生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

少女峰 ~古座川町月野瀬~

 古座川岸にあるこの山は、その優し気な名前とはうらはらに、高さ150メートルの、厳しくそそり立つ岩山。愛する人のために短かい生涯を終えた少女の、悲しい物語を秘めている。

 
 戦国の末期、月野瀬の里にオフジという17歳になる少女がいた。美しく、気立ても優しかったため、縁談は降るようにあり、近在の若ものたちあこがれの的だったが、オフジは、この里から南一里(約4キロ)のところにある重畳山神王寺に滞在する若い修業僧を見染めており、なかなか首をたてに振らなかった。

 そんなとき、西向海岸の九龍島(くろしま)にいた海賊の首領藤四郎オフジに横恋慕。手下を連れてさらおうとしたが、追いつめられオフジは、山頂から古座川の深渕に身を投げて、愛する人のために死んで貞操を守ったという。

 

 別名十七ガ岳。初夏に美しく咲く赤い川サツキは、オフジの化身花ともいう。

 

(メモ:国鉄紀勢線古座駅から小川、七川方面行きバスで月野瀬下車。車なら同駅より12分。近くに虫喰岩、牡丹岩、天柱岩などの奇岩がある。)

  • この物語については、田辺市出身の教育者・那須晴次氏の著作「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」で次のように紹介されている。

海賊藤四郎と少女峰(古座)

 「沖の暗いのに白帆がみえる、あれは木の国蜜柑船

 

××

 

 紀の国屋文左衛門の船は熊野灘潮岬の突端へ南下東折の航路をとって、この岬とともに魚の尾なりに突出している大島の樫野岬の沖合を黒潮の流れに乗って風のように過ぎたものであろう。がその当時樫野岬の灘影 九龍島(くろしま)に根城をかまえて変幻出出没した海賊の九龍島藤四郎が魔手を張っていたのであるから、蜜柑船が事なく通り得たとすれば、千に一つの鬼の目こぼしであったろうか。
 南紀州の一角 - 山岳重畳たる間に一水をひいて自ら溪谷をなす これが古座川峡で、峡水が蒼海をつくところ、風波荒れて巖骨を晒すもの大島となり、九龍島となった。昔は古座浦とこの一帯を呼んでいた。
 藤四郎の海賊船が夜の翼のような黒い帆をあげて現われたが最後、すべては鯨口の鰯の如く呑まれていったものである。しかし海の魔王の藤四郎も陸の最期はあわれであった。いやそれに絡んだ乙女の死こそあわれであった。

 

××

 

 古座川の郷、月ノ瀬に、月の精のような美女があった。年は17 名はお藤といった。藤四郎はこの美少女のいることを知った。そうしてやがて魔手を伸ばすのであった。山月が落ちて漆のような闇が古座川の流れを包んだある夜のこと、村から矢の如く下る舟があった。それはお藤を奪った藤四郎の魔の舟である。
 お藤は舟の中で身もだえ、藻掻いたが甲斐なかったことはいうまでもない、舟が海に出て九龍島めがけて漕ぎ出されたなら - もう運命は知れている、が幸か不幸か、勢いこんだ舟が六丈の瀬尻に来るとドシンと大岩に突き当って横腹をかえした - と、船も人もすべては闇の水に落ちた。
 お藤の手は水の中のなにかに触れると、必死の手繰辿りに笹根の掴めるところまで寄れたので、手繰って来た竹らしいものを捨て陸へのし上ると懸命に山の手へ走ったが 水に手練の藤四郎は川岸へはいあがると、お藤らしい気配にすぐ後から追って来たのである。追うもの、逃ぐるもの、川嵐が暗の草木に吹き散った。

 

××

 

 古座川の西岸に描いたような秀峰がある。参差として影を流れに落している。昔はただ西の峰とのみ呼んでいた。
 お藤はこの峰の頂きまで追いつめられた。藤四郎は猿臂をのばして引っかまうとする。もはや絶体絶命! お藤は流れを目がけて身を躍らせると、風こたえ闇光って、あとは太古の様な寂寞にかえった。死んでしまった阿女には用はないと舌打しながら峰から降って来た藤四郎、それでも気残りしてか、もう一度峰をふり仰いだその時、暗中から秋水一閃! 梨割に切りさげられてぶっ倒れた。余程の達人か稀代の業物であったものとの取沙汰であったが、ここに不思議は一つ、謎となって残された。
 それは里人がお山と呼んでいる雲深い重畳山の山腹に、小さな柴の庵を結んで眉目秀でた僧がいたがそれからというもの、ついぞ姿も見せないとのことであった。

