生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

美少女おいの ~新宮市新宮~

 「好いた同志のうれしい首尾で 心浮島ひとめぐり」。
 新宮節にもうたわれている天然記念物「浮島の森」は、いまなお神秘的な雰囲気をただよわせる。そして、その神秘さをそのまま語るような話が伝わる。

 

 源平のころ、このあたりに、おいのという美しい娘がいた。木こりをしていたのもとへ、昼の弁当を届けるのを日課としていたが、ある日、浮島の森へ行ったため、おいのも森へ入った。


 この日おいのは、あちこち遊び回りたいと思い、自分も昼の仕度をして行った。に弁当を手渡した帰り、石に腰をおろして弁当をひらいたところ、ハシを忘れたのに気づき、ススキの茎を折り、ハシの代りとした。
 森の中は夏でも涼しく、あまりの快さに思わずうっとりとし、眠気をもよおした。遠く聞こえる規則的な父の斧の音に、しだいに夢の国へ誘われるようであった。

 

 ふと物音に気づき、われにかえると、黒い大蛇が目の前に鎌首をもたげている。思わず「助けてっ~。父さん」と叫んだが、すでにおそかった。おいのの身体は、ひと抱えもある大蛇の大きな口にくわえられて、身動きもできない。しきりにを呼びつづけるおいのの抵抗も空しく、大蛇はゆうゆうと沢の茂みへ姿を消してしまった。そこへ息せき切ってかけつけた父親は、池の面にただよう血なまぐさい空気に、不幸なできごとのすべてをさとった。


 家に帰り、とともに再び森に引き返したは「蛇の穴」と呼ばれている沢の片隅の穴のそばで両手をつき「せめて、娘の姿をもう一度みせて下さい」と、くり返し哀願したところ、一陣の強風が吹き起り、にわかに暴風雨となったかと思うと、大蛇が哀れなおいのをくわえて鎌首をもたげ、またたく間に蛇の穴へと姿を消してしまった。父親母親は、いま一度と何度も頼んだが、二度と再び、大蛇は姿をみせなかった。おいのは、池の主に魅せられて若い命を落したのだった。それ以来、熊野の人たちは、決してススキをハシの代りに使わなくなったという。

 

 「おいのみたけりや藺の沢(いのど)へござれ おいの藺の沢の蛇の穴に

 この付近の俗謡は、いまなお、おいのの哀れな物語を語り伝え、浮島の奇勝を探る観光客の旅情を慰める。

 

 「浮島の森」は、面積約5千平方メートル。暖寒両性の植物60科、130余種が同居して群落をつくり、古代地質と植物生態学上の、貴重な生きた資料とされている。
 いまは建てこんだ民家に囲まれているが、明治末期までは、文字通り池の中に浮かんでいた。池の水が増えると、島自体も浮き上がり、決して水浸しになることがなく、風のまにまに位置を変える。まるで生きているような、ふしぎな島だ。


 なぜこんな島ができたのかは、まだ学界でもはっきりしないが、現地発生と漂着の二つの説がある。現地発生説は、太古に土地が陥没して森の周囲が沼となり、浮き上ったという。漂着説は、このあたりを流れていた新宮川の水域にあった明神山の一角が、大木を多数抱えたまま流れ出したものだ、と。その後、流れの変化で付近が池となり、島に付着していた草木類が腐って浮力をつけたのではないかという。

 

 おいのが姿を消したという蛇の穴は、森の入口から左へ約60メートル入った踏み板の小径ぞいにあり、上から見る限り、ちっぼけな水たまりに過ぎない。古老たちは、おいのはへビに呑まれたのではなく、島の中央にある底なしの穴に落ち込んで死んだのだろう、という。これが「蛇の釜」といわれる井戸のような水たまりで、昔は池の中の大蛇が出入りする穴と信じられ、恐れられた。神秘な森の主に、蛇を想定したのは、きわめて自然なことだろう。

 

 上田秋成(1734~1809年)が「雨月物語」に収めた「蛇性の淫」は、この物語をヒントにしたともいう。

 

(メモ:浮島の森は、国鉄紀勢線新宮駅の西約500メートル、徒歩5分。国道42号線初ノ地交差点から浮島本通りへ。近くには速玉大社、ゴトビキ岩などもある。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

浮島の森遊歩道 蛇の穴(じゃのがま)付近

 

  • この物語は、昭和5年(1930)に発行された那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会)」に「浮島蛇身物語」として紹介されている。この文章では浮島の森周辺の状況などについても触れられており、昭和初期の自然環境を知る上でも大変興味深い。

