生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

まかずの稲田 ~古座町(現串本町)古田~

 弘仁元年(810)2月、この地方を訪れた弘法大師が、古田の白石新兵衛友綱方へ現われた。佛道に篤い心をもち、また大師の説法に感じた友綱は、重畳山神王寺の開基に物心両面の協力をした。

 

 重畳山(302メートル)を開いた大師が、古田を去るにあたって「ご恩返しに、種を蒔かずに稲がみのるようにしてあげよう」と佛力を施した。以来この田は、種を蒔かなくても稲の穂をたれた……という。


 重畳山の古田登山口にある約3アールのこの水田の所有者は、白石清三さん。その白石さんは「雨水が、落ち葉などでできた自然の肥料を流しこんでくれるから」といい、最近、大学から調査にきたこともあるという。もっとも「南国のせいで、落ちた穂から芽が出たのでは」という説もあるのだが……。

 

(メモ:国鉄紀勢線古座駅から歩いて約20分。車なら7分ほど。)

現在の重畳山登山口付近

 

  • この物語については、田辺市出身の教育者・那須晴次氏の著作「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」で次のように紹介されている。

蒔かずの稲田(西向)
 西向村古田の尽くる所、重畳山の磐根に接して一軒の離れ屋がある、当家の主人は白石吉蔵と云って、この白石家から近い一歩の田は、古来蒔かずして稔る不可思議な佛縁を持っている田である。

 頃は弘仁元年(筆者注:書籍では「弘化元年」(1844)となっているが、「弘仁元年」(810)の誤植と思われる)の春まだ浅い二月半だった。朝の仕度を整へて居る白石家の軒端に立った一人の旅僧があった。身には破れた衣こそ纏うては居たが、その面もちは遍照光の相を現わし、温威を備えたゆかしい僧であった。主人の新兵衛友綱小山の一族として聞え、殊に佛道に信仰が厚かった。
 旅憎の誦する経文は、而(しか)も未だ聞かざる心を動かすものがあった。新兵衛友綱はかけ寄ってこの旅の僧を先づ先ずと我が家へ招じた。
旅の勞れも在はさうに、むさき家ながら善根の寸志何卒一夜なりとも・・・」と勞らうた。
難有し 一音は十方に遍(あま)ねく 善根は末代のため これ金剛心の所由、之れ邦家安心の締也」と賞讃した。この旅僧こそ空海弘法の前身であった。
 新兵衛一家は、この僧を有らん限りに勞らった。そして閑を得ては佛道の奥底を聞き波羅密多心経の講義をも聞いた。実に般若心経は佛道を悉くした聖典であった。
 観自在菩薩行深より説き起して、諄々として説く所は悉く聖者の声と響いた。
 「菩提薩埵依般若波羅密多
の条を説くに至るや新兵衛、廓然として悟道し、遂に師伝弘法に従うて重畳山開拓に力を尽した。
後 空海上人がこの地を去るにのぞみ、
御恩報施のため・・・」とてこの地一円の田園を蒔かずして稔るべしと念じ、思い多きこの地を後にしたが、その後数代、この付近の田は年々に豊穣にして、干ばつ天災を知らず、不思議の田として伝えられて居たが、年所の久しき、多くの田地は自ら人手に移ると共に田は舊(もと)の荒地と化し、或は山崩れのために埋もれ、今は僅かに一歩の田を残すのみになった。今なお弘法蒔かずの田として不思議の伝説と共に今日も蒔かずして年々稔っている。

 弘法大師が重畳山開基にからまるこの蒔かずの稲田と共に白石家重畳山開山の功勞は永く伝えられたものである。

筆者注:引用に際して、読みやすいよう一部の漢字・かなづかいを改変した

 

 

 創立年代不詳なるも紀伊国にては古き社にて、本国神明帳所載牟婁郡地祇従四位上姫神は当社のことである。
 伝説によれば、空海高野山創開前弘仁元(810)年ここに真言密教の大道場を創開せんと思いしも、規模が余りに小さきため高野山に移ったという。
 文安年間(1444 - 1448)神職峰山心海蘇原光臣は修行勧進社殿造営し中興した。
 『紀伊風土記』の古詞の条に「姫神」、又古田の条に「重山権現社」と称し氏子のいい伝で飛瀧権現ともいう。
 明治6年、村社となる。
 従来、重畳山神社と称していたが、重山神社と改称した。

 

