生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

「小川夢物語 ビッグツリードリーム」点灯式(2001.12.23)

 「イベント回顧録」のカテゴリーでは過去の個人サイトに載せていたイベントの記録などを再掲しています。

 

 今回は、紀美野町立小川小学校(当時は野上町立小川小学校)にある大きなメタセコイアの木を用いたクリスマスツリーの点灯式の紹介です。

 

 1996年の年末に実施されたメタセコイヤへの電飾が好評だったことから、このイベントは年末の恒例行事として地域に定着することとなりました。

 ちなみに、このブログでは、1996年から1998年にかけて3回のイベントを紹介してきました。今回は、スタートからは6回目の開催、このブログでは4回目の紹介となります。

 山あいのクリスマスツリー(1996.12.24~31)
 小川夢物語 ビッグツリードリーム(1997.12.23)
 小川夢物語 ビッグツリードリーム (1998.12.23)

 

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小川夢物語
ビッグツリードリーム

 

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 平成8年のクリスマスに、私の住む野上町小川地区の活性化に取り組む若者グループ「生石すすきの会」が、地元の小学校の校庭にある高さ約35メートルのメタセコイヤの木に電飾を飾り付け、大きなクリスマスツリーを作り上げました。
 これが大きな反響を呼んだため、その後継続的にイベントが開催されることとなりました。今年は、去る12月18日に大阪の毎日放送テレビ「ちちんぷいぷいでも紹介されるなど知名度も高くなり、遠く大阪周辺からも見学客が訪れるようになってきました。
 今回は、平成13年12月23日に行われた点灯式の模様をレポートします。

 

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 ビッグツリードリームの会場となる、野上町立小川(おがわ)小学校のグラウンド。私の母校でもあります。
 そして、正面に見えるのがクリスマスツリーとなるメタセコイヤの木。私が卒業した約30年前でも既に巨木だったという印象があるんですが、今も毎年50cmぐらいずつ伸びているそうです。

 

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 会場内では、主催者である「すすきの会」がたこ焼きと綿菓子を販売していたほか、フランクフルトやうどん、おでんなどの屋台が出されていました。
 これらの売り上げの多くは「すすきの会」に寄付されて、来年からのツリーの飾り付けをグレードアップするために使われるそうです。

 

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 イベントの定番といえば、やっぱり餅まき。子どもも大人も夢中になって餅を追いかけます。
 今回の餅まきは景品付き。一等賞品はなんだったんだろ? とにかく、私は地元特産のホウキセットをゲットしました(^_^)

 

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 夕闇が迫る頃。会場内のステージでは、メタセコイヤの木をバックに小川小学校の生徒とその父兄によるコーラスが披露されました。

 

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 小川小学校の6年生全員がステージの上に上がり、カウントダウンの声にあわせてスイッチを押すと、花火とともにクリスマスツリーが点灯しました。
 花火といっても、既成の花火にスタッフが次々とライターで点火していく(^^;という手作りのものだったんですが、それなりに雰囲気は出ていましたよ。

 

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 このクリスマスツリーは、平成13年12月23日から平成14年1月3日までの間、毎日午後6時頃から午後10時半頃まで点灯されています。また、12月31日夕方から1月1日の朝にかけてはオールナイトで点灯される予定です。

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 上記文中で、このイベントが紹介されたというテレビ番組「ちちんぷいぷい」は、当時、毎日放送MBSテレビが毎週月曜日~金曜日、13時55分~15時49分の枠で放送していた生放送の大型情報番組です。放送開始は平成11年(1999)10月であり、この当時はまだ放送3年目にはいったばかりだったのですが、その後も人気番組として永年にわたって放送が続けられ、関西を代表する情報番組として令和3年(2021)の放送終了まで全5,115回の番組が制作されました。
ちちんぷいぷい (テレビ番組) - Wikipedia

 

  写真でも紹介されているように、和歌山県内では、イベントにおいて「餅まき」を行うことがごく一般的なものと考えられています。他の地域では、「餅まき(餅投げ)とは建物を新築する際の上棟式(棟上げ)で行う行事」と認識されていることが多いようなのですが、和歌山ではことあるごとに餅まきが行われており、イベントの主催者としても「人を集めたければ餅まきをすれば良い」というのが割と共通認識になっています。こうしたことから、和歌山県を「餅まきの聖地」と呼ぶ人々もいます。
『「餅まきの聖地!」和歌山の餅まき情報』ホームページ開設!(和歌山県広報リレーブログ)

