生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

南紀熊野体験博 閉会式(1999.9)

 「南紀熊野体験博の記録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、「JAPAN EXPO 南紀熊野体験博(1999.4月~9月)」に関するものを再掲していきます。

 

 今回の記事は、平成11年(1999)9月19日に行われた南紀熊野体験博の閉会式の模様を紹介します。また後段では、南紀熊野体験博の成果について後にどのように評価されたのかということについても触れていきます。

-----------------------------------------------------------
南紀熊野体験博 閉会式
f:id:oishikogen_fumoto:20211224111405j:plain

 平成11年9月19日、とうとう南紀熊野体験博が最終日を迎えました。
 4月29日の開幕以来144日間にわたって開催されてきた「JAPAN EXPO 南紀熊野体験博 リゾートピアわかやま'99」ですが、前日の集計によれば参加者は約288万人を数え、目標の200万人を大きく上回る結果となりました。

 この日、那智勝浦シンボルパーク内の那智海水浴場に特設されたステージでは、約4万人の観客を迎えて盛大に閉会式が開催されました。例によって、写真レポートをお送りします。

 

f:id:oishikogen_fumoto:20211224111449j:plain

 閉会式に先立って、シンボルパーク内のイベントステージでは高石ともやさん、三井ゆりさん、新藤栄作さんらをゲストに迎えてテレビの公開生放送が行われていました。
 特に、高石ともやさんは祖父が紀州の生まれだということで、南紀の山々に、そして海に・自然に「ありがとう」と何度も繰り返していました。「今の親は子供に対して『早くしなさい』というが、自分の祖父は『そんなに急いではいけない。ゆっくりやりなさい。』ということを教えてくれた。自分にとって、そんな祖父をはぐくんだ紀州には深い愛着がある。」と言った言葉が印象的でした。

 

f:id:oishikogen_fumoto:20211224111540j:plain

 午後7時半、閉会式が始まりました。
 オープニングを飾るのは、「御灯祭(おとうまつり)」の一行です。新宮市で毎年2月に行われているこの祭りは、市内の神倉神社の参道である長い石段を手に手に松明を持った男達の一団が勇壮に駆け下るもので、その激しさ、荒々しさから日本有数の火祭りの一つとされています。千人を越える男達が持つ松明が石段を駆け下りるさまは、「山は火の滝、下り竜」と謳われています。

 

f:id:oishikogen_fumoto:20211224111619j:plain f:id:oishikogen_fumoto:20211224111627j:plain

 御灯祭の一団がステージを駆け抜けた後には、「那智の火祭り」が登場しました。
 これは、毎年7月に那智勝浦町で開催されているもので、十二体の大松明と十二体の「扇御輿」が那智の滝参道で出会い、もみあうという勇壮な祭りです。本来は夏の真昼に行われる祭りですが、夕闇の中で行われたこの火祭りは、幻想的で、勇壮で、荘厳で、本当に素晴らしいものでした。

 

f:id:oishikogen_fumoto:20211224111659j:plain

 閉会にあたり、南紀熊野体験博実行委員会会長である西口勇和歌山県知事が閉会のあいさつに立ちました。
 一時期は軽い言語障害に苦しんだ知事ですが、8月に復帰して以来元気に公務を遂行されています。知事のバックで燃えているのは、南紀熊野体験博の成果を未来へつなげていくことを誓う「希望の火」です。

 

f:id:oishikogen_fumoto:20211224111724j:plain

 通産省が認定した「ジャパンエキスポ」では、優秀なパビリオンやイベントに対して様々な賞が贈られることになっています。今回の南紀熊野体験博で最高の「ジャパンエキスポ大賞」を受賞したのは、本宮町実行委員会が開催した「八咫(やた)の火祭り」でした。

 

f:id:oishikogen_fumoto:20211224111800j:plain

 ジャパンエキスポのシンボルである「ジャパンエキスポ旗」は、開催地から開催地へ受け継がれていくのがルールです。
 この日は、2001年にそれぞれ次回のジャパンエキスポを開催することとなる山口県山口きらら博)、福島県うつくしま未来博)、北九州市北九州博覧祭2001)の代表がそれぞれ来場し、近畿通産局長からジャパンエキスポ旗を受け取りました。

