生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

小川八幡神社と大般若経

 「旧小川村の伝承」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、旧小川村(現在の紀美野町小川地区)に伝わる故事や行事に関わるものを再掲するとともに、必要に応じて注釈などを追加していきます。

 

 今回は、旧小川村の氏神である小川八幡神社と、そこに保管されていた大般若経の紹介です。

 「大般若経(だいはんにゃきょう 正式には「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)」)」とは、中国・唐の時代の高僧・玄奘(げんじょう)がインドから唐へ持ち帰った大乗仏教の主要な経典をまとめて漢訳したもので、全部で600巻にわたる膨大な経典集です。
 玄奘が経典を求めて西域中央アジアからインドにわたるシルクロード沿いの諸国)を歴訪した際の記録は「大唐西域記」として書物にまとめられましたが、これをベースに完全なフィクションとして描かれた一大伝奇小説が「西遊記」です。西遊記では、三蔵法師孫悟空猪八戒沙悟浄を供に従えて天竺(インド)への旅に出ますが、この三蔵法師のモデルが玄奘であり、天竺から持ち帰ったありがたいお経を漢語に翻訳したものが「大般若経」なのです。
大般若波羅蜜多経 - Wikipedia
西遊記 - Wikipedia

 

 そのあたりを踏まえて後段の解説を読んでいただくと、かつてこの地域の人々が大般若経全六百巻を揃えるために大変な労力を費やしたであろうことの意味が理解いただけるのではないかと思います。

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小川八幡神社大般若経

 

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 旧小川村(現在の紀美野町南部、生石山の麓にあたる地区)の「村の鎮守」。言わずと知れた我が氏神さま(^_^)。

 創建時期等は不明だが、「小川村是」によれば10世紀に生石山の「生石神社」を勧進するとともに、石清水八幡宮からも八幡宮を勧請したことが記録に残されている。

 この神社地内にあった神宮寺(大正3年に廃寺)には、全600巻の「大般若経」が代々伝えられてきた。研究によれば、この経文は正平18年(1363年)に小川村坂本の住人である宗達篋実の二人が100巻を納めて以来、文明四年(1472年)に完成するまで100年以上の歳月をかけて収集されたものであると考えられている。また、このうち100巻あまりは奈良時代後期(八世紀半ば)のものであると認められており、学術的にも貴重な資料である。神宮寺廃寺後は旧小川村の5地区で1年交代によりこの経典を保管してきた。一般の人の目に触れるのは毎年7月26日に開催される「般若会」の時だけである。

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 小川八幡神社は小川庄の氏神誉田別命(ほんたわけの みこと 応神天皇玉依姫命(たまよりひめの みこと 神武天皇の母)和気長足姫尊(おきながたらしひめの みこと 神功皇后応神天皇の母))の3神を主祭神としています。また、境内には生石山(おいしやま)の名の由来になったと伝えられる「生石神社(しょうせきじんじゃ)」を勧請した「生石社」も祀られています。この神社について、旧野上町が編纂した「野上町誌」では次のように解説されています。

由緒沿革
 『小川八幡神社所蔵文書』によれば、「欽明天皇の御宇(540~570)宇津尊嶋より大和ノ国比木嶺に移り給い、それより紀伊の国名草郡辺に移り給う、其後紀伊の国生石山の麓下、小川に宮造する云々」とある。「その後、一条院の御宇(987~1010)石清水八幡宮の別宮となり、放生会その他の神事は石清水の社例に准ず」とある。
 これとは別に、永祚元(989)年2月卯の日に、阿互川(あぜがわ)(清水町楠本)に鎮座する生石神社(天慶3年「940」創建)を勧請して、小川庄の氏神とした。このことを「小川村是」に「有田郡阿互川庄楠本に御座給ふ生石神社を、永祚元己丑年二月卯の日勧請し奉り、此宮地に陳座すと同時に八幡宮石清水八幡宮別宮と勧請し奉りし事の由なり」として、別宮としての勧請と生石神社の勧請を同時にしたとしている。
(以下略)

 