 

××

 

 物語はこれで尽きる。西の峰の現今の少女峰である。十七ヶ嶽ともいっている。そしてこんな小唄が残っている。
  けわしい峰にやさしい名
  なぜと問うならその昔
  かなしい話がござんすの
  恋の清さを守ろうと
  十七娘お藤さん
  峰から飛んで死にました
  ふもとに紅い花が咲く

(筆者注:読みやすさを考慮して歴史的かなづかいや漢字の旧字体を適宜現代のものに改めた)  

 

  • 同じく「伝説の熊野」には「十七岳」という項があり、次のような話が紹介されている。上記の話と似通っているが、若干の差異も見受けられる。

十七岳(古座)

東郡古座川を約半里溯れば 左に雲表に冲して屹立した高山がある この山を十七岳という。この十七岳の名の由来を尋ぬるに この山の附近に十七歳になる美しい娘があった。或時悲しいことがあってこの山の上から傘をさしたまま古座川に向って飛んだ。すると首は首谷に飛び 足は足谷に飛び 手は手谷に飛んのだそうだ。

筆者注:旧古座町上田原地区の小字に「足谷(あしだに)」という地名はあるが、「首谷」「手谷」は未確認である

 

 

  • 同じく「紀伊風土記」の「月野瀬村」の項には「十七ヶ嶽」として次のような記述があるが、ここでは海賊藤四郎の名は出ていない。

十七ヶ嶽

川の南岸にあり 高さ二百間(約360メートル)
雲中に聳(そび)
土人傳へいふ
昔十七歳の女子此峯より落たり
故に十七ヶ嶽といふとぞ

 

 

  • 藤四郎が拠点としていたとされる九龍島(くろしま)は、古座川の河口から約1キロメートル沖にある無人島。島内は亜熱帯性原生林に覆われており、「九龍島の自然林スダジイ等の植物群落)」は町指定天然記念物となっている。かつては「黒島」と表記されていたが、新宮市教育委員会が管理する「熊野学」のWebサイトによれば、元和6年(1620)に古座浦で船遊びを行った南龍公(初代紀州徳川家藩主 徳川頼宣が九龍島と表記を改め、島内に弁財天を祀ったとされる。
    新宮市教育委員会 熊野学

 

 

  • 九龍島は、平安時代末期のいわゆる源平合戦治承・寿永の乱などで活躍した熊野水軍(海賊とも)の拠点の一つであったと言われ、海賊の隠れ家と伝えられる洞窟があるものの、「藤四郎」がいわゆる「熊野水軍」に属する者であったかどうかは不詳。しかしながら、九龍島の対岸にある西向(にしむかい)は、熊野水軍の雄として知られる「西向小山氏」の本拠であり、この物語の舞台となったとされる戦国時代末期においても同氏は一定の勢力を有していたと思われる天正19年(1591)に豊臣秀吉朝鮮出兵計画に参加していることから、当時、九龍島で無頼の海賊が自由に活動できたとは考えにくく、もし「海賊藤四郎」が実在したとすれば、それは小山氏の一族であったと考えるのが適当であろう。
    武家家伝_紀州小山氏

 

  • 少女峰(しょうじょほう)は、古座川町月野瀬にある標高約167メートルの岩峰。本文にもあるとおり「十七ヶ岳」とも、また「十七夜岳」とも呼ばれる。古座川に面しており、水面との標高差は150メートル以上に及ぶ。古座川の流域には、このほかにも「一枚岩」、「牡丹岩」、「虫喰岩」などの巨岩、奇岩が多数存在しているが、これらは、約1400万年前の巨大噴火によって生じた「熊野カルデラ(南北約40キロメートル、東西径約20キロメートル)」の一部である「古座川弧状岩脈」が地上に露出したものである。
    ※参考:み熊野ネット かつて熊野に巨大な火山があった
        熊野カルデラ:熊野を知るためのキーワード

 

 

 

  • メモ欄中、バス路線は現在「古座川町ふるさとバス」となっている。古座川対岸から少女峰の景観を楽しむなら「才の谷」停留所、少女峰への登山には「役場前」停留所から重畳山登山口利用が便利。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。