生石高原の麓から

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猪笹王(いざさおう) ~本宮町(現田辺市本宮町)湯峰~

 昔、このあたりの山野を、身の丈一丈(三メートル)もある怪物が、たたらを踏むようにしてかけ回ったという。一つ目で、口は耳まで裂けた、見るからに恐ろしい顔。しかも一本足。人々は、その足音を聞くと「一本だたらや」「猪笹王の亡霊だ」といって、ふるえたとも。

 
 ある日、湯峰の湯宿へ、足をいためた野武士が湯治にきた。ところが、部屋へくつろいだその野武士、安心したのか、背中一面に熊笹を繁らせた怪物の正体を現わした。

 

 それを宿の主人に見られると「わしは猪笹王の亡霊だ。不覚にも射馬兵庫にやられた。ここで静養して、何とか復しゅうしたいと思ったが、お前に見られて駄目になった」といい、姿を消した。「一本だたら」の足音が聞こえるようになったのは、それから。彼が出てくるときは黒雲がたれこめ、激しい雨風が吹き荒れ、その姿を見た者は、必らず気が狂ってしまった……とも。
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

Yokai Ippon datara
一本だたら(Wikipediaより)
  • 一本だたら」とは熊野地方の山中などに棲む一つ目で一本足の妖怪とされるが、背中に熊笹の生えた大イノシシが狩人に撃ち倒された後に亡霊となった「猪笹王(いざさおう/いのささおう)」と同一とされることもある。これについて、Wikipediaでは次のように解説されている。

一本だたら
 一本だたら一本踏鞴(いっぽんだたら)一つだたら(ひとつだたら)とは、日本に伝わる妖怪の一種で、熊野地方の山中などに棲む、一つ目で一本足の姿の妖怪とされるが、地方によって伝承内容には違いが見られる。

 

伝承
 和歌山県奈良県の境の果無山脈はてなしさんみゃく)では、皿のような目を持つ一本足の妖怪で、12月20日のみ現れるといい、この日は「果ての二十日」と呼ばれて厄日とされた。果無の名の由来は「果ての二十日」に人通りが無くなるからだともいう。
 奈良県伯母ヶ峰山でも同様に、12月20日に山中に入ると一本だたらに遭うといい、この日は山に入らないよう戒められている。こちらの一本だたらは電柱に目鼻をつけたような姿といい、雪の日に宙返りしながら一本足の足跡を残すという。奇怪な姿のために恐ろしい妖怪だが、人間には危害を加えないという。高知では「タテクリカエシ」といって、夜道を転がる手杵状の妖怪の伝承があり、伯母ヶ峰山の一本だたらはこれと同じものとの説もある。
 また伯母ヶ峰山の一本だたらは、猪笹王(いのささおう)という鬼神を指すこともある。これは背中に熊笹の生えた大イノシシが狩人に撃ち倒された後に亡霊となったもので、一本足の鬼の姿で峰を旅する人々を襲っていたが、丹誠上人という高僧によって封印され、凶行はおさまった。しかし封印の条件として年に一度、12月20日だけは猪笹王を解放することを条件としたため、この日は峰の厄日とされたという。
一本だたら - Wikipedia

 

  • 本文の物語は、湯の峰温泉を舞台として語られる話で、猪笹王が湯の峰に湯治に来た際の話とする。この物語は、日本児童文学者協会編「県別ふるさとの民話 20 和歌山県の民話偕成社 1980)」に「怪物猪笹王」という題名で掲載されている。しかしながら、この物語では宿の主人が猪笹王の正体を目撃したのではなく、宿を訪れた射場兵庫の声に驚いて猪笹王が逃げ去ったと語られている。