 同社ゆかりの大般若経は、昭和35年(1960)に坂本地区の薬師寺で保管されていた際に地元の県立大成高等学校郷土部により初めて調査が行われましたが、当時は関係者の要望により詳細な調査は行われませんでした。その後、昭和53年(1978)になって関西大学文学部の薗田香融氏が正式な学術調査を行った結果、最古のものは天平年間(729 - 749)に遡るなど歴史的・学術的に極めて価値の高いものであることが判明し、その内容が論文として公表されました薗田香融 「和歌山県小川旧庄五区共同保管大般若経について」(『古代史の研究』創刊号、1978年))
 この経は、もともとは小川八幡神社にあった神宮寺(神社に附属する仏教寺院)所蔵のものであり、地区内の各集落が持ち回りで管理し、転読(経典をパラパラとめくり広げることで全巻を読み上げたものとみなす行事)などの行事を行っていたものと考えられていますが、上記の記事を書いた平成中期(2000年頃)には小川八幡神社が保管、管理を行うようになっていました。
 こうした経緯について、旧野上町が編纂した「野上町誌」には次のように記載されています。

第三章 小川八幡宮大般若経六百巻
第一節 発見の動機とその経過
 県立大成高等学校郷土部のクラブ活動として、野上地域の文化財の調査を実施した。西川泰寿君等とともに、昭和35年8月、野上町坂本(旧小川荘)薬師寺で、お堂の隅に五つの経櫃(びつ)に入った写経を発見し、早速その一部を調査することができた。写経は大般若経六百巻天平(奈良後期)をはじめ、各時代・各地域のものが含まれ貴重な史料であることを知った。日を経て、小川八幡宮に調査の許可を得るために伺った所「写経は所属が不明なので明確になるまで調査及び発表をさし控えてほしい」との話なので調査を後日に期して一応終った。
 このように神社に写経があるのは我が国では古くより本地垂迹といって、仏が日本を教化するために迹(あと)を垂(た)れ給うたのが、日本の神であって、仏の化身が神であるという考え方から神仏一体、神仏習合の思想が盛んとなった。当地域も神社の境内に寺院がつくられた。これが神宮寺である。そして神前で読経することが仏力を増進し、神威を発揮させるものと考えられ神社の法楽経(法悦経)として大般若経が使われるようになった。しかし後になって明治維新の王政復古の運動として、明治元年神仏分離令廃仏毀釈が起こり、明治の中ごろには、神宮寺は衰退して廃墟となり、多くの文化財が破壊されるに至ったのである。
 小川八幡神社社地内にあった神宮寺山号応神山)大正3年廃寺となり、その際仏像・仏画類は旧小川庄の寺院に分配されたが、大般若経は旧小川荘(吉野・福井・中田・坂本・梅本)の五地区の共同保管となり、一年輪番で管理されていたが、戦事中のため長く坂本薬師寺に保管されていたものであり、毎年7月26日旧庄内諸寺が集まり般若会をいとなみ、勤行が終ると「奉転読大般若」のお札を各戸に配った。それを串に挟んで田に刺して稲田の安全と豊穣祈願の習慣や、各戸の玄関に貼って災害を防ぐ手段とした。この大般若経六百巻の蒐集は信徒の浄財によって六百巻が完結され保管されて来たものであることが判った。
 その後信徒の依頼により、関西大学薗田教授が調査され、写経の所属問題が争われて大きく新聞紙上を賑わした。前述の約束はあったが、既に公表されたので機会をみて写経六百巻全巻を調査することとなった。

(中略)