 

f:id:oishikogen_fumoto:20211224111902j:plain

 平安装束に身をつつんだ「熊野御幸記ウォーク」の参加者に囲まれて、福井多香子さんが南紀熊野体験博のイメージソング「あなたへの帰り道 ~大地へ~」を歌います。この歌は、一般公募により選ばれた北条晶さん滋賀県立国際情報高校3年生:当時)の詩に、小椋桂さんが補作詞と作曲を行ったもので、小椋桂さん自身が歌ったテーマソング「すべての命が愛しくなる」とともに多くの県民に親しまれ、愛されています。

 

f:id:oishikogen_fumoto:20211224111958j:plain

 最後に、那智海岸の沖に浮かぶ台船から1500発の花火が打ち上げられ、南紀熊野体験博の全てのイベントが終了しました。
 この花火が終わった瞬間、空から大粒の雨が落ち始め、あっという間に会場は雨に包まれました。天気予報では夕方から雨になるはずだったのですが、閉会式が終了するまさにその瞬間まで雨はほとんど降りませんでした。きっと熊野の神々がこのフィナーレを祝福するために雨を抑えていてくれたのでしょう。

※上記の記事は1999年9月に個人のWebサイトに掲載したものを再掲しました。

-----------------------------------------------------------

 

 イベントとしての「南紀熊野体験博」は前回の記事でも書いたように会期中に延べ約310万人の参加者を得て「成功」したとの評価を得ることになりました。
 しかしながら、和歌山県南紀熊野体験博を開催した本当の目的はこのイベントを通じた地域全体の活性化であり、そのためには参加者の数だけではなく、南紀熊野体験博がこの地域に何を残したのかということが問われなければなりません。

 これについて、和歌山県議会の平成27年(2015)6月定例会で行われた片桐章浩議員の質問とこれに対する仁坂吉伸知事の答弁が参考になると思いますので、少し長くなりますがその一部を引用します。

