「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。
今回の記事は1998年4月に鈴鹿サーキットで開催された「フォーミュラ・ニッポン 第1戦」の話題です。
フォーミュラ・ニッポン(FN、一般には「エフポン」という呼び方の方が定着していたようですが)というレースについては過去の記事でも何回か紹介していますが、F1とよく似た車体に排気量3,000ccのV型8気筒エンジンを搭載したマシンで争われるレースで、日本国内での最高峰のレースとして位置づけられていました(現在はスーパーフォーミュラと名称を変更)。
当初は、F1の一階級下のカテゴリーとして位置づけられていた国際F3000選手権が参戦コスト削減のために車体・エンジン・タイヤを共通のものとするワンメイク化をしたのに対し、FNではこれらを原則自由としたために各メーカー間の競争が促進されるものと期待されていましたが、日本国内でも環境は厳しく、結果的に1997年からはタイヤがブリヂストンのワンメイクとなり、1998年にはエンジンも無限(ホンダ系)一社での供給となってしまいました。
車体(シャシー)に関しては、この年はまだローラ製(T95,T96,T97,T98)、レイナード製(94D,95D,96D,97D,98D)と複数のバリエーションがあったのですが、これも1999年からはローラ、レイナード、Gフォースの3社が供給する専用マシンのみを使用することとなり、2003年以降はローラ社製のワンメイクとなります。
フォーミュラ・ニッポン - Wikipedia
ドライバーについては、この前年までフォーミュラ・ニッポンに参戦していた高木虎之介がF1ティレルチームのレギュラードライバーの座を獲得したことからこの年のファンの注目は「誰がトラの後を追ってF1への道を拓くのか」という点に集中しましたが、後段で紹介するように、残念ながらこの年以降日本人F1ドライバー誕生の道は一段と険しくなっていくのです。
こうした背景を踏まえて下記の記事をご覧ください。
AUTOBACS CUP
全日本選手権フォーミュラ・ニッポン第1戦
FORMURA NIPPON ROUND1 SUZUKA CIRCUIT
涙、涙の兄弟1-2フィニッシュ!!
3月の全日本GT選手権に続いて、今月はフォーミュラ・ニッポンが開幕しました。F3000と呼ばれていた時代から、この日本のトップ・フォーミュラのシリーズにはエディ・アーバイン、ハインツ・ハラルド・フレンツェン、ミカ・サロ、ラルフ・シューマッハなどF1の世界で大活躍している海外有力ドライバーが参戦経験を持っており、今や「世界で最もF1に近いカテゴリー」であるという評価が固まりつつあります。
今年のフォーミュラ・ニッポンは、昨年のチャンピオンであるペドロ・デ・ラ・ロサがF1のジョーダン・無限ホンダのテストドライバー兼リザーブドライバーに転身し、また、日本人最速と言われた高木虎之介がティレル・フォードのレギュラードライバーとなったことに端を発し、例年になく大幅なドライバーとチームの変更が行われました。
今年の注目は、なんといっても若手の台頭が一番に挙げられるでしょう。2年目を迎える山西康司(PIAA中嶋)、脇坂寿一(Autobacs Racing Team Aguri)、本山哲(LEMONed Le Mans)に加えて、初めてのフル参戦となる脇坂薫一(5ZIGEN)、道上龍(JACCS MOONCRAFT)らは、それぞれが時としてベテランを上回るほどの速さをみせるドライバーであり、状況次第では十分に優勝をねらえる実力の持ち主ばかりなのです。
これに、今やベテランの域に達した黒澤琢弥、影山正彦のチーム・インパルコンビや、ARTAの金石勝智、そしてアメリカのインディ・ライツからカムバック参戦を果たした野田英樹(COSMO OIL CERUMO)などの有力日本人ドライバーと、F1でも十分に通用する実力を持つノルベルト・フォンタナ(LEMONed Le Mans)、ラルフ・ファーマン(SHIONOGI NOVA)、昨年のマカオF3の優勝者トム・コロネル(PIAA中嶋)など、本当に「誰が勝ってもおかしくない」という形容が全く誇張なしに使えるほど、レース前から大混戦が予想されていました。
この混戦模様に輪をかけたのが、4月18日の土曜日に開催された予選でした。豪雨の中で開催されたこの予選では脇坂寿一がトップタイムをマークしたものの、予選トップ6台で争われるスペシャル・ステージでは視界不良のためタイム計測を断念したことにより、決勝の出走順は5位となってしまいました。そして、予選で最も遅かったラルフ・ファーマンが結果的にポール・ポジションを獲得することになったのです。
そして迎えた日曜日の決勝。ポールのファーマンは、スタートで大失敗を犯し、コース脇の芝生に飛び出してしまいます。さらに、期待の脇坂寿一がエンストでストップ、かろうじて再スタートしたものの、最下位にドロップしてしまいました。
序盤をリードしたのはノルベルト・フォンタナ。しかし、セッティングが十分でなかったのか、思うようにスピードが乗りません。それを追い上げたのが、影山正彦。影山は、フォンタナを猛烈に追い回し、3周目の130Rで強引に外側からパスします。さらに、3位につけていた影山正美(SHIONOGI NOVA)もフォンタナを抜き去り、これで日本のトップフォーミュラ史上初の兄弟による1-2体制が作られたのです。
正美は、途中でスピンするという大きなミスを犯しましたが、コースアウトはかろうじて免れ、すぐに体勢を立て直して兄を追い続けることができました。結局、トップ3台はこのままの順位でゴール。影山正彦は34歳にして初の優勝を兄弟による1-2フィニッシュで飾りました。
順位 | ドライバー | チーム マシン |
