生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

「山の家おいし」夜間営業(2001. 9.20)

 「イベント回顧録」のカテゴリーでは過去の個人サイトに載せていたイベントの記録などを再掲しています。

 

 今回は平成13年(2001)9月の月見にあわせて行われた生石高原山頂のレストハウス山の家おいし」の夜間営業告知を紹介します。

 

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山の家おいし 夜間営業のお知らせ
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 今年もススキの穂の綺麗な季節がやってきました。
 山頂のレストハウス山の家 おいし」では、毎年恒例の「お月見夜間営業」を行います。
 標高870メートルの高さにある生石高原の山頂から見る月は、まるで手に取るように鮮やか。高原一帯に広がるススキ草原に月の光が反射して、あたり一面が銀世界に変わってしまう光景は一見の価値ありです。
 紀の川や大阪湾沿いに広がる雄大な夜景を眺めつつ、ロマンチックな銀世界に浮かぶ月を愛でるのもまた格別なものですよ。

 

開店日時
平成13年  9月30日(日)  午前10時~午後9時 
10月1日(月) 十五夜  午前10時~午後9時 
     ※雨天時は夜間の営業を中止します。

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お問い合わせ先
レストハウス 山の家おいし
 海草郡野上町中田899-29
 TEL 073-489-3586
野上町役場 産業課(現在は合併により紀美野町
 海草郡野上町動木287
 TEL 073-489-5901

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 レストハウス山の家おいし」の開設経緯や、「月見」と「すすき」の関係については、2000年の夜間営業に関する記事の中で紹介しているので、今回は「月見」という行事そのものについて少し資料を調べてみました。
「山の家おいし」夜間営業(月見)(2000. 9. 2) - 生石高原の麓から

 

Wikipediaの「月見」の項には次のような記述があり、「名月の日に月を鑑賞する風習」は中国において唐の時代(618 - 907)に始まったとされるものの、その詳細は不明のようです。

 月見は、主に旧暦8月15日から(午前零時を介して)16日の夜(八月十五夜と、日本では旧暦9月13日から14日の夜(九月十三夜)にも行われる。そのため、月見に関する話題で単に「十五夜(じゅうごや)」、「十三夜(じゅうさんや)」という場合、これらの夜を意味する。

 中国や日本では、単に月を愛でる慣習であれば古くからあり、日本では縄文時代頃からあると言われる。ただ、『竹取物語』には月を眺めるかぐや姫を嫗が注意する場面があり、月見を忌む思想も同時にあったと推察される。

 名月の日に月を鑑賞する風習の始まりは、唐代の頃からということしか分かっていない。宋代の『東京夢華録』には身分に関わらず街を挙げて夜通し騒ぐ様子が記録されている。この風習が貞観年間(859年 - 877年)の頃、日本の貴族社会に入ってきた。平安時代の月見は徐々に規模が大きくなり、延喜19年(919年)には宇多法皇が日本独自の十三夜の月見を催した。当時の日本での月見は詩歌や管絃を楽しみつつ酒を酌む、といった雅味な催しで庶民とは縁のないものだった。この頃の月見は中国、日本ともに願掛けや供え物といった宗教的な要素はなく、ただ月を眺めつつ楽しんでいた。

 明代の中国では宴会に加えて、名月の日に供え物月餅を贈り合う習慣が始まったと田汝成の『煕朝楽事』に記録がある。日本では室町時代に入ってからも名月の日は続いたが、遊宴としては簡素になっていき、室町後期の名月の日には月を拝み、お供えをする風習が生じていた。『御湯殿上日記』には後陽成天皇がナスに開けた穴から月を見て祈る「名月の祝」という祝儀の様子が記録されている。

 東アジアには旧暦の8月15日には月見の成立以前からサトイモの収穫祭がある地域が多く、日本でもその日にサトイモを食べる習慣があった。月見が世俗化した江戸時代前期の記録によれは、十五夜の日には芋煮を食べて夜遊びをするのが一般的だった。その頃の庶民の月見には月見団子などの供え物の記録は見られず、家庭で供え物が行われるようになったのは中期以降のことと見られている。江戸後期の風俗記録である『守貞漫稿』には十五夜の日は文机で祭壇をこしらえ、供え物として江戸では球形の、京阪ではサトイモの形をした月見団子を供えると記録されている。

 