怪物猪笹王(かいぶつ いざさおう) <伝説・東牟婁郡
 湯ノ峰いうたら、熊野権現にちかい山ん中にある、ええ温泉場や。ここの湯は病気やけがにようきくもんで、おおぜいの人が湯治にきたもんや。
 むかし、その湯ノ峰へこえる山ん中に、猪笹王(いざさおう)という怪物がいてな。人でも牛でもつかまえたらバリバリ食うてしまうんやと。
 なんでも正体は、えろう年をへたイノシシやそうなが、なにしろせなかにクマザサがはえとるおそろしいやつや。
 そいつがちかづいてくると、ゴーッと山なりかして、うでじまんの鉄砲うちでも、いちもくさんに、にげだしたという話や。
 けれど、ひとりだけにげださなんだ鉄砲うちがおった。兵庫(ひょうご)というさむらいで、この人だけはこわいもんがおらん。いつも一ぴきの犬をつれて山をかけめぐってたそうや。
 あるとき、この兵庫と、おそろしい猪笹王がばったりでおうたんや。
 猪笹王は兵庫めがけて、まっしぐらにはしってくる。山はゴーゴーなって、木がベキベキおれもて、怪物がちかづいてくる。そやけど兵庫はおちついて、ねらいさだめてひきがねをひいたもんやから、たまはみごとに猪笹王の足にめいちゅうしたそうや。
 兵庫の犬もたいしたやつや。すかさずとびかかっていったもんやから、さすがの猪笹王も、あわてて、がけからおちてしもうたんやと。


 それからなん日かたったある日のことや。湯ノ峰の温泉へ足をいためたひとりの野武士が、湯治にやってきたんやて。
これはこれは、山ん中までようおいでくだされました。
わしゃ、たいへんつかれとるでな、湯にはいってひとねむりするさかい、だれも、へやをのぞいてはいかんぞ。
はいはい、しょうちしました。どうぞ、ごゆっくりおやすみください。
 宿の主人がでむかえると、野武士は、フジのつるではなおをすげた大きなげたをぬぎすて、そそくさと、へやにあがっていったそうや。
 さて、しばらくすると、またひとりのさむらいがやってきた。こっちのほうは鉄砲の名人の兵庫や。兵庫が宿のげんかんへはいると、つれてた犬が、一足のげたに鼻をおしつけ、いきなりほえだした。フジのつるではなおをすげた大きなげたや。
どないしたんやろ。
 兵庫は、ふしぎにおもうたが、ふかく気にもとめんと、
おれは鉄砲うちの兵庫というもんや。今夜は、ここでとめてもらおうかの。
と大きな声で、おくにあんないをこうた。と、とたんに、おくのへやで大きなもの音がして、じしんみたいなさわぎになった。宿の人らは、まっさおになって、がたがたふるえとる。
 さてはあやしいというんで、兵庫は鉄砲にたまをこめて、おくのへやへはしりこんだ。犬もとびこんだ。
 けど、へやにはだれもおらん。ふすまがたおれ、しょうじがやぶれて、たたみの上にはクマザサがちらばっとるだけや。うら山を見ると木がへしおられて、怪物のにげたあとがあったんやと。
 いうまでもないわな。あやしい野武士は猪笹王で、兵庫にうたれた鉄砲のきずを温泉でなおしにきとったんや。
 それからもこの怪物は、ちょくちょく旅人をおどかしていたんやと。けど、湯ノ峰で兵庫の話をきいてからは、山をこえるときに、
おれは兵庫や。鉄砲うちの兵庫じゃぞ。
と、わめきながらとおったんやて。そしたら怪物は、ちっともすがたを見せなんだと。
     <再話・水上美佐雄

 

  • この物語については、和歌山県よりもむしろ奈良県において広く伝承が残されている模様である。奈良県吉野郡上北山村のWebサイトでは、「上北山村の伝説」というページに「伯母峰(おばがみね)の一本足」という項があり、本文に類似した物語(こちらでは宿の主人が猪笹王の正体を目撃したとする)に加え、その前日譚、後日譚にあたる物語が掲載されている。

伯母峰の一本足
 一本足というのは、伯母ヶ峰みいて射場兵庫がね、猟しに行ったて。そしたら、「」という名犬がおって、その名犬がワンワン鳴くから行ってみたら大きな猪がおって、撃っても撃ってもこけなかったと。で、最後に動けんように足を撃ちよったというのが始まりですね。
 そしてその射場兵庫も追わえまわされて、最後に気絶しておったと。そこで射場兵庫の耳元でね、ワンワン鳴くから、射場兵庫が気がついて見てみたら、大きな猪が谷みいてこけておったて。その猪の背中に笹が生えておったということから始まって、あれ、猪笹(いざさ)というふうに名付けたと言われておるんですわ。

