生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

一遍上人名号岩 ~本宮町(現田辺市本宮町)湯峰~

 「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華

 峰温泉の道路わきにある「上人爪書きの遣跡」ともいわれる大岩には、こう刻まれていたというが、もうすっかり風化してしまい、いまは中央の「南無阿弥陀仏」の文字だけが、かすかに判読できる程度。

 

 文永11年(1274)、36歳のとき、熊野本宮大社に参篭して「時宗」を開いたという一遍は、諸国を遊行し、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と記した念仏札を授けて念仏を勧め、多くの人に仏縁を結んだという。その遊行が日本全土にわたったことから「遊行上人」とも呼ばれた。

 熊野川町志古の国道168号線から約2キロ入った万歳峠の頂上近くの旧道にも「六字名号石」があるが、これは「吉祥塔」と呼ばれている。
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

湯の峰温泉の磨崖名号碑

 

  • 一遍(いっぺん 1239 - 1289)鎌倉時代の僧侶で、時宗(じしゅう)の開祖。伊予水軍の将として知られる河野通信(かわの みちのぶ)の孫として生まれるが、承久の乱(1221)の後、河野一族は勢力を急速に失ったことから、一遍(幼名は松寿丸は10歳にして出家する。一旦は還俗(僧籍を離れること)するが、32歳で再び出家して各地で修行し、熊野本宮熊野権現の夢告を受けたことによって時宗の教義を確立し、これ以後「一遍」と称するようになった。講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」では一遍について次のように解説している。

一遍
1239 - 1289 鎌倉時代の僧。
 延応元年2月15日生まれ。時宗の開祖。浄土宗西山派聖達(しょうたつ)にまなぶ。信濃(長野県)善光寺などに参籠し念仏往生をさとる。紀伊熊野権現和歌山県で神託を得,全国を遊行。踊り念仏をひろめ,おおくの庶民をはじめ公家,武家にもあがめられた。正応2年8月23日死去。51歳。伊予愛媛県出身。俗姓は河野法名智真。通称は遊行上人諡号円照大師,証誠(しょうじょう)大師
一遍とは - コトバンク

 

  • 一遍が熊野権現の夢告を受けた際の出来事について、熊野本宮大社のWebサイトにある「熊野コラム」では次のように解説している。これによれば、それまで智真(一遍の旧名)は念仏の教えを広めるために「信心を起こして南無阿弥陀仏と唱えた者」に対して南無阿弥陀仏」と記された念仏札(詳細は後述)を授けていたが、熊野権現から「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」念仏札を配るようにとの夢告を受け、「我生きながら成仏せり」と歓喜したという。智真はこれ以後「一遍」と名を改めて、無条件で念仏札を配るようになったことから、この時をもって「時宗」が開宗されたとみなすのが一般的である。

一遍上人熊野本宮大社
熊野権現のお告げ
 一遍上人(1239~1289)は、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に広まった浄土系仏教、時宗の開祖です。時宗念仏聖たちは、南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占し、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めました。ではなぜ時宗では熊野を聖地としているのでしょうか。その答えが次の逸話にあります。
 僧侶として学び、修行を深めた智真(後の一遍上人は、念仏札を配る布教活動をしていました。そして文永11年(1274)の夏、高野山から熊野本宮大社へ向かう途中で、一人の僧と出会います。智真はいつものように
信心を起こして南無阿弥陀仏と唱え、この札をお受けなさい。
と札を渡しましたが、その僧は、
いま一念の信心が起こりません。受ければ、嘘になってしまいます。
と言って受け取りません。
仏の教えを信じる心がないのですか。なぜお受けにならないのですか。
と尋ねると
経典の教えを疑ってはいませんが、信心がどうにも起こらないのです。
と答えました。 念仏札を拒否されたことに一遍はショックを受けますが、僧の言葉は理にかなっています。

 この出来事から、智真は布教のあり方について苦悩します。そこで熊野本宮大社に着いた時、答えを求め、証誠殿(筆者注:しょうせいでん/しょうじょうでん 熊野本宮大社主祭神※下記参照を祀る)の御前で祈り続けました。すると夢の中に、白髪の山伏の姿をした熊野権現阿弥陀如来)が現れました。そして
一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されていることなのです。あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければなりません。
と、お告げになりました。このお告げを受けた智真
我生きながら成仏せり
歓喜しました。一遍上人が誕生した瞬間でした。

