生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

熊野古道 大門坂(1999.6)

 「南紀熊野体験博の記録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、「JAPAN EXPO 南紀熊野体験博(1999.4月~9月)」に関するものを再掲していきます。

 

 前項の記事では開幕から約1か月経過した那智勝浦シンボルパークの様子を紹介していましたが、今回の記事ではそれと同時に訪れた熊野古道大門坂の様子を紹介しています。

 「大門坂」は、那智勝浦町市野々から那智山に向かう約1kmの石畳・石段の坂道で、西国三十三所第1番札所である那智山青岸渡寺熊野三山のひとつである熊野那智大社の参道として古くから多くの参詣者が歩いた道でした。熊野詣が盛んに行われていた頃の熊野古道の面影をもっとも色濃く残している場所として知られており、熊野古道を紹介するポスターやパンフレットにはほぼ例外なく「大門坂」の写真が用いられています。

www.wakayama-kanko.or.jp

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熊野古道 大門坂ウォーク

 

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 「南紀熊野体験博'99」といえばやはり「体験」がキーワード。シンボルパークへ行っただけでは「体験」したとは言えない、ということで、熊野古道のハイライトの一つ「大門坂」を歩いてきました。
 実は、私は那智山には何回も行ったことがあるのですが、実際に大門坂を歩くのは今回が初めてでした。そこで、実際に歩いてみた感想はと言いますと、これはもう「素晴らしい」の一言につきます。このページをご覧になった方、無条件にお奨めです。ぜひとも一度この道をお歩きください。
 

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 うっそうと生い茂る杉木立の中を延々と続く石畳の道。古いものでは樹齢800年を越えるものもあると言われていますから、まさにこの杉達は古人(いにしえびと)による「蟻の熊野詣」の生き証人であるといえるでしょう。
 私が歩いた日は、日中の気温が30度に達しようという非常に蒸し暑い日でしたが、杉木立の中はひんやりとした風が通り抜け、大変気持ちよく歩くことができました。これも一つの緑の効用なのでしょう。

 

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 忽然と現れた熊野の精・・・ではなくて、那智勝浦町役場が運営する「大門坂茶屋」で待機していただいている平安装束のボランティアの方々です。記念撮影をお願いしたら、快く被写体役を引き受けてくれました。
 この「大門坂茶屋」では、この他にも冷たいお茶の接待や、飴のプレゼントもしていただき、大変お世話になりました。ありがとうございます、那智勝浦町様。
 (そうそう、大門坂の頂上にある「大門坂みたし茶屋」でも冷たいお茶の接待をいただきました。こっちは実行委員会の運営かな。いずれにせよ、どうもありがとうございました。)

 

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 熊野古道の石畳を約30分ほど、距離にして1.2Kmぐらい歩くとそこは西国三十三か所めぐりの一番札所、「那智山青岸渡寺(なちさん せいがんとじ)」です。その庭先からは日本一の名瀑「那智の滝」を間近に見ることができます。

 

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 青岸渡寺と並ぶように建てられているのが、熊野古道の終点の地、熊野那智大社です。本宮町にある「熊野本宮大社」、新宮市にある「熊野速玉(はやたま)大社」を経てこの熊野那智大社に参詣すれば、「熊野三山」詣でが完了したことになるのです。
 私のウォークもこれで完了、再び熊野古道を下って駐車場へ戻ることにしました。

 

Today's topic

 

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 那智山青岸渡寺で見かけた平安装束の3人連れ。大門坂で見かけた熊野古道の精かと思いきや、よく見ると3人とも男性!!!
 どうやら、レンタルの平安装束をいたずらで着込んだらしいんですが、妙にサマになっているところがヤバイというか、恐いというか・・・(^_^)
 まあ、老若男女、貴賤を問わず誰でも受け入れるというのが熊野の神々の特徴なのですから、これもまた一つの「正しい熊野詣」なのかもしれません。

 

※上記の記事は1999年6月に個人のWebサイトに掲載したものを再掲しました。

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 上記の記事の中で女性の平安装束として紹介している写真は、平安時代から鎌倉時代にかけて身分の高い女性が外出する際に用いた一般的な服装で、「壺装束(つぼ しょうぞく)」と呼ばれます。「袿(うちぎ)」と呼ばれる衣の裾を引きずらないように紐で腰の位置に束ね、膝まで裾を持ち上げて(つぼめて)着付けたことが呼び名の由来とされていますが、これに加えて「市女笠(いちめがさ)」という、つばの広い笠をかぶり、周囲に「虫垂衣(むしの たれぎぬ)」と呼ばれる麻などでできた薄い布を垂らしていることが外見上の大きな特徴です。
つぼ装束にむしの垂れぎぬの旅姿 | 日本服飾史

 

 現在も、大門坂のある那智勝浦町では、毎年10月に熊野古道を平安衣装で歩く「あげいん熊野詣」という行事を開催しており全国から多くの参加者で賑わうほか、麓の「大門坂茶屋」では随時平安衣装のレンタルも行っているようです。
わかやま観光 あげいん熊野詣 | 和歌山県公式観光サイト
大門坂茶屋|ネット予約ならアソビュー!

 

 また、那智勝浦町にある温泉旅館「かつうら御苑」のブログによると、上記の「あげいん熊野詣」というイベントは昭和60年(1985)に第一回が開催されたとのことで、当時の様子を伝える新聞記事も掲載されていますが、これによると初回の参加者はほぼ地元の人々だけであり、平安時代の衣装は着ているものの、小学生が「文覚上人」や「平維盛」などといったプラカードを持って行例に参加するなど、現在とはまだ違った内容で実施されていたようです。

www.jalan.net

 

 なお、上記のようなイベントでは女性の衣装はほぼ全て壺装束が用いられているため、平安時代の熊野詣の装束はこのようにきらびやかなものであったとのイメージが定着していますが、下記のブログにあるとおり、実際の熊野詣は、黄泉(よみ 死者の国)への旅立ちを意味するものとして死者と同じ白装束をまとっていたと言われています。
中世の熊野詣の衣装 – み熊野ねっとブログ

 

 確かに、このブログで紹介されているように、「熊野道之間愚記後鳥羽院熊野御幸記 一般的には「熊野御幸記(くまの ごこうき)」と呼ばれている)」には次のような記載があり、ここでは男性藤原定家の衣装ではありますが白い布の淨衣を着用したと書かれています。

建仁元年十月
  五日 天晴
よりて折烏帽子を着(兼曰俊光之を折る毎人此の如し) 淨衣(短袴、あこめ、生小袴、下緒、脛巾(はばき 後世の脚絆(きゃはん)にあたる) 布は白を用ふ 初度はこの如しと云々 シトニタビヲ付す) 縁のあたり昇りて坐す 左中弁同じく其儀此の如し

※参考: 御幸記 御幸記読下し文