られています。太地鯨方は太地一族(太地一類と自称)の経営であり、古座鯨方は紀州藩、三輪崎鯨方は新宮藩の援助のもと半官半民の形で運営されていました。
これらの鯨方はいずれも勢子船・網船・持左右船・樽船など数十隻が船団を組み、羽差(指)・加子・陸上従業員を合わせると300人余りを要する大がかりな企業組織でした。
なかでも串本に隣接する古座鯨方は、いろいろの面で大島(古座組)や江田組とかかわりをもっていました、古座浦の前に大島が横たわっているので 沖を回遊する鯨を見ることができない。そこで大島の東端樫野崎(現在の灯台付近)にいわゆる山見(見張り)を立て、鯨を発見すると狼煙や旗をあげて知らせていた。
古座鯨方は10月から2月ごろまでを冬漁と称して樫野崎沖で、3月から4月までを春漁と称して二色村の小字袋浦(現串本町内)に出向いて潮岬沖で操業していました。
串本地区の歴史や文化
- メモ欄中にある無量寺は串本町の臨済宗東福寺派別格寺院。宝永地震(宝永4年、1707)による大津波で全壊したが、天明6年(1786)、8世愚海和尚により再建された。これを祝して和尚の友人であった絵師円山応挙は、これを祝って描いた障壁画12面を高弟である長沢芦雪に託した。串本に到着した蘆雪は、自らも串本滞在中に障壁画を描いた。現在、これらのうち下記の7作55面が国の重要文化財に指定されているが、中でも「竜虎図」のうち「虎図」は、蘆雪の代表作として良く知られている。これらの作品は無量寺内の「串本応挙芦雪館」で見学できる。
- 令和2年(2020)7月、日本財団が推進する「海と日本プロジェクト」の一環として、「海ノ民話のまちプロジェクト実行委員会」によって稲村亭にまつわる民話を題材にした短編アニメが制作されることになった。このアニメは、「お屋敷になったクジラ(上映時間 約5分)」という題名で令和3年(2021)2月に完成し、串本西小学校で上映会とフィールドワークが開催される予定である。
古民家にまつわる民話がアニメに 串本の稲村亭、年内完成予定:紀伊民報AGARA - 上記のアニメは、youtubeの「くしもと珍魚ちゃんねる」で閲覧可能となっている。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。