 平安時代に観月(月見)が我が国に定着していった過程について、京都大学大学院(執筆当時)陳馳氏は「平安時代における八月十五夜の観月の実態京都大学大学院人間・環境学研究科歴史文化社会論講座「歴史文化社会論講座紀要 第15号」2018)」において次のようにまとめています。

 八月十五夜の観月は中国古来の行事ではなく、唐代に入ってから成立したものである。最初は単なる文人たちの風流な遊びに過ぎなかったものが、盛唐(筆者注:概ね712年から765年まで)道教隆盛を背景にして、急激に広まり、流行していった。中唐(筆者注:概ね766年から826年まで)以降、「中秋」という言葉の意味の変化により、八月十五夜の観月は徐々に個人的な風流な遊びから習慣的な行事へと変わっていく。また、それ以降、庶民層まで浸透し、収穫祭などの趣旨と融合し、風俗化を遂げ、中国の一年中もっとも重要な節日・中秋節となったのである。
 平安時代における八月十五夜の観月は唐代の詩文と共に伝来し、当初は漢詩の題材や漢風の宴として定着した。やがて、漢詩が和歌へと広がり、漢風の宴も和風化した。先行研究は八月十五夜の観月がその後、年中行事あるいは天皇中心の宮中行事として成立したと論じたが、なお検討の余地がある。筆者は先行研究が扱った多くの文献をあらためて分析し、その結果、平安時代における八月十五夜の観月は年中行事としては不成立で、宮廷儀式としてはまだ過渡期にあるということを結論づけた。

 平安時代の貴族はやはり主に個人的な場合に私宴を行って八月十五夜の月を愛でていた。そして、八月十五夜の観月はしばしば観月の作文詩会や和歌会・歌合の形で催され、文学を生む場となっていた。そういった中で、八月十五夜の観月は未熟ではあるが、宮廷儀式にも取り入れられ、晴の儀で行われた。八月十五夜の観月はこのように、平安時代の貴族によって様々な形で行われており、多様性を見せている。それが平安時代における八月十五夜の観月の実態である。

Kyoto University Research Information Repository: 平安時代における八月十五夜の観月の実態

 

 また、同志社女子大学吉海直人特任教授(日本語日本文学科、掲載当時)は、同大学のWebサイトに掲載されたブログにおいて、いわゆる「月見団子」について次のように解説しています。

中秋の名月にお供えする団子

(略)

 貞観年間(860年頃)以降、観月の詩宴が盛んに行われるようになりました。延喜5年(905年)には、初めて宮廷行事として観月の宴が開催されています。もともと宮廷行事として行われていたものが、武家社会を経て庶民に広がったのは、江戸時代まで下ります。現在一般に行われている年中行事の大半は、徳川幕府によって定められたものと見て間違いはありません。江戸時代には、月見にふさわしい場所(名所)まで特定されています。

 当然、宮中から広がった関西の行事と、江戸幕府から広められた関東の行事では、月見の楽しみ方に違いが生じています。よくいわれているのが団子の違いでした。関東では円くて白い月見団子を、三方に三段重ねにして15個飾ります。それに対して関西では、里芋に似せた団子をこし餡でくるんだものが主流です。

 もちろん関西の方が古い形式を残しています。というのも中秋の名月は、ちょうど里芋の収穫期と重なっており、そのため「芋名月」という別称が存しているからです。その芋名月にちなんで、収穫したての里芋をお供えしたというわけです。これは宮廷行事の中に、豊作を感謝する収穫祭が紛れ込んでいるのでしょう。

 それが調理済みの「きぬかづき(筆者注:里芋の小芋を一部皮付きのまま茹でたり、蒸したりしたもの)」となり、さらに米粉でこしらえた団子に換わっていきました。関西では、現在も里芋(きぬかづき)のおもかげを団子に残しているのです。ただし関西といっても、里芋風の月見団子は京都・大阪・滋賀に集中しているようです。それ以外は関東風の月見団子か、中国・四国では串団子が多いとのことです。また秘密のケンミンSHOWでは、愛知県の三色月見団子が紹介されていました(2011年12月8日放映)

 満月を模した関東風の団子にしても、餡なしか餡付きかの違いがあります。それだけでなく、まるいか饅頭型かの違いも生じているようです。月見団子も案外複雑ですね。さてみなさんの知っている月見団子はどのタイプですか。

中秋の名月にお供えする団子 :: 同志社女子大学