生石高原の麓から

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大師の湯 ~古座川町月野瀬~

 古座川ぞいの山峡は、神経痛や傷などに効く鉱泉が豊富。これをパイプでひいて沸かし、風呂に利用している旅館や民家が多い。別名「才の谷温泉」といい、この地方に多い弘法大師の徳をたたえる伝説がある。

 

 約1180年前、月野瀬の里を訪れた大師に、布施をした一人の病婦がいた。気の毒に思った大師が、ツエで岩の裂け目を指すと、コンコンと泉が湧き出た。大師は「この泉を浴びれば、必らず病気は治るだろう」といいおいて立ち去ったが、病婦はその後、すっかり健康になったという。


 県道が整備される以前、古座川の岸近くに湧いた冷泉で、傷ついた魚が“湯治”していたこともあったとか。対岸には、火たきで知られる「禊の宮」があり「少女峯」「うるしが渕」も近く、カジカが鳴いて、春は山桜が美しい。

 弘法伝説の温泉は、お隣りの古座町姫海岸にもあり「弘法湯」の名で利用者が多い。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

才の谷周辺の古座川

 

  • この物語については、平成26年(2014)に古座川「水のまちづくり」推進協議会(連絡先:古座川町役場産業振興課)が制作した「古座川風土記(発行所:有限責任事業組合 古座川街道やどやの会)」に次のように記述されている。

月野瀬の伝説(月野瀬)
 天長4年(827)、空海熊野に来る那智大社の古記録に記す。
 仏教各宗派には名僧高僧と称される高徳の僧侶が多々いるが、最も大衆に愛されてきたのは弘法大師につきるといえよう。諸国行脚は、意外に少ない期間に限られるものの、全国至る所に弘法空海伝説が蔓延する。衆望のいたらしめる所以といえようか。
 熊野地方に於いても随所で伝説を拝聴することができる。古座川を遡る月野瀬も例外ではない。

 

1、大師の湯
 空海(大師)が古座川流域を巡錫(じゅんしゃく)の途中、月野瀬村才ノ谷にさしかかった折、街道脇の朽ちかけたあばら屋から一人の見るからに痩せ細った病気持ちとみられる女人が出てきて、腰を低くしておずおずとお布施を差し出した。その中味は推して知るべしであっただろうが、真心のこもった態度をみて、その心情を哀れんだ大師は、この女人を近くの岩場にいざない、手にした金剛杖で岩の割れ目を一突きすると、みるみるうちにこんこんと温泉が湧き出した。驚く女人に「この湯を浴しなされ。さすれば御仏のお慈悲で、そなたの病は必ず治るであろう」との言葉を残して去って行ったという。
 女人は高徳の大師とはつゆ知らずも、御仏にお仕えするお坊様が目前で奇跡を演じられた行為と告げられた言葉を信じて、一心に般若心経を唱えながら湯を浴びたところ、病はたちまち快癒したという。
 村人たちも半信半疑。驚きはしたものの、後日あの巡錫の坊様が実は大師さまと知るに及んで、以降その功徳をしのび「大師の湯」と名付けたとある。

 

(後日談)

 

 才ノ谷の女性たちは洗い物と洗濯板を持って集まってくる。温かい湯は汚れが落ちやすい。また、格好の井戸端会議の場でもあった。管理者が湯の湧き口に湯床をつくったことで、母親についてきた幼子たちが暖かい湯床に入って遊んだ。すぐ前に古座川祓ノ瀬の分流があり、幼子たちは湯床の遊びに飽きると、この浅瀬でのびのびと川底に腹をつけて這い回った。体が冷えると再び湯床に飛び込む。母親は、その様子を見ながら洗濯を続けた。
 のどかな親子水びたしの風景も、県道拡幅工事で湯元の岩盤、湯床ともども埋め立ての対象となり消滅してしまった。

 

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記 第3輯」の「月野瀬村」の項には、「與古呂倶須温泉」と題して次のような記述があり、これが本文にある「大師の湯」を指すものと考えられる。

才の谷漆淵(うるし ぶち)の下にあり
巖の間より少しづつ出る湯ぬるくして沸かさざれば浴し難し
近村の者小桶に取りて浴す
中風脚気を治すという

 

