生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

鯨のお礼~串本町有田~

 有田稲村の米吉というこどもが、命を助けてやった鯨の背に乗ってアメリカヘ渡り、そこの森の神さまから巨木をもらって帰った。「以前、お米をもらったお礼です」。少年はそういって、巨木を金持ちの家へ贈った。

 

 この何の変哲もないお話は「稲村亭」(とうそんてい)の起源にまつわるという。

 

 黒船の来航で日本中が大きく揺れた嘉永年間、有田浦の稲村崎は大飢饉に見舞われた。それを救ったのが、この地方の豪商・神田家。その恩義を忘れなかった浦人たちが、約20年後の明治4年、稲村崎に流れついた長さ5メートル、直径2メートルの巨木を神田家に運びこみ、隠居部屋の材料にした。それがいまの稲村亭だ……と。それにしても、洋式捕鯨発祥の地、海外移住の多い申本らしいお話だ。

 

(メモ:稲村亭は、国鉄紀勢線串本駅から商店街を歩いて約10分。すぐ近くに、応挙、芦雪で有名な無量寺がある。)

 

稲村亭(旧神田家別邸)は、令和元年12月5日付けで登録有形文化財に指定された。登録に際して、次のような特徴があると記されている。
紀伊半島南端の串本町を代表する商家、神田家は鯨漁などの事業を営んだ。旧旧神田家別邸は明治7年の建築で、敷地中央に南面して建つ農家型の平面で、桟瓦葺きの大屋根を載せる。目の詰んだ柾目(まさめ)のスギ材を用いて造作し、端正な造りで上質である。~
※稲村亭の由来については、神田家の後裔とされる方のブログ「稲村亭日乗」 において、「稲村亭 流木で作られた家の話 2016年03月13日」のタイトルで詳細に記されている。これによれば、かねて隠居所を作ろうと考えていた神田清右衛門第十二世 直堯(なおたか)翁のもとへ、有田村(現串本町有田)の稲村崎の漁師から巨大な流木を拾得したので差し上げたいとの話が寄せられたとのこと。翁は只ではもらえないということで、五両を漁師に支払い、その半額を役所に払った上で自らのものとした。後に、漁師の親族が集まった際に「他へ売れば二十両にもなろうものを、五両で売るなんて馬鹿者じゃ」と言われたが、「先年の大飢饉の際、翁が匿名で米を無償で配ってくれたこと、また、安政の飢饉の際に貧者に米、味噌、醤油や銭を配ってくれたことへの恩を忘れたか。」と言い切ったとされる。
※上記ブログによれば、当時、 串本にはこんな大木を挽く大鋸もなければ職人もいなかったため、大阪に人をやって、特別に鋸をこしらえ、木挽職人を集めた。実際に割ってみるとベッコウのような色に光っていたことから家の用材として用いることとし、稲村亭の奥座敷2間(8畳と10畳)の柱や壁、障子の桟や小型の家具までがこの流木から作られた。
※令和元年(2019)7月1日、稲村亭ほか1棟が「NIPPONIA HOTEL 串本 熊野海道」として再興された。これは、地元のまちづくり会社「株式会社一樹の蔭」が事業主体となり、串本町紀陽銀行一般社団法人ノオト三者が支援するプロジェクトで、当初は宿泊施設(客室3室)と飲食施設(レストラン、カフェ)でスタートし、将来的には他の古民家もあわせて宿泊施設等を拡張する予定となっている。
無量寺串本町臨済宗東福寺派別格寺院。宝永地震(宝永4年、1707)による大津波で全壊したが、天明6年(1786)、8世愚海和尚により再建された。これを祝して和尚の友人であった絵師円山応挙は、これを祝って描いた障壁画12面を高弟である長沢芦雪に託した。串本に到着した蘆雪は、自らも串本滞在中に障壁画を描いた。現在、これらのうち下記の7作55面が国の重要文化財に指定されているが、中でも「竜虎図」のうち「虎図」は、蘆雪の代表作として良く知られている。これらの作品は無量寺内の「串本応挙芦雪館」で見学できる。
 円山応挙

  「紙本墨画波上群仙図」

  「紙本墨画山水図」

  「紙本金地著色群鶴図」
 長沢芦雪

  「紙本著色薔薇図」

  「紙本墨画竜虎図」

  「紙本墨画群鶴図」

  「紙本墨画唐子琴棋書画図(寺子屋図・遊図)」

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(※印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。