 そして、持ちもこたげもならんような大きな象ほどある猪であったということで、あくる日、見に行ったら、その猪はどこかへ姿を隠していなかったんだと。その猪は、この奥通り、ちょうど撃った場所は今の辻堂という山がありますわ、そこのこちらの沢で撃ったですからね。そこは小豆(あずき)横手というとこですわ。今行ってもこの小豆のようなこまかい赤石がずーっとあるところですわ。そして、奥通をずーっと逃げて、湯の峰の温泉へ侍の姿をして、そして湯湯治(ゆとうじ)に行ったと。そしてまあ、あそこの旅館へ泊まって、離れを借りきってね、そして、「俺の寝姿だけは見るなよ」と言うて寝たて。

 

 ところが、まあ、ぞうりを並べにいって見たら、菅で作った大きなわらじが、こう動かそうとしても緒を柱の下へおさえてあったというですよ。だからびっくりして、主人がちょっとすけて見てみたら、八畳の間いっぱいになった大猪が背中に笹生やしたまま寝ておったと。そいで、腰を抜かして這いながら母屋へもどってしておったら、まあ、朝、手を叩いて向こうから呼ぶもんやから、そこの奥さんが代わりに接待に出たと。そしたら、何を隠そう、俺は伯母ヶ峰の山の主の猪笹王というもんやと。あれほど寝姿を見るなと言うてあったのに、お前とこの主人が俺を見てしもうたと。俺の足は射場兵庫に撃たれて、こうして不自由になっておると。で、湯湯治に来たんやけども、かえすがえすも山奥から追い出されたことが残念やから、山をもういっぺん取りもどしたいということで、一番邪魔になるのはという犬とそれから射場兵庫が持っている鉄砲が一番邪魔になるので、それをひとつ買いとってきてくれということで、湯の峰から使いが来て、天ヶ瀬へ小金を持って、ほいで、その犬と鉄砲を買いもどしに来たと。ところが、天ヶ瀬の人たちはいろいろ様子が変であるから聞きとらしたところ、その事実が明るみに出てきて、その者に犬と鉄砲を渡したら天ヶ瀬は野になるぞということで、絶対売らないということになった。ところが、何とか一騎打ちをいどんできて、今の辻堂へみいてかまって(居(きょ)を構えて)ですね、辻堂というのは伯母ヶ峰を越すときに皆そこを通らんと行けんもんですから、そこへみいて猪笹王が一本足のお化けに化けて、かまって、そこでまあ居ついたって。そして、旅人をも取って食べたと。そいて、あの、伯母ヶ峰を使用できんようになってしまったと。

 そこへみいて丹誠上人ていう人がね、越えてこられて。お坊さんが。で、丹誠上人ていうのは大台を第二高野(女人高野)のようなかっこうにしたいということでね、まあ、割り合いに体が弱かって、それが完成せずして亡くなったんですけどね、その人が越えてこられたときに来て、「えらい村がさびれておるやないか。」と。だから、どうしたことかというていろいろ村の人に尋ねて、で、こうゆうことでさびれておるんだよということを聞いたもんやから、「その亡霊を私が祈祷して伏せてやろう」ということで、その丹誠上人が現在の伯母ヶ峰隧道の入口にあるお地蔵さん、もとは辻堂にあったんですよ、あの日ぎり(日限をきって願をかける)の地蔵というのをどこからかお迎えしてきて、そして、そこで祈祷をしてですねえ、日をきる、その日をきったのが十二月の二十日です。いわゆる果ての二十日といいますね。それで、果ての二十日、一日だけは鬼が出て人を食べてもよろしいと、その他の日には絶対出てはいけないとして、お地蔵さんに祈願をして、そういうふうにしておさえたわけですね。伏せると言うんですよ。ですから伯母ヶ峰の厄日というのは十二月二十日、果ての二十日になっとるわけですよね。けれどもそれは、旧暦の果ての日です。そういうふうなことで、それからまあ、村の人たちがそこのお堂へみいてつめたり、ま、通行も盛んになって、また、元の景気がもどってきたんだと、こういうんです。これが伝説の本筋なんですよ。
    ―1982年に聞き語り調査による資料より―
上北山村公式ホームページ | 観光情報

