生石高原の麓から

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いくさ地蔵 ~古座川町添野川~

 添野川の村はずれ、小川のほとりに、お地蔵さんをまつった小さな祠がある。太平洋戦争中は全国各地からお参りが続き、近くの人が「弾よけの護符」を出し、祭煙の絶えることがなかったが、平和ないまは、合格析願の学生や地元のわずかな信者がお参りするだけ。

 

 昔、この地に母一人、子一人の貧しい農家があった。子は彦八といい、大変孝行な若者に育ったが、大阪の役の際、軍夫に徴用された。出立のとき彦八は、草深く埋もれた地蔵さんに「一人残る母のため、無事帰還なさしめ給え。お礼に里へ移しておまつりします」と析った。


 それからしばらくして郷里へ帰った彦八が、背負って里まで持ち帰り、おまつりしたのがこのお地蔵さん。彦八の墓も近くにある。

 

(メモ:国鉄紀勢線古座駅下車。バスもあるが回数が少なく車の方がよい。車なら和深、串本、古座からいずれも約40分。1月24日に餅投げがある。)
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

電柱に掲げられた「いくさ地蔵参道」の看板
  • この物語は、平成26年(2014)に古座川「水のまちづくり」推進協議会(連絡先:古座川町役場産業振興課)が制作した「古座川風土記(発行所:有限責任事業組合 古座川街道やどやの会)」において次のように紹介されている。

いくさ地蔵の伝説(添野川)
 むかし添野川(そいのがわ)に彦八という人があり、大坂の陣に軍夫として出陣することになった。彦八は母一人を残して出発して行った。田辺街道を、将軍山を経て、うっそうと茂る山中を坂を越え谷を渡り、もう再び通ることのないかも知れない山路を、一歩一歩足を運んでいった。

 次第に遠くなる故郷、たった一人で母を残してきた彦八には言い知れぬ切ないものがあった。
 いくさに立派な働きをして無事に帰って来て母を安心させたい。いくつ山を越えたことか、ふと道端の茂みの中にお地蔵さんが目についた。彦八は草むらをかきわけて地蔵の前にすわり、両手をあわせて祈願したのである。「今、彦八は選ばれて、いくさに向かっています。家には年老いた母だけ。務めを果たして無事に帰られますように。その暁には、あなたをこの山中から私の在所へ背負うて帰り、厚くお祀りいたします。どうかご加護を賜りますように」。彦八は静かに頭を上げて立ち上がり、さらに山を越えて歩き続け、そして目的地に着き、いくさに加わったのである。

 いくさは終わり無事帰途についた。彦八の喜びはいかばかりか、うれし涙がこみあげてくるのであった。
 ふるさとの山河、なつかしい母、日を重ねて再び元の山路に入り、どこをどう通ったのか。ところが、どうしたことか急に腹痛を覚え、歩けなくなった。この時、彦八はハッと胸を打つものがあった。辺りを見廻し数歩戻ると、そこには元の姿のお地蔵さんがあった。彦八は、おかげで無事に帰ることが出来ましたとお礼を述べ、約束通り背負うて帰ることにした。ところが、ものすごく重くて、とても持てない。
 そこで訳を申し、柴茶三斤の重さになってくださいとお祈りしたのである。再び持って見ると、今度は軽く、背負って山を越し、添野川の現在地にお祀りした。

 それから人々は、この地蔵を「いくさ地蔵」と呼ぶようになり、霊験あらたかな地蔵さんとして信仰するようになった。
 彦八の墓は添野川の高野平にあるが、この地蔵さんは西牟婁郡三河村向山(現在の田辺市向山 筆者注:田辺市に合併する前の大塔村向山地区、合川貯水池(日置川・前ノ川・将軍川の合流地点)の北側に位置する)という所にあったもので、今もその台だけはまだ向山に残っているということである。

 彦八没後、添野川の南家が石堂を建てて祀り、参詣人が絶えなかった。遠い昔から日清、日露、近くは支那事変、太平洋戦争には「弾除け」祈願に、父や子の無事を祈って県内はもとより東京、大阪その他の各地から参拝者は引きも切らず、香煙は終日絶えることがなかったという。

  • 古座川町が運営するWebサイトの「古座川のイベント・まつり・民話」の項によれば、この地蔵は、本文にあるように「かつては、近所の人が「弾よけの護符」をつくり、太平洋戦争中には全国から参拝者が集まったエピソードもありますが、今ではもっぱら合格祈願の祠になっています。」と記載されている。
    古座川町観光ガイド|古座川のイベント・まつり・民話の故郷
  • 熊野新聞によると、いくさ地蔵では現在でも毎年1月24日に例祭が行われており、地区の住民らが供物や祝儀を持ち寄って法要を営んだ後、餅まきなどが行われているという。
    熊野新聞オンライン 2020年01月25日付紙面より

 

 昨年7月、全国各地に観測史上最大を更新する豪雨をもたらし、多大な被害を及ぼした台風11号は県内にも爪痕を残しました。この時、七川ダムでは、ダムの能力を上回る洪水が流れ込むという危機的な状況にあり、ダムがあふれる一歩手前まで水位が上昇する中で、下流の状況、降雨の状況などを見極めながら、七川ダムの能力を最大限発揮させる操作を行い、下流の被害を防ぎました。今回の「洪水調節賞」受賞の背景には、こうした大活躍があり、そのことに"ダムファン"が気付き、称えてくれたのです。
 しかしながらこのことは、ダム操作がたまたま上手く出来たというような単純なものではありません。紀伊半島大水害では、県内各地のダムで、ダムの能力を上回る洪水が流れ込む状況が発生しました。そこで、その教訓をもとに、計画を上回る大規模な洪水が予測される場合には、共同事業者である関西電力の協力のもと、発電用に確保されている容量についても事前に放流したうえで、洪水を目一杯貯め込み、防災面での機能を最大限発揮できるよう、運用を見直していたのです。
 今回もこの運用の見直しが功を奏し、ギリギリのところまでダムに洪水を貯め込むことで、被害の発生を防ぐことが出来ました。こうした地道な取り組みは、上手くいって当たり前と思われることも多く、なかなか注目されないものですが、こういった形で光をあててくれた“ダムファン”の皆様、運用にご協力頂いている関西電力に感謝するとともに、これからも県民の皆様の生命、財産をしっかりと守っていきたいと思います。今春は、七川ダムの雄姿とさくら名所百選に選ばれている湖畔の桜を見に行きませんか。 
ようこそ知事室へ 知事からのメッセージ 平成28年2月 日本ダムアワード | 和歌山県

 
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。