浮島蛇身物語(新宮)
 「浮島の森」は東牟婁郡新宮町字藺の沢にあり面積1501坪の文字通りの浮島である。地質は完成せざる泥炭と水苔、草根の類からなり、その上に松、杉、山桃、桧の巨木が鬱蒼として森をなし樹下には天台烏薬や、一ツ葉その他、寒暖の植物が群落している。全島じめじめと多量に水分を保ち試みに地上に竹竿を押し込めば一丈二丈(筆者注:一丈は約3メートル)はわけなくめいり込み、底の深さはどれだけあるか知れないという無気味さだ。
 以前は全島の周囲が泥沼で容易に人の近づくを許さなかったものだが十四、五年前現在の浮島遊廓がこの森の北方に移転してから周囲の泥沼は次第に埋立てられ今日では僅かに東北の一部がその面影を存し南西方面は悉く宅地となって森につづき「浮島の森」本来の孤島的生命を失うに至った。
 かかる広大な面積を持つ浮島と寒暖さまざまの植物が群落する状態は全国でも珍らしいとあって内務省天然記念物に指定された結果新宮保勝会でも一段と力瘤を入れ、最近宅地になった周囲の土地買入れ交渉を開始するやら、島の周囲に柵を立てて心なき人々の植物の濫伐を防ぐなどこれが保護に躍起となっている。
 何しろ昔は純然たる浮島、風荒き日は樹木が丁度船の帆のように見え全島恰も浮城の如く風の方向に従うて移動するという有様で風に対する抵抗を弱めたから樹木の損傷など殆どなかった。然るに現在では前記のように島が陸続きとなって固定したため勢い抵抗力を生じ強風にあえば千年の巨木も軟弱な地上に立つ悲しさにもろくも倒壊してあたら風致を損すること夥しいものがある。
 「浮島の森」の世に出たのは内務省の天然記念物に指定される前後のことで、まだほんの最近である。それまでは「蛇の穴」の伝説地として熊野の人々に知られ、一種陰惨な「神秘の森」の感を与えていたのであった。「蛇の穴」にはおいのと呼ぶ美女の奇しくも悲しいロマンスがひめられてある。今でも熊野の地方では
 「おいの見たけりや藺の沢へ御座れ、おいの藺の沢の蛇の穴に
という俗謡が口ずさまれているほどこの伝説は熊野に取り相当馴染深いもので、日高川の如く全国的には行かずとも県下では恐らく蛇身物語として日高川に次ぐ資格があり、なかんづく近時上田秋成氏の雨月物語中「蛇性の淫」の対象として郷土歴史家に研究され出したなど今や大いに有名ならんとしている。物語は源平の昔に遡って彼の源為義六波羅の戦いに敗れてその娘丹鶴姫と共に熊野に逃れ新宮に潜んでいた時代のこと(伝説だからはっきりした年代は知る由がない)。
 新宮藺の沢に「おいの」と呼ぶ美しい年ごろの娘があった。は樵夫(筆者注:きこり)で、おいのは家にあっての手助けの傍、父の仕事先きにお昼の弁当を届けるのを日課としていた。或る日おいのの父は浮島の森へ杉を伐りに出かけた。おいのはその日どうしたものか森の中が非常に懐かしいもののように思われた。暗くてしめっぽい。そして小さな蛇達が樹の枝でダンスをしている、あの陰惨な森の中が何んで慕わしいのであろう。おいのはその日の自分の心が不思議でならなかったが、強いてその誘惑に勝とうとはしなかった。それで昼を待ちかねて父の弁当と自分もまた少しばかりの握飯を用意していそいそと出かけた。おいのの母は日ごろ温なしい娘があのような陰気な森に進んで出かけるのを不安気に見送った。そしてそれが森の中で寂しく仕事をしているであろうを慰めるための孝心であろうと勝手に解釈して可憐でならなかった。こちらはおいの父に弁当を届けるや森の中央へ一人で踏み込んで行った。
 丁度大きな松の樹の下に苔むした台石があったので腰を下しその附近で手折って来た薄のくきを速成の箸に弁当をひろげた。真夏ではあったが水気を多分に含んだ森の中は水の様に凉しかった。シーンとした静寂の中にの生樹を挽く鋸の音がしめやかに眠気をさえ催した。ふとおいのは眼の前に大きな黒い影を見た。それがスルスルと伸びて冷やりとおいのの肌に触れた。ゾットして弁当を投げ出し「父さん・・・」と叫んだ時はもう遅かった。おいのの身体はふわりと宙に浮いて、一抱えもあるであろう大蛇の口に横になっていた。おいのをくわえた大蛇は暫く鎌首を宙に上げていたがやがて蛇身を沈めると、しだの繁みにある、暗い水溜りの中へ悠々と姿を消した。
 一方おいのの父は、けたたましい娘の叫びに不吉な予感に襲われ、直ぐさま馳せつけたが、徒らにそのあたりがなまぐさい風の気配がするのみで可愛い娘の姿は見えなかった、然し附近の雑草をなぎ倒した無気味な光景から察しさすがにそれと感付いたので、取り急ぎ我が家に帰り、に急を告げ夫婦ともども再び森に引き返し蛇の穴と思われる水だまりの前に両手をつかえ「大蛇殿、娘の姿をもう一度見せて下され」と血を吐くように哀願した。
 すると一陣の醒風、さっと起り、いたましや大蛇の口に横たわった、娘が今は生気を失うて人形の如く、恐ろしい鎌首と共にするすると宙に浮ぶこと三度びかくしてまた元の穴に大蛇と共に没し去った、夫婦は今更の如く我が子の愛着にたえかね、恐ろしさも忘れ、声を限り泣き叫び「せめて今一度見せて下され」と底知れぬ蛇の穴を覗き込んだが娘の姿は再びこの世に出てこなかった、それから以後、新宮の人々は無論、この物語を知る熊野の人々は決して薄のくきを箸の代用にはしない、現に今でも固く禁じられている。