熊野本宮大社主祭神家都美御子大神本地仏阿弥陀如来です。
一遍上人と熊野本宮大社 - 熊野本宮大社 | 公式サイト

 

  • 上述の「念仏札(ねんぶつふだ)」とは、「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と記された「お札(ふだ)」のことをいう。現在でも神奈川県藤沢市清浄光寺で配られている(念仏札を配る行為を「賦算(ふさん)」と呼ぶ)が、その札の大きさは縦7.5センチメートル、横2センチメートルほどの小さなものである。Wikipediaの「一遍」の項によれば、従来は「南無阿弥陀仏」とのみ記されていたものに、熊野権現の夢告を得た一遍が「決定往生 六十万人」の文字を加えたとされる。
    一遍 - Wikipedia

 

  • 本文冒頭の「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華(六字の名号は一遍の法なり 十界の依正は一遍の体なり 万行離念して一遍を証す 人中上々の妙好華なり)」という言葉は、一遍(当時は智真熊野権現の夢告を得て感得した「(げ 仏の教えを韻文の形式で述べたもの 「偈頌(げじゅ)」とも)」であるとされる。4句で構成される偈の1文字目をつなげると「六十万人」となることから、これを一般的に「六十万人偈(ろくじゅうまんにんげ 六十万人頌(ろくじゅうまんにんしょう)とも)」と呼ぶ。「一篇」の名は、この偈に基づいて智真が自ら名乗ったものである。

 

  • 念仏札に一遍が加えたとされる「決定往生 六十万人」の文字は、上述の「六十万人偈」に基づくものであるとするのが一般的である。これに対して、岡本貞雄氏は「一遍上人「六十万人頌」をめぐって(日本印度学仏教学会「印度學佛教學研究」31巻1号 1982)」において次のような考察を行っており、「一回の念仏によって六十万人が往生する」という考え方が根底にあるのではないかとの見解を示している。

(略)
 それは何故に六十万人という数字を頌の四句の頭に配したかである。この六十万人を一遍は重要視しており『一遍聖絵』巻六の、法印公朝に送った手紙には「南無阿弥陀仏六十万人知識一遍」と記されており、現代に伝えられている時宗の念仏札には「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と刻されている。時宗では頌の頭文字がたまたま六十万人となったものとし、それに基づいて方便として六十万人賦算の目標を立てたとされているようである。二祖『他阿上人法語』巻第五には

これすなわち名号所具の機法のいはれをあらはす 
かならずしも数にてはあらずさふらふ
又六十万人は一切衆生の名なり
一切衆生と書ては一生の勧進に相応しがたきあひだ
六十万人すゝめはてゝはまた始めてすゝむるなり

とあり、
(略)
それに対して五来重氏は「一遍と高野・熊野および踊念仏」に於て

六十万人はこのときはじめて形木をほらしたのではなくて、それまでの賦算札の六十万人の四文字を頭においた四句の偈をもって、一遍は自己の回心を表現したと解すべきである。

とされている。つまり五来氏によれば、六十万人の数字は、熊野以後にすられた念仏札ではなく、それ以前天王寺で配られたと思われる念仏札に記されたものであるとされるのである。
(略)
一遍は自己の悟りを表現する上に、六十万人を頌の頭文字に配したと思われるのである。この『六斎功徳精進経』については未だ詳しく知り得ないが、覚心が当然目を通したと思われる『宗鏡録』と同一の作者であり、禅浄双修論を展開した永明延寿の『万善同帰集』巻中に

経日……半斎之福猶生天上
七世人間常得自然衣食
一日持斎得
六十万歳自然之糧

と記されており、ここでは一日の持斎(筆者注:仏事を行うため心身を清浄に保つこと)が六十万年の糧を得るとされている。この一日に注目して、一日の持斎を、一遍(回)の念仏とするならば、六十万年の自然の糧は、即六十万人の自然の往生ということにつながろう。つまり一度念仏称名すれば、六十万人が必らず往生するという考え方が可能になってくるのである。
 一遍と名乗ったのは一回の念仏ということの表明であり、それによって六十万人が往生するということであれば、念仏札に記した「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」の意味も文面のまま素直に受け取れるのである。つまり南無阿弥陀仏と一度称えれば、それによって六十万人が必ず往生する、ということであり、一遍は何のはからいもなく自己の得たところをそのまま念仏札に記したものと了解されるのである
一遍上人「六十万人頌」をめぐって