  • 才の谷は、現在の古座川月野瀬地区の小字名。厳密には月野瀬地区を通る県道(高瀬古座停車場線)から古座川を挟んだ対岸を指すが、現地の集落は消滅しているため、県道沿いに「才の谷」バス停古座川町ふるさとバス)がある。上記引用文のとおり古来の「大師の湯(才の谷温泉)」は既に失われてしまっているが、国土地理院の地図にはこの周辺に温泉記号が記されている(現地には個人管理の泉源があるとの情報もある)

 

  • 現在、月野瀬地区には宿泊・日帰り入浴が可能な温泉旅館「南紀月の瀬温泉 ぼたん荘」が開設されている(平成8年(1996)オープン)。同施設を紹介するWebサイト等では、「弘法大師が発見したと伝えられる温泉」といった紹介がなされているが、実際の泉源は施設近隣で古来の「大師の湯」とは場所が異なるとの資料もあり、詳細は不詳。
    南紀月の瀬温泉ぼたん荘|清流古座川の畔の静かな宿 - 東牟婁郡

 

  • 本文中にある「禊の宮」は、「才の谷」バス停から古座川をはさんで対岸にある「(はらえ)神社」を指す。和歌山県神社庁のWebサイトによれば、建物は無く、欅ケヤキの大木を本殿とする神社で、火焚神事湯立て神事等が行われているとされる。伝承によれば、古座川は明治初期までは「祓川(はらいがわ)」とも呼ばれており、祓神社は弘法大師を開基とする霊山、重畳山(かさねやま)へ入る修験者が入山前の禊を行った場所であるとされる。
    祓の宮:熊野の観光名所

当社は、此の辺で一番古いお宮といわれている。
又、当社は祓川の辺り、才之谷村に鎮まり、1丈余りの欅の大木をご神体として、お札をくばり初穂を取立たという。
末社で南側の西側に祀るを徳神様というは、大昔の神主さんともいい伝わつる。
又、徳川頼宣紀州公となられし時、毎年お参りになり、後、周参見に代官を置いてから代参されたという。
又、京都聖護院熊野詣りの節、必ず古座(西向)住吉神社にて神事を挙げられたという。
徳川時代和歌山城落雷全焼の折、城再建材として大本銀200匁目にて買上げられた時、村人は此の宮は古い宮であって、又、川筋の総宮でもあり、5月と霜月の25日は火たき祭を為して、尊崇の社として買上げ取止めを嘆願したともいう。
明治末期に月の瀬のお宮を合祀した。
紀伊風土記』に「祓明神森村領川の北岸(筆者注:現在の社は古座川の南岸に所在する。「村領川」を祓神社の東にある小河川と解すれば、その北端に位置することになる。)に壱丈余りの欅を神体として祭る古より社なし、旧家大屋源次(筆者注:正しくは「大屋源次郎」)というもの支配し」とある。
以上は、後地七松氏より土山が聞いたのを書いたものである。
月の瀬は7つ半の社があったという。
半というのは、隣の高瀬区と1社がもち合いだったからである。
明治末期に合祀したというのは、これを1社にまとめたからである。
この社には、社殿や社務所のような建物が1つもない。
和歌山県神社庁-祓神社 はらえじんじゃ-

 

  • 祓神社の東側にそそり立つ岩山が「少女峰(しょうじょほう)」である。「十七ヶ岳」、あるいは「十七夜岳」とも呼ばれるこの山には、海賊に追われて山頂から自ら身を投げた17歳の少女オフジにまつわる伝承がある。これについては、別項「少女峰」を参照のこと。
    少女峰 ~古座川町月野瀬~ - 生石高原の麓から

 

 

  • 古座町姫海岸(現在は串本町姫)にある「弘法湯」もまた弘法大師空海による開創伝承がある。弘法湯は姫区自治会)の住民が共同で管理しているようであるが、同施設のWebサイトではその縁起について次のように解説している。

弘法湯温泉縁起
 昔この辺の村々に難病がはやり、村人たちが病に苦しんでいたところ、人々の夢枕に雲水が立ち、この杖の指すところに湯が湧き出ている。この湯は万病を癒やすとのお告げがありました。
 翌朝、村人たちは手分けをして探したところ、姫の方から1番目の大岩の1丈(3メートル)位の高さの側面に両足跡杖の跡があり、この岩の下の割れ目から湯が湧き出ていました。ある者は湯を飲み、亦、ある者は湯を汲みて浴した所、病はたちどころに治りました。以来この岩を「弘法岩」(クツヌギ岩)と、温泉を「弘法湯」とよんでいます。
koubouyu

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。