第三節 結び
 以上の各項目で解説を試みたが、これを再び整理すれば、三毛寺書写の天平(筆者注:天平時代に三毛寺(現在の和歌山三毛にあったとされる寺、「日本霊異記」に登場することで知られる)で写経されたもので、現存するものは104巻)は他の写経に見られるような時代の降った別筆による奥書が、ほとんど見出せないことは、あるいは勧進篋実大般若経勧進を始めた正平18年(1363)以前に既に、小川八幡宮三毛寺より譲り受けたものとも考えられる。もちろんその時期については不明であるが、三毛寺が衰退した時期である事は言うまでもない。近くの小川八幡宮に譲り渡す時に、地名・人名等を墨で塗り潰したものであろう。この考え方が正しいものなれば、この三毛寺の約百巻の写経を見て、勧進篋実と阪本の住人宗達の秘計によって、正平18年(1363)、更に高野山大楽院より百巻が施入されたが、なお四百巻の不足があり、更に高野聖集団によって、写経の執筆及び古い写経の聚集の寄進を受け、一応、応永29年(1422)に、ほぼ六百巻が整備され、経櫃及び内箱もでき上ったが、その後更に文明4年(1472)に不備な部分の補修や、表裏表紙の新しい表装が根来寺西方院にてなされ、ここに大般若経六百巻が完成したものであると考えられ、本旧小川八幡宮大般若経六百巻は、三毛寺の天平経をはじめ、高野山その他各地域の各時代の写経が、約110年以上をかけて、地元小川荘民の長い完成への願いと、それに応えた高野山を中心とする聖集団の協力によって六百巻が完結したもので、この写経に寄せる小川荘民の信仰が、明治以降の神仏分離令の後も、仏像・仏画は当地域の各寺院に売却されたが、大般若経のみ、当荘の各字の共同管理の形で現在に至っている意味が理解されると思われる。これはまた荘民の各層にまで長い信仰を集めたものは、大般若経の功徳と願主(寄進者)の祖先供養と極楽往生の願いと、住民の豊作の祈願・豊かな生活への願望が、その根本にあったことである。

(以下略)

 この町誌が発行されたのは昭和60年(1985)のことでしたが、当時は上記引用文でも触れられていた写経の所属問題(かつて輪番制で経典を保管していた地区の住民と、当時実際に経典を保管していた神社との間で所有権を巡る争いが生じ、裁判にまで発展した)がこじれており、なかなか詳細な調査が行えない状況でした。後に和解が成立して、経典は引き続き小川八幡神社で保管することとして地区住民による祭事等が再開されたものの、関係者の高齢化等を理由に平成31年(2019)から和歌山県立博物館に寄託されることとなったため、これを契機として本格的な調査が行われるようになったのだそうです。こうした経緯については、有田・海南地方で発行されているフリーペーパー「アリカイナ(Arikaina)」の2019年6号に次のような記事が掲載されています。

紀美野町・小川八幡神社大般若経 東大が本格的な調査を開始へ
 生石高原の山麓紀美野町の小川八幡神社に伝わる「大般若経」。
 奈良時代に端を発するとされる全600巻という膨大な経典が県立博物館で保管されることになり、本格的な調査が開始されました。
 調査にあたる東京大学の山口教授は「重要文化財・国宝級の価値がある」と話しています。

 「大般若経」は西遊記で知られる三蔵法師がインドから中国に伝えた経典で、全600巻にも及ぶ膨大なもの。
 日本でも全国各地の寺院に伝わっており、お経の一部を読み上げ、風通しをかねてお経を空中に広げたりする「転読(てんどく)」という行事で知られています。
 小川八幡神社でも毎年7月に転読と、お札を刷って配布する行事が続けられてきました。

 

"幻の寺"の写経に『秘計』
謎の多い成立過程
 昭和53年から関西大学教授の薗田香融さんによってこの大般若経の調査が行われ、奈良時代室町時代まで、実に800年あまりの歳月をかけて収集・補充されていたことや、「日本霊異記」に記述がありながら現存せず"幻の寺"と呼ばれている三毛寺(みけでら)で写経されたものを含んでいること、などが分かりました。
 どのような経緯で今の姿になったかは謎に包まれている部分が多く、薗田さんの著書には「地元の人が『秘計』をめぐらし、高野山から不足している巻を入手した」といった記述もあります。
 学界では長らく本格的な調査が待たれていましたが、今年2月、大般若経が県立博物館で保管されることになり、これにともない、今年から3年間かけて東京大学などによる調査が行われることになりました。
 担当する東大教授の山口英男さんは本紙の取材に「日本最古級の大般若経であり、(国宝や重要文化財に指定されている)ほかの大般若経にも匹敵する価値がある」と答えています。