片桐議員
 最初は、南紀熊野体験博で根づいた地域振興をどう生かしていくかの質問であります。

 和歌山県の元企画部長であり、南紀熊野体験博実行委員会事務局長であった垣平高男さんが、このたび「熊野 癒しから蘇りへ 南紀熊野体験博・回想」、こういった本なんですけども、これを出版されました。(本を示す)この本を読ませていただきましたけども、非常に懐かしくて、そして、和歌山県熊野地域が光っていたあのころを思い出しました。
 少し、この博覧会に触れたいと思います。(「今も光ってるよ」と呼ぶ者あり)1999年-もちろん、今も光っておりますが、当時にその光る材料というのを提供してくれたというふうに思います。
 1999年、開催されました南紀熊野体験博の時代、スペイン・サンティアゴの道と姉妹道提携を締結、その後、博覧会の成功とあわせて、後に熊野古道を含む紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録、こういうふうに時代は動いていきました。21世紀の新しい価値の創造を目指した南紀熊野体験博だったわけです。
 和歌山県で開催されたこのジャパンエキスポ認定の南紀熊野体験博は、和歌山県南部の16市町村、21万ヘクタールを全て会場といたしましたオープンエリア方式と呼ばれる博覧会で、開催時期は1999年、平成でいいますと平成11年4月29日から9月19日までの144日間、開催されたことになります。
 熊野古道を中心とした地域でオープンエリア型の博覧会という、それまでになかったスタイル、この博覧会が南紀熊野体験博でございまして、人と自然が共生を目指す、そういう中で癒やしを感じ、心が満たされ、そして、あすを生きるためによみがえることができる、そんなメッセージを和歌山県から全国に発信させることができたと思っております。その結果、その年の流行語大賞に博覧会のテーマであった「癒やし」という言葉が選ばれたことは、覚えておられる方もいらっしゃるというふうに思います。
 垣平さんは、この著書の中で、南紀熊野体験博は熊野の誇りと自信を取り戻す地方からの挑戦であった、そして、ともに博覧会に挑戦し、頑張り通した仲間への感謝のメッセージだと記されております。
 当時、私も、この南紀熊野体験博実行委員会の一員としてこの博覧会にかかわらせてもらったことで、和歌山県熊野古道と自然信仰という高い精神レベルを有している、世界に誇れる県である、このことを認識できたというふうに思っております。
 早いもので、この博覧会開催から15年熊野古道世界遺産に登録されてから10年の歳月が経過しております。博覧会に携わった人も、現役で残ってる方は非常に少なくなってきましたから、私たちが発見したこの地域振興の仕組みを次の時代あるいは世代に引き継ぐためにも、南紀熊野体験博が築いた地域振興のあり方を議論したいところだというふうに思います。
 初めて南紀熊野体験博実行委員会に呼ばれたとき、熊野古道というものの存在は余り知りませんでしたし、会場のないオープンエリア型の博覧会とはどのような仕組み、仕上げになるのかということも、ほとんどわからないままの参加でございました。
 観光客に来てもらうためには、これまで地域にない新しいものを提供しなければならない、こういう発想ではなくて、今ここにあるものに価値があり、それを発見してもらうために来てもらう、そういう大胆な発想の転換をした博覧会でありました。
 私たちは、今ここにあるものは見なれているから、誰も関心がないだろう、そんなものを見るために観光客は来てくれないだろう、そういうふうに思う傾向があります。熊野古道という地域に既に存在しているもの、あるいは祭や行事、そういったものは、地元の人にとっては存在していることが当たり前であり、それが観光資源になり得るとは思っていませんでしたが、他府県から人が来てもらえるような地域資源になり得るものだというふうに、この博覧会を機に発想が転換できたのではないだろうかなというふうに思います。
 博覧会を通じて地域再発見をしよう、こういう機運が起き、自分たちのふるさとをもう一度見詰め直し、よく知り、愛着を持ち、自信と誇りに変わっていきました、このように著者が評価しているように、後に継続的な地域振興につながる種をまけたのではないかなというふうにも思っております。
 また、観光とは、表面的なものを見るだけではなく、背景に潜む歴史や文化など、精神が癒やされ、満たされることによる満足感、これを提供できるということが大切です。その1つとして、市町村イベント体験型観光があり、既に地域にあり、受け継がれているものに参加または体験してもらうことで、和歌山県がいにしえより受け継いできて、現在、私たちも持っている精神性を感じてもらうことを目指した博覧会でもありました。
 そのため、地域に根づいている文化や伝統を生かして地域みずからがイベントを企画運営することで、地域主導による博覧会に仕上げたことが、この博覧会の特徴でした。
 そして、地域が主体となったことで、博覧会を一過性で終わらせることなく、地域に定着させ、継続させること、そして、地域振興の起爆剤として開催する、こういう思いが込められていました。
 今では体験型観光というものは全国の市町村で企画されておりますが、この体験型観光のもとになっているのが、南紀熊野体験博の地域イベントだったわけであります。
 後の評価として、自分たちで考え実行し、地域力を高めていった博覧会を和歌山方式、こういうふうな形で名づけられることになりました。再び垣平さんの言葉を引用すると、私たちは、この博覧会を通じて芽生えた地域おこしの芽を大切に守り育てていきます、これが新しい博覧会に挑戦した和歌山県のポスト博覧会の基本認識、こういうことになります。
(中略)
 南紀熊野体験博がつくり上げた地域振興のモデルは、和歌山県として全国に誇れる自信と誇りになったと思っております。ここでいう地域振興とは、地方が育み、守ってきた歴史と文化、そして伝統を、ここで暮らす私たちが価値あるものだと認識し、地域を守っていくこと、これを目指すことに対して行政が支援していく仕組み、このようなものだと考えております。この実績に基づいたノウハウの継承、当時の関係者が持った自信と誇りをこれからの地域振興にどうつなげていくのか、そして継承していくのか、まず、知事のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

藤山副議長
 ただいまの片桐章浩君の質問に対する答弁を求めます。

 知事仁坂吉伸君。

仁坂知事
 南紀熊野体験博は、豊かな自然、歴史、文化の再発掘による新しい魅力の創出と国内外への情報発信、地域づくりへの機運の醸成などを開催意義に掲げ、これまでの常識を打ち破るオープンエリア方式を採用した挑戦の博覧会であったと認識しております。