 

  • また、環境省近畿地方環境事務所が平成29年8月に作成した「大台ヶ原登録ガイドテキスト」にも「大台ヶ原の伝承」として次のような物語が紹介されている。上記の上北山村に伝わる物語では、射場兵庫が猪笹王と戦った後丹誠上人が猪笹王を封じたとされているが、下記の物語では、かつて丹誠上人が封じた猪笹王(一本だたら)射場兵庫頭(いば ひょうごのかみ)が退治しようとしたという話になっており、前後関係が逆転している。

一本だたら
 大台ヶ原には様々な伝説があるが、最も有名なものに、「一本だたら」にまつわる話がある。環境庁吉野熊野国立公園管理事務所「大台ヶ原の自然解説マニュアル」によると、その粗筋は、以下のようなものである。
 牛石ヶ原には、牛が寝そべっているような形をした「石」があるが、この石は、慶長11(1606)年に、大台ヶ原で修行を行っていた丹誠上人が、法力によって多くの妖怪変化を閉じ込めた石であるといわれる。しかし、一本だたらだけは、1年に1度だけ、「果ての二十日(12月20日に自由に出てくることを許された。以来、「果ての二十日に伯母峰を越すな、越せば一本だたらに生き血を吸われる」と里人に恐れられるようになった。
 この妖怪を退治しようとしたのが、天ヶ瀬村の鉄砲の名人、射場兵庫頭(いば ひょうごのかみ)という人である。兵庫頭は名犬ブチを連れて、果ての二十日に伯母峰に出かけたが、一本だたらは手強く、なかなか仕留めることができなかった。しかし、お守り袋にいれていた「神仏祈願の魔除けの弾(筆者注:後述の「隠しダマ」に類するものと思われる)」の力で、ようやく退治することができた。
 その後、何ヶ月かたったある日のこと、湯の峰温泉(今の田辺市本宮町)に、身の丈八尺(約2.4m)もある修験者が湯治にやって来た。その修験者こそが、大台ヶ原で兵庫頭に退治された一本だたらであった。一本だたらは、「猪笹王(いざさおう)」という背中に笹をはやした大きな猪の仮身であった。その正体を盗み見てしまった宿屋の主人は、危うく殺されそうになったが、射場兵庫頭の鉄砲と名犬ブチを買い求めてくることを条件に生命だけは助けてもらえることになった。しかし、宿屋の主人は鉄砲とブチを大事に守るように、事の一部始終を村人たちに話したため、一本だたらに殺されてしまった。その後も一本たたらは、亡霊となって「果ての二十日」に伯母峰のあたりに出没し、旅人を悩ましたという。

 

  • 猪笹王(一本だたら)を封じたとされる丹誠上人について、上述の「大台ヶ原登録ガイドテキスト」では次のように記載されており、大台ヶ原への入山の最も古い記録がある人物とされているようである。これによれば、丹誠上人が大台ヶ原に入山したのは慶長11(1606)年のことであるとされる。

 大台ヶ原への入山の最も古い記録としては、宝永5(1708)年の文書「北山由緒書」に、慶長11(1606)年に天台宗の僧、丹誠上人(たんせい しょうにん)が入山したことが記されている。丹誠上人は、上北山村と川上村をつなぐ伯母峰(おばみね)(古道・東熊野街道の改修に尽力した人としても知られる。

 

  • 和歌山市を中心に配布されているコミュニティ紙「ニュース和歌山」で連載中の「妖怪大図鑑」でもこの「猪笹王」が紹介されており、漫画家マエオカテツヤ氏が書いた猪笹王のイラストが掲載されている。ここでは猪笹王は背中に笹を生やした猪の姿で描かれている。

    www.nwn.jp

 

  • 奈良県吉野郡上北山村に本店を置く株式会社中谷本舗は、「ゐざさ寿司」と呼ばれる笹寿司を販売していることで知られている。同社のWebサイトによれば、この商品名は「猪笹王」にちなんで当時の東大寺管長から命名されたものであるとのこと。