 

地域で伝えられてきたことに価値がある
 今回の調査では資料の整理や赤外線撮影が行われる予定で、今まで判読できなかった部分が解読できるようになることも期待されています。
山口教授は「長い歴史の時間を通じて地域で大切にされ、伝えられてきたことに大きな価値がある」と話しており、今後は調査を進めるとともに、地元での講演会も予定されているとのことです。

Arikaina - 2019/6 記事一覧

 

 上記記事の中で、薗田氏がその著書において地元の人が経典入手のために「秘計」をめぐらしたと書いているとありますが、これについては原典未確認であるものの、前述の野上町誌によれば当該大般若経の533巻に次のような奥書があることから、この記述を指していると思われます。

巻五三三
(別紙別筆)
此経依散失 自高野山大楽院百巻奉
施入内也 此御経之秘計 当庄坂本住人
宗達 篋実 奉施入之所也
正平十八年(1363)十月十日 篋実

(読み下し)
此の経 散失により 高野山 大楽院より百巻奉る
此の御経 秘計により入内せしもの也
当庄 坂本の住人 宗達 篋実 施入奉るところ也
※読み下しは筆者によるものです

 

 上記の記事で紹介されている調査については、東京大学史料編纂所のWebサイトにも情報が掲載されており、上述の山口英男教授を研究代表者とし、「小川八幡神社大般若経の文化資源化研究」という名称で、2019年度から2021年度までの3年間をかけて調査が行われる予定となっているようです。

研究の概要
(1)課題の概要
 和歌山県紀美野町小川八幡神社が所蔵する大般若経は、全600巻(現状は折本600帖)が現存し、約120巻の奈良時代写経、約380巻の平安時代写経を含み、1978年に学界に紹介されて以来、古代の文化史・地域史等に豊かな情報を提供する研究対象として注目され、本格的な研究利用のための詳細な原本調査が待たれていた史料群である。今般、関係諸方面の尽力によって環境が整い、本格調査の実施が可能となったことから、小川八幡大般若経全点の原本調査、赤外線撮影を含めたデジタル写真撮影、既存調査データの収集・整理等を行い、その成果を公表し学術資源化するとともに、小川八幡大般若経の成立・変遷・伝来等をめぐる多面的な研究を進展させ、その文化的価値を広く発信することを通じて地域・社会への研究成果還元をはかるものである。

研究課題 小川八幡神社大般若経の文化資源化研究 -東京大学史料編纂所

 

 

追記
上記の経緯により行われることになった和歌山県立博物館東京大学による調査研究の成果については、令和4(2022) 年4月23日(土)から6月5日(日)までの間、同博物館の特別展「きのくにの大般若経-わざわいをはらう経典-」として公開されることとなりました。
特別展「きのくにの大般若経-わざわいをはらう経典-」 | 和歌山県立博物館

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 この展示に際して発行された図録「特別展 きのくにの大般若経 -わざわいをはらう経典-(令和4年(2022)4月23日 和歌山県立博物館)」によれば、県内には少なくとも170組程度の大般若経が所在しているとされますが、小川八幡神社大般若経については次のように解説がなされており、中でも特に貴重なものであると言えそうです。

小川八幡神社大般若経

 版本(筆者注:木版により印刷された書物)は一切含まれておらず、全てが書写経(筆者注:手書きで書き写された経)であるが、その構成はきわめて複雑である。年代的には、奈良時代120帖、平安時代355帖、鎌倉時代55帖、南北朝時代52帖、室町時代15帖に分類される。
(略)
 小川八幡神社経は、奈良時代から室町時代に至る各時代の経巻が地域の住民や媒介する人々の手によって取り合わされ、また室町時代以降、一巻も失われることなく、現在まで伝来してきた貴重な大般若経で、その構成はきわめて複雑であるが、県内の村落に残された大般若経の事例として、非常に価値が高いものと考えられる。