 

  • 浮島の森」は、泥炭でできた面積約5,000㎡の島全体が沼の上に浮かぶ日本最大の浮島で、「新宮藺沢浮島植物群落(しんぐう いのそ うきしま しょくぶつぐんらく)」として昭和2年(1927)に国の天然記念物に指定された。「藺沢(いのさわ/いのそ)」は浮島の森付近を示す地名。本文中の俗謡にある「藺の沢(いのど)」に同じ。
  • 浮島が浮かぶ沼地の底泥炭層で構成される。近年の研究によれば、浮島周辺は縄文時代以降、熊野川沿いの自然堤防や段丘によって区切られた沼沢地となっており、ここに堆積された枯死した植物の遺体が腐敗することなく泥炭状に変化したものと考えられている。浮島もまた泥炭層で構成されているが、植物の根や倒木が絡み合っており、沼地底とは構成する植物や分解程度などの特性が異なるため、島と沼地底とは結合されていない。このため、堆積当初はこの両層が上下に離れることなく重なっていたものの、江戸時代に周辺地域が開発されるに従って沼沢地の範囲が狭くなり、その影響で水位が上昇したため、軽い材料で構成されている泥炭層の上層部が浮遊したことから、現在のような「浮島」になったと考えられている。
    浮島の森 - Wikipedia

 

  • 本文にある「新宮節」は新宮地方に伝わる民謡。和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では下記のように紹介されており、全国各地から集まる木材商らが集まる酒席での座敷唄として唄われたとする。2番の「お灯祭りは 男のまつり 山は灯(火)の滝 下り竜」という歌詞は、勇壮な火祭りとして全国的に知られている神倉神社の「お灯祭り」をよく表した言葉として現在でも頻繁に引用されている。

新宮市/新宮節
 新宮は熊野各地の木材の集散地であり、各地からの仲買人、木材商を迎えて酒席の座敷唄として唄われたのがこの新宮節であった。お灯祭りや速玉神が唄い込まれている。
1.新宮よいとこ 十二社さまの
    神のまします 良いところ
2.お灯祭りは 男のまつり
    山は灯の滝 下り竜
3.新宮三万七千石に
    すぎた丹鶴 沖見城
4.露の玉垣 速玉さまの
    楡(筆者注:「梛(なぎ)」の誤りか)の木の葉に 縁結び
新宮市:新宮節 | 和歌山県文化情報アーカイブ

  • 本文冒頭に掲げられた「好いた同志のうれしい首尾で 心浮島ひとめぐり」という歌詞は上記の和歌山県のサイトには掲載されていないものの、日本大衆文化倉庫名義で紹介されている下記の動画では4番の歌詞として取り上げられており、一般的に歌われていた歌詞であったものと考えられる。

(エッサエッサ ヤレコノセ
    ヒーヤーリ ハリハリセ)
新宮よいとこ 十二社さまの
(セノヨイヤサノセ)
    神のましますよいところ
お燈祭りは 男の祭り
    山は火の滝 下り竜
新宮三万七千石に
    姿丹頂 沖見城
好いた同志の 嬉しい首尾で
    心浮島 ひとめぐり
新宮川口 ふた瀬に切れて
    思いやる瀬と やらぬ瀬と
新宮節(YOUTUBE)https://www.youtube.com/watch?v=XyyNiTXrf7s

 