 

 その餅まきの景品となっていたのが、地元特産のホウキ(箒)セットでした。現在の紀美野町がある通称「野上谷(のかみだに)」と呼ばれる地域は、古くから「棕櫚(シュロ ヤシ目ヤシ科シュロ属の常緑高木)」の栽培が行われており、これを原料に使用したホウキタワシなどの生産が非常に盛んな地域でした。(財)和歌山社会経済研究所主任研究員(当時)山下慎昭氏は、同研究所の機関誌「21世紀わかやま Vol.46(H17.7.29)」に掲載された「「棕櫚」を知っていますか? ~野上谷の棕櫚を訪ねて~ 」というレポートにおいて野上谷の棕櫚産業について次のように紹介しています。

「棕櫚産業」のはじまり
 和歌山を代表する地場産業に「家庭日用品産業」があり、全国シェアの約8割を占めるという和歌山が全国に誇る産業の一つとなっていますが、そのルーツは、野上谷で栽培されていた棕櫚を原料にして、縄、蓑、束子、箒などを製造する「棕櫚産業」に端を発しています。

 野上谷とは、海南市東部(北野上、中野上、南野上)から野上町及び美里町の一部に及ぶ地域を総称した呼び方であり、紀ノ川平野と比較して平野に恵まれないこの地方では、棕櫚産業は、山村に住む人々の生活の知恵が生み出した生計を建てるための手段であり、棕櫚皮を集荷、加工し全国に売り歩き収入を得ていたようです。棕櫚が生計の目的をもって植えられ始めたのは弘和年間(1381~84)だとされていますが確かな証拠は残っていません。

 天保10年(1839)に発行された「紀伊風土記」の記述からは、19世紀の初頭には棕櫚は藩内のいたるところに植えられており、なかでも野上谷や有田郡の奥地で多く栽培され、棕櫚皮のままあるいは棕櫚縄にして各地へ出荷し、かなりの利益をあげていたとされています。

 

「棕櫚産業」の盛衰
 野上谷棕櫚縄が本格的に始まったのは、明治10年(1877)頃といわれ、明治18年(1885)には、現在の「海南特産家庭用品協同組合」のルーツである「和歌山県棕梠東京積同業組合」が設立されました。東京積とあるように、野上谷から船便で積み出しされた棕櫚皮の送り先はその昔ほとんどが江戸であったのです。

 日清・日露両戦争(明治27~28・明治37~38)を経て、棕櫚製品の需要は、軍の弾薬箱の手縄として大量に利用されるなど軍需増大もありにわかに高まり、それまでは農閑産業あるいは農家の副業としての色彩が強かったものが、その後、専業としての問屋・製造者が続々と現れ、地場産業としての基盤となっていきました。明治40年頃からは原料の不足が生じ、国内産の棕櫚皮ではまかないきれず、中国産を輸入するようになり、大正のはじめ頃からは代用品としてスリランカなど東南アジアから椰子の実の繊維=パームを輸入するようになり、棕櫚に比べて安価なパームが主役になり棕櫚産業というよりパーム加工業という方がふさわしいくらいになっていきました。

 昭和30年頃から日本は高度成長に入り、原材料として、ナイロン、ビニール、テトロンの順で化学繊維が登場し多種多様な製品が開発されていくとともに、家庭電化製品の大衆化により「電気掃除機」も普及し「棕櫚の座敷帚」が掃除用具の主役の座を奪われ、台所用品の主役であった「棕櫚束子」が「スポンジたわし」にその座を譲るとともに、核家族化の進展による新築家屋の増加、畳の和室からフローリングの洋室、座布団からソファーといったように、日本の生活様式の「和」から「洋」への転換が始まり、こういった種々の要因が新製品の開発に拍車を掛ける結果となりました。

 昭和39年(1964)には「海南棕梠パーム商工業組合」が発展的に解消され、翌年昭和40年に「海南和雑貨協同組合」となり、さらにその後、和雑貨産業が飛躍的な発展を遂げ、取扱製品も家庭用品全般となったことから、昭和62年には現在の「海南特産家庭用品協同組合」と組合の名称変更からも、「棕櫚産業」から「家庭日用品産業」への変遷の歴史がうかがえます。

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