ゐざさ寿司の命名
 この笹寿司を気に入られた当時の東大寺管長 清水公照師が、この地に伝わる伝説、笹をまとった大猪の姿をした神様 〈ゐざさ王〉 にちなんで、お寿司の名を、〈ゐざさ寿司〉 と命名。揮毫もしていただきました。ここに、まことに雄大な大台ケ原を象徴する名前と味わいの名産寿司が誕生したのでした。
奈良・吉野 上北山村の名物、ゐざさ寿司|柿の葉寿司のゐざさ中谷本舗

 

  • 上記で紹介した物語では「兵庫射馬兵庫)」という人物が鉄砲で「猪笹王」を撃ったという話になっているが、これとは別に、「刑部左右衛門」という人物が熊野詣の旅人を襲う「那智の一つたたら」を退治したという話も伝えられている。これについては、熊野路編さん委員会編「くまの文庫3 熊野中辺路伝説(下)(熊野中辺路刊行会 1972)」に「刑部と一つたたら」という題名で次のような物語が収載されている。

刑部と一つたたら
 田辺から出る三川通いのバスが、初夏には新緑、秋には紅葉の影を映す合川ダム湖にかかると、やがて対岸に小瀬の山が見える。
 昔、この小瀬の山中に一人の落武者が住みつき、山林を開墾して、昼は畑を打ち、夜は二人の子供に武技を教えて、平和な生活を送っていた。子供たちは武芸の上達がめざましく、その武名は近郷に知れ渡った。
 その頃、那智山から本宮に通じる大雲取・小雲取の山中に怪物が出没して、熊野参りの旅人を襲ったり、村里に現われて人畜を害したりして、その被害が大きかった。人々はその怪物を「那智の一つたたら」といって恐れ、夕方からは外に出るものがなかった。
 被害に悩む村の人々は、時の領主に、この怪物を退治してほしいと願い出たが「地方の武勇の秀でた者に討たせよ、うまく仕留めたら恩賞は望みのままに与えよう」との返事であった。そこで、武勇の士を探し求めていたところ、たまたま日置川の上流小瀬の山中に、武技の奥技を極めた二人の勇士のいることが耳に入った。村人たちは大いに喜び、早速使者を立ててその家を訪ね、怪物退治に出てくれるよう懇願したところ、二人の兄弟は快諾してくれたが、どちらが行くかについていい争ったので、父が計らって、くじびきで決め、弟の刑部左右衛門がくじに当たった。
 血気の若武者刑部左右衛門は、旅仕度を整え伝家の宝刀を腰に、日頃手慣れた強弓を持って一族に別れを告げた後、日置川を舟で下り、那智山に向かった。
 待ち兼ねていた村の人々は、刑部左右衛門のりりしい姿を見て、大いに意を強うした。彼は先ず那智大社に詣で、三日三晩参籠して祈願をこめた後、寝食を忘れて怪物のあとを追った。追及は三年に及んだが、彼が東に行けば怪物は西に現われ、南に行けば北に出てくるといった有様で、被害は以前と変わりなく、手の施しようがなかった。しかし、刑部左右衛門は少しも屈することなく、専ら神仏に祈りながら、日夜怪物を求めて山中を駆け巡った。
 ある夜、大暴風雨を冒して雲取山深く分けいったところ、丑三つ頃、にわかに雷鳴電光すさまじく、天地も崩れんばかりの大音響とともに、身の丈三メートル余の怪物が現われ、刑部をにらみつけ大声でほえたてた。その声は四囲の老樹を震わし、遙かの谷にこだまし、身の毛もよだつ有様であった。しかし、刑部は恐れる色もなく、弓に矢をつがえ、狙いを定めて射た。矢は怪物の胸の真中に当たったが、むなしく地上に落ちた。彼は息もつかず二の矢、三の矢と続けて四七(筆者注:4 x 7 で28のこと)の矢まで射たが、かすり傷一つ与えることもできず、残るは一矢だけとなった。そのとき、刑部は怪物に向かって
俺はおまえを退治しようと思ってここに来て三年余、苦心してやっと見つけたが、おまえの体は金鉄のようで、どうしても矢が立たないしその矢も尽きた。このうえはわが身をおまえに与えよう、思うように食うがよい
といって、怪物の前にどっかりと座った。怪物は勝利の喜びを現わし、一段と大声でほえたてながら、刑部の傍に近寄って来た。そのときすかさず腰の刀を抜いて、怪物ののどをただ一突きに突き刺した。さしもの怪物もたまりかねてわめき狂いながら逃げ去った。
 翌朝早く、刑部が村人たちを引き連れて山中に引き返してみると、前夜格闘したところは灌木や雑草が踏みにじられ、おびただしい鮮血が流れて、すさまじい光景である。点々と落ちている血のあとを追うて奥へ入って行くと、大きな岩屋があり、その中で怪物は瀕死の状態のままぐったりとなっていて、難なく刺しとめた。
 それから後、この地方には何事もなく、住民 の生活は安らかになり、熊野参りをする旅人も安心して通れるようになった。刑部左右衛門はその功により、那智山の一部を下賜されたといわれる。