  

  • 本文で「一遍上人名号岩」と紹介されている大岩は、公式には「磨崖名号碑(まがいめいごうひ/みょうごうひ)(伝一遍上人名号碑)」と呼ばれ、和歌山県の史跡として指定されている。和歌山県文化遺産活用活性化委員会が管理するWebサイト「わかやま文化財ガイド」では、この史跡について次のように解説されている。

 湯ノ峯東光寺の北方、県道に面した左側の山手に、巨大な岩盤の平滑面を使って梵字(ぼんじ)・名号(みょうごう)を大書した碑石がある。これが磨崖名号碑として知られる史跡で、高さは2.8メートル、巾2.4メートルの規模である。月輪(がちりん)中に阿弥陀三尊(あみださんぞん)梵字、その下に蓮台(れんだい)にのる六字名号が薬研彫(やげんぼり 筆者注:断面がV字状になる彫り方)されている。一遍上人(いっぺんしょうにん)の爪書(つめがき)の遺跡とされているが、断定することはできないものの梵字の書体からみて鎌倉時代のものと考えられる。
検索結果 | わかやま文化財ガイド

 

  • 現地にある説明板によると、この磨崖碑の上部には阿弥陀三尊の梵字(仏をあらわす文字 阿弥陀如来は「キリーク」、観音菩薩は「」、勢至菩薩は「サク」である)とともに、次のような文字が刻まれているとのことである。
    (参考画像:阿弥陀三尊

(摩崖名号碑文)
奉法楽
熊野三所権現十万本卒塔婆
百万遍念仏書写畢

南無阿弥陀仏

       勧進
       仏子敬白
乃至法界衆成所願也
 正平廿年(筆者注:1365)八月十五日

 

  • 今日では磨崖碑に刻まれた文字は上述のとおりであるとされているが、かつては本文にあるとおり一遍の「六十万人偈」が刻まれていると伝えられていたようで、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」にも「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華 右四句の文を石面に鐫めり」との記述がある。これについて、熊野路編さん委員会編「くまの文庫2  熊野中辺路 伝説 上(熊野中辺路刊行会 1972)」には次のようにあり、明確に誤りであると指摘している。

 ところで湯峰の磨崖名号碑の銘文は、紀伊風土記紀伊国名所図会紀南郷導記東牟婁郡その他に「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華」の七言四句、いわゆる一遍の六〇万人頌(しょう)(聖頌)を刻むと記しているが、これは前掲(筆者注:上記引用文中に記載された碑文)のとおりに改めるべきであろう。幸いなことに、大日本地名辞書(吉田東伍編)は碑銘のとおり記している。

 

  • 本文後段にある万歳峠の「六字名号石」のある場所は、「一遍上人名号碑建立之地」として和歌山県の史跡に指定されている。現地にある説明板には次のような解説が記載されている。

一遍上人名号碑建立之地(いっぺんしょうにん めいごうひ こんりゅうのち)
           和歌山県指定史跡
           指定年月日 昭和44年7月14日
 一遍上人(1239~89)は、生涯、全国各地を遊行した修行僧で、広く民衆に念仏をすすめた時宗の開祖である。熊野三山を訪れた際に、熊野権現の神託をうけ、宗教的な確信を得たといい、熊野との結びつきが強い。
 弘安3年(1280)の建立といわれる砂岩製のこの名号碑には、流麗な書体で「南無阿弥陀仏」と彫られており、一遍上人が自ら書き、彫ったという記録が残されている
 碑は、途中で折れているため、別の石材で囲んで補強している。そこには、宝暦10年(1760)、時宗52世の他阿一海(たあ いっかい)が、地元日足村住人の助力で修復したことが彫られている。一遍上人の足跡と熊野参詣道のルート、時宗教団のかかわりを知る貴重な史跡である。

 

  • 独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所朽津信明氏らは、万歳峠の一遍上人名号碑建立地とその周辺に放置されていた岩塊や破片などの三次元計測を行い、そのデータをもとに3Dプリンタで模型を制作して嵌めあわせの実験を実施した結果、文献には記載されていたものの実物が確認できていなかった通称「草書碑」の一部を確認したと発表した。
    ※[報文]新宮市万歳の一遍上人名号碑の補修史に関する三次元計測に基づく検討(保存科学研究センター「保存科学」第59号」(2019)保存科学第59号


*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。