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記 第3輯」には、「附録」の項に「神社考定」の部が設けられているが、「牟婁郡」でここに掲載されているのは、「姫神重山神社)」と「熊野三山」のみであり、当時、瀧姫神社が非常に高い地位にあったことが伺える。この記述によれば、古田村には尾崎吉蔵という者が耕作する「御供田(ごくでん 神社に備える米を栽培する田)」と呼ばれる田があったとされている。「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「重山神社」の項では、この御供田に「まかずの稲田」の伝説が付会されたとしているが、耕作者の名前が異なっていることから、この両者が同一のものであるか否かは不詳である。また、続風土記では、瀧姫神社の蔵に空海の書とされる棟札があるがこれは後世の偽造であると断じているほか、「姫川」「姫川村」「姫村」「神野村」「古田(神田→加布田→布留多→古田)」という地名はいずれも瀧姫神社に由来するものであるとし、「古座」の地名もまた瀧姫神にちなんだものではないかと述べている(前述の「角川日本地名大辞典」によれば「神座(こうざ)」から転じて「古座」になったとする)。

姫神
 祭神 瀧姫神熊野三所権現
右 牟婁郡三前郷古田村重山の嶺にあり
本国神名帳に載する所 従四位上姫神是なり
土人飛瀧権現と称して 祀る神 熊野三所権現といふ
古田 古座 西向 神野川 伊串 五箇村産土神にて
此邊の大社なり
社内に蔵むる所の古き棟簡あり
鹿生鎮守重畳飛瀧大権現弘仁元年密宗空海記之と書せり
此棟簡後世浮屠(ふと 僧侶のこと)偽造なれども
其書體を視るに近世の物にあらず
何れにも三百年許(ばかり)を歴し物と思はる
古田村重山の麓に鹿生寺あり 今 鹿勝寺と書す
重畳は重山をいふ
神名帳に飛瀧神あり 又 瀧姫神あり
那智瀧は即飛瀧神なりといふ
然れば 此神は瀧姫神なるべし
姫神 飛瀧神 名の似たるに因りて
棟簡を書せし者混同して一となし
此神の御名となしたるなるべし
此神は飛瀧神に非ずして瀧姫の神なるべき
故は重山より出て坤(ひつじさる 南西の方位)に流れる谷川を
姫川といふ
下に姫川村あり
姫川村の南に姫村あり
皆瀧姫の名に取りて名づけしなり
又重山の南に神野村(古は神川と書す)あり
又北に古田村あり
布留多と唱れども是は文字について
後世 唱の転せしにて
其本は加布田にて 神田の義と思はる
(古田村重畳山の麓に今現に御供田ありて 
 村中 尾崎吉蔵といふ者 古より此田を耕す
 不浄を禁じ 祭禮其外の神供にこれを用ふといふ)
又東に古座浦あり
浦の名義詳ならざれども
是も或は神名に取りし名ならん
此神は近邊の大社なれば
其邊の村名皆神名に取りて名乗れるなるべし

 

  • 前述の那須晴次氏の著作中に「新兵衛友綱は小山の一族として聞え」とあるが、ここでいう「小山」とは、鎌倉時代から南北朝時代頃に熊野水軍の雄として活躍した武士集団の「紀州小山氏」を指すものと考えられる。しかしながら、紀州小山氏については、下野国(栃木県)を支配していた小山(おやま)氏の7代当主小山貞朝の子、小山経幸(日置川流域に拠点を置く)小山實隆(古座川河口部に拠点を置く 西向小山氏とも)兄弟が、元弘元年(1331)に鎌倉幕府の命を受けてこの地に移住したことがはじまりとされており、この物語の舞台である平安時代にはまだ存在していなかったとするのが一般的である。ただ、紀伊風土記の「西向浦」の項によれば、延元年間(1336 - 1340)の文書で小山實隆が「熊野上綱熊野別当に代わって熊野三山を統治する有力豪族)」を名乗っていることから、移住からわずか5年余で「上綱」の地位に就くことは考えられず、古くからの那智山の社家神職の家柄)だったのではないかとしており、小山兄弟の移住以前からこの地に小山一族に連なる人々が居住していた可能性を一概に否定することはできない。 

舊家(きゅうか)
       地士 小山熊之亟
小山三郎實隆という
實隆は安宅荘久木村小山助之進の祖 石見守経幸の弟なり
文保二年左兵衛尉に任す(口宣案に攄る)
又新左衛門とも称す
元弘元年鎌倉の命を奉じて兄とともに
一族十三人従兵三百余騎を率ひて
南方海邊を守護せん爲に此地に住すといふ
(按ずるに延元文書熊野上綱小山三郎實隆と書し
 其他社家とおぼしき事多し
 元弘頃よりも古く 那智山の社家にて
 此邊那智神領なりし故に住居せしならむ  

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。