 

狩場刑部左衛門記念碑
 那智勝浦町色川の樫原地区に、熊野の伝説的英雄として今なお語り継がれる狩場刑部左衛門(かりば ぎょうぶざえもん)の記念碑があります。『紀伊風土記』などの記述によると、昔「ひとつだたら」という盗賊が山中から出没し、熊野三山の宝物を盗むなどの悪行をはたらいていましたが、誰もこれを捕らえることができず、色川の樫原にすむ狩場刑部左衛門という勇猛な男に頼んで、ようやく討伐に成功しました。刑部左衛門は那智山から寺領の山林三千町歩(約3000ha)を恩賞として受けましたが、自分のものとせず、色川郷18カ村に譲り、長く郷民の助けとしました。
 刑部左衛門の死後、郷民はその徳をたたえ、屋敷跡を整備して王子権現と称し、地域の氏神として祀りました。しかし、この神社は明治の神社合祀令によって明治43年(1910年)色川神社に合祀され、跡地の山林は売却され廃社となりましたが、その後も郷民は字栃谷にある墓地に石塔を建てて長く遺徳を偲んできました。
 その後、墓地が広げられて、大正7年(1918年)新たに記念碑が建てられ、昭和4年(1929年)には狩場刑部左衛門五百年祭が盛大に営まれ、今に至るまで、毎年2月に旧色川郷18ケ村の代表が集い、慰霊祭が行われています。(2012.8.29)

 

  • 一本だたら一つたたら)」にまつわる伝承にはさまざまなものがあり、その内容は地域によって、あるいは人によって大きく異なるようである。和歌山県民話の会編集・発行の「熊野・本宮の民話(1981)」には次のような伝承が収載されているが、このうち西律氏の「念仏弾」の話は別項「椎木明神」で触れた通称「隠しダマ」と呼ばれる伝承に類するものである(上記で紹介した上北山村のWebサイトにも「猫と隠し玉」という題名で類似の話が掲載されている)し、西浦竜氏の話はよく知られた「のっぺらぼう」と同様の筋運びとなっている。こうしたことを考慮すると、「一本だたら」というのは特定の妖怪を指し示す名称というよりはむしろ、熊野山中で生じる様々な怪異現象全般をすべて「一本だたらのしわざ」とみなす人々の思考様式が生み出した「妖怪」なのではないかと考えることができる。
    椎木明神 ~広川町津木小鶴谷~ - 生石高原の麓から
    のっぺらぼう - Wikipedia

一つダタラ
 それはね、それも東の川やて言いやった。東の川の椎茸山で、それは名アは忘れたけどな。その、夜さに寝よったんやと。そいたら、カアーッと山全体が明るいんやと。カアーッとね。今夜お月さんも無いのにおかしい。何故ないの、と思て、そいて、扉開けて飛び出いて見たらね、カアーッと明るいんやて。そいて、見たら、ポイッ、ポイッと、一本足のものが跳んで来よんねやと。それから、大きなかしの木あったんやと、小屋の前にの。そのかしの木の方へ向いて、もうおとろしさか、登っていってしゃがんでおったんやと。隠れとったんやと。そいたらね。降りて来て、しばらく立ってったちゅうわ。そのかしの木の元で、そいてね、おとろし、おとろして見よったらね、前みて谷の方へ降りて行った。と、そういう事聞いとる。
[話者・仲 権吉(大瀬) 記録・中田