 博覧会というものはこういうものだ、こういうふうにするものだと人はすぐに考えがちでございまして、そこで思考停止をするわけでございます。そういう例をたくさん見聞している中で、それを熊野の特性からあの形が最適と考え出して、多くの人々を説得したのはとても偉いことだというふうに思います。県庁職員はこうでないといかんというふうに思う次第でございます。
 この博覧会において熊野古道などの地域資源の再発掘と情報発信を行ったことにより、平成16年の「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録に至ったことは、国内のみならず世界から高い評価が得られたあかしであり、県民の財産として後世につなげていかなければならないと思います。
 この博覧会を契機として、県全域で地域づくりへの機運が醸成され、自然、歴史、文化にいざなう語り部や、ほんまもん体験修学旅行誘致などによる新しい旅の形の創出など、博覧会で培ったノウハウが今に継承されております。
 これからの地域振興については、博覧会の成果として積み重ねてきた取り組みに磨きをかけるとともに、地域をよみがえらせるわがまち元気プロジェクトの推進や過疎地域の活性化など、今般まとめた和歌山県まち・ひと・しごと創生総合戦略により積極的に取り組んでまいる所存であります。

平成27年6月 和歌山県議会定例会会議録 第3号(片桐章浩議員の質疑及び一般質問) | 和歌山県議会

 

 上記のように後世からは高く評価されている南紀熊野体験博でしたが、実際の現場では様々な軋轢が生じていたのも事実でした。
 博覧会の理念は「従来の常識にとらわれない全く新しい『オープンエリア型博覧会』を創り上げていく」というものでしたが、なまじ和歌山県には「世界リゾート博」という「典型的な従来型博覧会を大成功させた経験」があったことから、個々の担当者による実務レベルでは「リゾート博の軌跡をなぞれば良い」との認識をなかなか払拭できず大変苦労した模様です。
 これについて、南紀熊野体験博の総合プロデューサーを務めた茶谷幸治氏は自らのブログにおいて次のように延べています。

 「神戸ルミナリエ」から手を引いてしばらくおとなしくしていましたが、「世界リゾート博の恩恵が全くなかった南紀で博覧会をやってほしい」と和歌山県西口知事から頼まれました。ならばと引き受けて、かねてから熱望していたエリア一面が博覧会場という冒険をやってみることにしました。県幹部には賛否両論がありましたが、知事は茶谷を支持して、南紀熊野地方全体で「南紀熊野体験博」をやることになったのです。「アーバン神戸」や「リ博プレイベント」で手ごたえをつかんでいた私は、この実験的な展開に自信がありましたが、「田舎にこそ銀座が必要」という頑固な主張が事務局に根強くてさまざまな抵抗にあいました。そこで打ち出したのが「熊野古道が最大のパビリオン」「南紀の海がそのまま会場」という秘策です。しかし「そんなもので人が来るなら、とっくに来ている」という反論は終了までいつもぶつぶつと燃えていました。
南紀熊野体験博 of 茶谷幸治のホームページ

 

 また、上記の片桐議員の質問の中にもあったように、南紀熊野体験博は「地域に根づいている文化や伝統を生かして地域みずからがイベントを企画運営することで、地域主導による博覧会に仕上げた」ことが大きな特徴となっていましたが、当初はこの考え方がなかなか浸透せず、市町村の職員や地域の方々からは「南紀熊野体験博実行委員会)は何も考えてくれない・何もやってくれない」という不満が噴出していたとも聞きます。これについては、確かに実行委員会職員の側も手探り状態であり効果的なアドバイスや支援をするだけのノウハウを有していなかった、という側面もあったでしょうが、翻って地域の側にも「県が始めたイベントだから、県が全部お膳立てするのが当然」という意識が全く無かったという訳ではないと思います。
 こうした、ある種の「産みの苦しみ」の時期を経て、南紀熊野体験博での取り組みが地域の新たな「資源」として定着した事例は枚挙にいとまがないほどです。中でも、上記閉会式で「ジャパンエキスポ大賞」を受賞した「八咫の火祭り」は、今や地域の伝統行事としての風格さえ醸し出しているように思われます。
八咫の火祭り 公式ホームページ