  • 雨月物語」は上田秋成が江戸時代後期に出版した読本(よみほん 伝奇風小説)。日本・中国の古典から題材を得た怪異小説集で、江戸中期の文芸復興の一端をになう名作として名高い。「白峯(しらみね)」「菊花の約(きっかのちぎり)」「浅茅が宿(あさぢがやど)」「夢応の鯉魚(むおうのりぎょ) 」「仏法僧(ぶっぽうそう)」「吉備津の釜(きびつのかま)」「蛇性の婬(じゃせいのいん)」「青頭巾(あをづきん)」「貧福論(ひんぷくろん)」の9編からなる。
  • 本文の物語が影響を与えたと言われている「蛇性の淫」は、一般的には中国の通俗小説集「警世通言(けいせいつうげん 1624年発行)」の第28巻「白娘子永鎮雷峰塔​(はくじょうし えいちんらいほうとう 一般に「白蛇伝(はくじゃでん)」と呼ばれる物語の原典のひとつ)」を翻案したものとされるが、舞台が新宮であること、結末が道成寺(一般的には清姫が大蛇となった話で知られる)と結びついていること、などの点で紀南地方の伝承を取り込んでいることが容易に推察される。

蛇性の淫 あらすじ

 紀伊国三輪が崎(現在の新宮市に住む網元の二男・豊雄は、漁師小屋で雨宿りした際に県の真女児(あがた の まなご)という美女と知り合った。
 後日彼女の家を訪ねた豊雄真女児と楽しいひと時を過ごしたが、真女児は自分には身寄りがないと告げ、豊雄に結婚を迫った。豊雄が迷いながらもこれを承諾すると、真女児は彼に宝物の太刀を贈ってくれた。ところが、あまりに太刀が見事なので豊雄の家族が不審に思って調べてみると、この太刀は熊野速玉大社の宝物であり、最近盗まれたものであることがわかったのである。
 盗賊の嫌疑をかけられた豊雄が事情を説明し、役人を伴って真女児の家に行くと、なんとそこは三年も前から人の住んでいない廃墟であった。そこに真女児が現れたので同行の役人らがこれを捕えようとすると、たちまち雷鳴が鳴り響き、女の姿はどこかへ消えてしまった

 

 その後、豊雄大和国石榴市(つばいち 現在の奈良県桜井市に住むのもとに移ったが、そこにまた真女児が現れた豊雄妖怪が再び現れたと恐れたのだが、真女児の涙ながらの弁解を聞き、誤解であったかと思い、姉夫婦のとりなしもあって二人は一緒に暮らすようになった。やがて婚儀を取り結んだ後、豊雄は渋る真女児を説得して吉野へ旅に出た。金峰山寺のあたりを歩いていたとき、向こうから歩いてきた真女児を見ていきなり
怪しい。この邪神(あしきかみ)はなぜ人を惑わすのか。
とつぶやいた。その言葉を聞いたとたん、真女児は踊り上がって滝に飛びこんだ。するとたちまち水が大空に吹き上がって、真女児の姿は消えてしまった。

 翁は、大倭神社に仕える当麻酒人(たぎまの きびと)と名乗り、
此の邪神は年を経た大蛇(おろち)である。その性質は淫りなるもので、このたびのことも、そなたが美男であることに魅かれたのであろう。このように執念深いのであれば、身をよく慎まなければ命を失うことになるやもしれん。
と説諭した。

 

 この話を聞いた豊雄の両親は、豊雄が独身であることが良くないと考えて芝の庄司の娘・富子を妻に迎えることとした。ところが、結婚して二日目の夜、今度は富子が真女児にとりつかれて延々と恨み言を言い始めたので、たまたまこの地に来ていた鞍馬寺の僧侶に調伏を依頼したが、大蛇の姿となった真女児の毒気にあたってあっけなく死んでしまった。
 これを見た豊雄は、富子を助けるために芝の庄司(富子の父)に離縁を申し出たが、庄司はこれを許さず、道成寺法海和尚の法力に頼ることとした。和尚の指示で、豊雄富子(真女児が乗り移ったもの)に優しい声をかけ、油断したところに芥子の香を染み込ませた袈裟を覆いかぶせて上から押さえつけて動けなくしていると、やがて和尚を乗せた駕籠がやってきた。和尚が袈裟をはずすと、正気なく倒れた富子の横に白い三尺(約90センチメートル)余りの蛇がとぐろを巻いてじっとしていた。法海和尚は、この蛇を捉えて弟子が持つ鉄鉢に入れ、さらに念じると屏風の後ろから一尺(約30センチメートル)ばかりの小蛇が現れたので、これも捉えて鉢に入れた。
 和尚は、道成寺に戻ると、蛇を封じた鉢を堂の前に深く埋め、未来永劫この世に現れることを禁じた。今でもそこには「蛇が塚(おろちがつか)」かあるという。
 その後、庄司の娘は病にて亡くなったが、豊雄はつつがなく暮らしたという。

※本あらすじ作成は筆者
雨月物語 - Wikipedia

 

 

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。