生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

子守不動

 「旧小川村の伝承」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、旧小川村(現在の紀美野町小川地区)に伝わる故事や行事に関わるものを再掲するとともに、必要に応じて注釈などを追加していきます。

 

 今回は「子守不動(こもりふどう)」を紹介します。

 

 

 子守不動は現在の紀美野町坂本地区の小さな谷川の脇にある祠で、かつてはこの前の小道が坂本地区梅本地区とを結ぶ間道となっていました(現在はややルートを変えて林道が整備されています)。この位置関係が子守不動の伝承と深く関わっているのです。

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子守不動

 天正年間(1580年頃)、現在の紀美野町梅本地区に居を構えていた興津権之丞という豪族が、織田信長に密通していたとして高野山の命を受けた河野氏に謀殺された。  この時、子守の女権之丞の子供を連れて山道を逃げ落ち、坂本地区にあるこの場所で隠れ住んだという。ここは現在も「子守不動」と呼ばれる祠が祀られており、地名にも「子守(こうもり)」の名が残っている。  

 

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 興津権之丞(おきつ ごんのじょう)は、現在の紀美野町小川地区(小川小学校付近とされる)に居館を構えていたとされる同地の豪族です。権之丞については、別カテゴリーの「紀州 民話の旅」にある「興津権之丞」の項で詳しく解説していますので詳細は省きますが、同項でも引用している「野上町誌」の記述をここでも紹介しておきます。

興津権之丞 ~野上町(現紀美野町)奥佐々~ - 生石高原の麓から

 『紀伊風土記』(五)「那賀郡小川荘梅本村」の項にいわく「古、此村に興津権之丞といふものあり、二心を懐きて織田信長に内応せしに依りて、天正16年河野秀道に命して戮せしむ、今にその屋敷跡あり」とある。金剛峯寺総分教栄木食興山上人応其連名にて、天正17年(1589)正月27日付で神野修理之丞宛に感状を与えている。それによると「天正9年織田信長高野攻めのみぎり、高野山に対しての忠勤あさからず、今また野心を抱いた者に対して、即時成敗あるべきところ、父子7人残らず討果した才覚は誠に御手柄御忠節あさからず。先年(天正9年)といい当時(天正16年)といい、まことに感嘆の至りである。今後諸公事免許、当時のかかり米これまた差置くと共に、青銅千疋を与え心底から其忠節に報いるものである」と述べている。

 

 子守不動は、子供の安全と幸福を守ると伝えられており、毎年2月にはこれを祈願した餅まきが行われていました。現在は地域住民の高齢化により餅まきは行われなくなってしまいましたが、「子守の不動さん」は引き続き地域住民により祀られ続けています。

 

 なお、地元ではずっと「不動さん」と呼び習わされていますが、旧野上町が編纂した「野上町史」の「町内の祠堂」の項には「子守地蔵」として記録されています。たしかに、子供を守り導くというご利益や、その祀られる姿を見るとお地蔵さんのようにも見えますが、よく見ると明らかな憤怒相ではないものの刀を手にしているように見えることから、やはり「不動明王」のお姿であると考えるのが良いのではないかと思います。


 次項ではかつての「不動さんの餅まき」の様子を紹介します。