 

 最後に、この閉会式でもスピーチを行った西口勇和歌山県知事(当時)のことについて触れておきたいと思います。
 このカテゴリーの最初の記事である「南紀熊野体験博パンフレット(1997.6)」の項でも触れましたが、南紀熊野体験博のアイデアは、平成7年(1995)の和歌山県知事選挙に立候補した西口勇氏(前和歌山県副知事)の選挙公約に掲げられていた「しらら博」と「熊野博」という2つのイベント計画が始まりでした。
南紀熊野体験博パンフレット(1997.6)
 やがてこれが「南紀活性化イベント(仮称)」となり、「南紀熊野体験博」となった経過については先述のとおりですが、その実現にあたっては西口知事の紀南地域活性化にかける熱い思いがあったことは、上記茶谷氏のブログを見ても理解していただけると思います。
 ところが、南紀熊野体験博が開幕したまさにその頃、西口知事は一時的に体調を崩し、十分に言葉を発することが叶わなくなりました。平成11年(1999)6月の和歌山県議会定例会において、西口知事宗正彦議員からの次期知事選挙への出馬表明を求めた質問に対して次のように答弁し、一時休養することを明らかにしました。

西口知事

(略)

 本来ならば県民の期待に沿うべくこの場で出馬の意向を表明する予定にしておりましたけれども、正直申し上げまして、本年の四月から体調を崩しておりまして、お聞きのように若干言語の障害もまだ残っております。そういうふうな状況の中で、全体の体調というのは極めて不調でありますので、それを一日も早く回復しなければ出馬ということにはならないと、そういうことを正直に申し上げさせていただくわけであります。
 それで、次期の知事選挙への出馬の意向についてはきょうは明言を避けさせていただいて、少し休養をとらせていただいて - ほとんど休みなくいっているものですから回復の暇がありませんので、少し休養をとらしていただいて、その上で再び出馬するかどうかを皆さん方にご報告申し上げたい、そういうふうに思います。
 私は今、宗議員のお話にございましたように、県下各地からいろんな要請がございまして、その人たちは本当に無欲無心で言っておられるわけでありますから、その方々のためにも何としても和歌山の将来の発展のために身を賭して頑張っていかねばならんという気持ちは今も十分持ってございます。しかし、こういうふうな状況のもとで皆さん方に十分 - 私は弁舌は最も得意とするところであったわけですが、今はそういうふうなことで少し十分ご説明できないような状況のもとにありますので - ただまた一方では、そういうふうな障害を持っているような人たちがどんなに耐えて世の中を生きておるかということを考えると、私も簡単に引き下がっては申しわけないと、そういう気持ちも一方ではあります。
 ですから、少し余裕をいただいて、また再び元気になって頑張るという、そういうことまでお待ちをいただきたいと、そういうふうに思いますので、本日のお答えになったかどうかわかりませんけれども、私の率直な気持ちを申し上げて、しかし現在まで本当に私なりには走りに走ってやってきたと、そういうことだけをひとつ申し上げさせていただいて、決意の表明にかえさせていただきたいと思います。
平成11年6月 和歌山県議会定例会会議録 第2号(宗 正彦議員の質疑及び一般質問) | 和歌山県議会

 その後、西口知事は8月初旬に公務に復帰し、上記のとおり9月19日に開催された南紀熊野体験博の閉会式にも出席することができました。また、同年10月31日に執行された和歌山県知事選挙に出馬、見事当選を果たして西口知事にとって二期目の県政がスタートしたのです。
 しかしながら、二期目の任期途中に再び体調が悪化し、翌年の平成12年(2000)7月13日をもって知事を辞職されることになりました。亡くなられたのはその14年後の平成26年(2014)ですが、晩年はずっと闘病されていたようで、多くの人々の前に姿を現されることはほとんどなかったと思われます。

 振り返れば、この南紀熊野体験博の主要テーマであった「癒し」という言葉が同年の「新語・流行語大賞」トップテンに選定され、西口知事がその受賞者として東京での表彰式に出席されたことは、知事の紀南地方活性化に向けた思いの強さ故に成し遂げられた快挙であったと言えるのではないでしょうか。