 

一本ダタラ
 一本ダタラのことを、この辺では おおめき いうて、山へ入ったら、大きな声でおめかれんぞと、昔からよう言われたもんや。おおめきまけたら、一本ダタラに連れていかれるといわれた。
 むかし、小森の熊五郎というたいへん話の上手な、丸太切りのおじいさんがおって、そのおじいさんから聞かせてもろた話やけど・・・・・・。

 五右衛門という鉄砲打ちがおって、ある日、鹿を射止めたところへ、一本ダタラがやってきて、
五右衛門、鹿をもってこい。
いうんや。五右衛門は、
鹿を片枝やるから、しんぼうせえ。
いうて、やったら、一本ダタラは食べはじめた。
 五右衛門は、頃合いを見はからい、火縄銃に火薬をいっぱいつめて、一本ダタラの耳の穴へ、ぶちこんでやったらしいんや。
 そしたら、一本ダタラは、
五右衛門の鉄砲は耳にたつ。
と、いうて、一本足で、とんで逃げていったということや。
 海の方へ逃げていって、海へとびこんで死んだというから おそらく、脳がわいたんやろういう話や。
[話者・小谷恒貞(発心門) 記録・正木


一本タタラ
 一本足でね。バアーッって飛んだら三間も四間も飛ぶんやってね。じいさんの連れやった、なんぞっていう人が一本タタラに山道で出会うてね、逃げよに逃げられんので、松の木の上にかけあがってね、通って行くのを待ってたんやって。
[話者・尾野 勉(下湯川) 記録・和田

一ツタタラ
 小口の刑部左衛門って人が、一ツタタラっていう化けものを退治て、那智山の一帯をもらったらしいですね。それを後に色川村かどこかへ寄付したんだっていう経緯がありますわね。
 ところが、この辺では、小口の刑部左衛門っていうて、小口の人として残るんですわ。そしてこれは念仏弾と関係のある話として残っているんですわ。
 刑部左衛門をね、岩屋に住んでいる鬼をうつんだけども、いついっても釣鐘をかぶってるもんだからね、うち殺せない。
 この次にはどうしても退治してやろうと、家へ帰って弾をつくる。そして晩になって弾をこさえてると、どこからともなく猫が入ってきて、火の端へ座って、見るでもなく、いねむりする。そして、今日のやつはと弾を一つ二つと数えて三十発、あとは明日や。そして翌日、三十一から数えていくまでに猫が入ってきて、それが終わるとスーッといつのまにかなくなるらしいですわね。
 そして最後の晩に、九十九までよんでね、九十九、これで終わりっていうわけで終わったら、猫はスーッと行ってしまったと。そえで、九十九発のほかに、鍋のあしをかいて作った念仏弾、あれを百発目に入れたのを猫は知らなかったわけですわ。
 その猫というのが、結局、鬼の変身であった。それで、退治に行って九十九発うって、九十九発全部うったんだからもうおまえのすいたようにせよ。わしゃ負けた。というて、ほいで、鬼が出てきたときに、念仏弾でうち殺したと。
 念仏弾っていうのは、必ずしもそれを照準しなくとも、その方面に向かってうてば必ずあたるんだと。
 一つタタラの話、こちらではこういう形で伝えているんですがね。
[話者・西 律(桧葉) 記録・和田

 

一つ目タタラ
 うちの年寄りなんかでもよういいました。
 山道いきよって、だれかきたと思て、出会(お)てはなしして、「この前だれかいきよらなんだか。」ていうんで、「いきよったよ。」いうたら、「どんな顔やったよ。」いうから、「さあー。」ていうたら、「こんな顔やったか。」いうんで、ひょっとみたら、目一つで足一本やったいうはなしをききま した。
[話者・西浦 竜(皆地) 記録・藤沢
引用

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。