1位 | 影 山 正 彦 | MAZIORA IMPUL ローラT96-52無限 |
2位 | 影 山 正 美 | SHIONOGI NOVA ローラT97-51無限 |
3位 | ノルベルト・フォンタナ | LEMONed Le Mans レイナード97D無限 |
スタートの一瞬。ポールのファーマン(右端、黄色のマシン)は痛恨のコースアウト。また、後方では脇坂寿一(2台並んだオレンジ色のマシン内側)がエンジンストップによりスタートできず。
両者ともレースには復帰したものの、最初から大きなハンディを抱えることになってしまいました。
結果としては影山兄弟の活躍の方が大きく取り上げられることになりましたが、今日のレース前半の主役はなんといっても脇坂寿一の激しい走りでした。
スタート時のエンジンストップで最下位にドロップした寿一ですが、その後の追い上げはまさに鬼神の如しで、前走車をかき分けかき分けしながらあっと言う間に上位へ躍り出、20周目には4位へ浮上。3位を行くフォンタナがすぐそこに手の届くところまでやってきました。
しかし、フォンタナに迫ろうとした21周目のヘアピンコーナーで、ブレーキングのミスから寿一はコースアウト。「最下位から表彰台」は残念ながら夢に終わってしまいました。
リタイヤに終わったとはいえ、これまでの日本人には見られなかったほどの切れ味鋭い走りに、観客の多くは寿一の「その先」へ向けて大きな期待を膨らませることとなりました。所属するARTAのスカラシップでF1(ジョーダン無限ホンダ)のテストドライブを行っていることが、寿一の才能を開花させたのでしょうか。
正面から見れば黒、斜めから見れば青、横から見れば緑、光を反射すれば金色、というふうに見る角度によって様々な色に変化する不思議な塗料はチームインパルのスポンサーである日本ペイントの「MAZIORA マジョーラ」という商品だそうです。
このカラーに守られたのか、影山正彦はフォンタナを抜いて以降、全く危なげのない走りをみせて完璧な勝利を挙げました。「チームのみんなが泣いていましたね」というインタビューに、「自分が一番たくさん泣いていたでしょう」と答えた正彦。トップフォーミュラ参戦8年目の初勝利は本人にとって感無量のものがあったようです。
フォーミュラ・ニッポンには初登場の野田英樹ですが、そのレースキャリアは長く、1988年には既にF3デビューを果たしています。しかしながら、その後、ヨーロッパへ渡り、フォーミュラ・ポグゾール・ロータスや英国F3にも挑戦、全日本F3000や国際F3000への参戦を経て、1994年にはラルースチームからF1へも出場しました。しかしながら、F1の世界に定着することはできず、昨年はアメリカへ渡り、インディライツシリーズへ挑戦し、このカテゴリーで日本人として初めての優勝を飾りました。
紆余曲折を経てここに至った野田英樹ですが、今年はセルモという屈指の実力を有するチームに加入したことによって、全日本チャンピオンの座が、そして、さらにその先にあるF1のレギュラーシート獲得の夢が、ついに手の届くところまで来たというところでしょうか。
この日のレースでは、黒澤琢弥と接触し、リタイヤに追い込むという場面もありましたが、非常にアグレッシブな走りで上位に進出、金石に次いで5位の座を獲得し、久々の国内レースでも十分に通用する実力を見せました。レース後のインタビューでも、「チャンピオンを狙うためにはまず完走してポイントを取ることが大事だから」と答えており、今シーズンの更なる活躍が期待されます。
昨年、全日本F3選手権に参戦し、出場した8戦のうち6戦に優勝、2位が1回と圧倒的な強さを見せたのがトム・コロネル(オランダ)。さらに、F3世界一決定戦とも言える昨年のマカオ・マールボロ・マスターズでも優勝するなどその実力は誰一人疑うもののないドライバーです。
今回のレースでは予選を失敗して15位からのスタート。10周目には8位まで上がりましたが、第1コーナーで痛恨のコースアウトを喫してしまいます。しかし、トムが非凡な才能を見せたのはそこからで、冷静にマシンを芝生の方向にコントロールし、なんとかコースに復帰しました。その後、ピットインして大幅に順位を落としたものの、ファステストラップを記録する激しい走りを見せて、8位まで順位を回復してレースを終えました。
チームメイトの山西も18位スタートから10位まで上昇したところで突然のエンジンストップに見舞われ、あっけなくレースを終えるなど、PIAA NAKAJIMAチームにとっては散々な週末となってしまいました。
優勝 影山正彦、2位 影山正美、3位 ノルベルト・フォンタナという表彰台の顔ぶれ。影山正美は3月の全日本GT選手権でもスカイラインGT-Rを駆って優勝を果たし、2戦連続の表彰台ゲットです。
また、3位に入ったノルベルト・フォンタナも、マシンのセットアップを十分に煮詰められなかった状態で、金石や野田らの追撃を振り切って表彰台を獲得できたことに満足そうな表情を浮かべていました。
Today's Topics
表彰式終了後、観客席前でテレビのインタビューを待つ影山正彦(右、グレーのレーシングスーツ)と影山正美(左、黄色のレーシングスーツ)の影山ブラザース。
正彦は、これまで実力は高く評価されており、トップフォーミュラでの優勝が無かったのが不思議なくらいでした。正美は、昨年まで横浜タイヤの契約ドライバーということからブリヂストンタイヤのワンメイクで行われるフォーミュラ・ニッポンでは必ずしも恵まれた体制で戦うことができませんでしたが、今年からは日本有数の実力派チームであるチーム・ル・マンに移籍したことによってその秘められた実力を大きく開花させることになりました。
インタビュー後、観客席に来ていた両親を呼び、報道陣に記念撮影をしてもらっていた場面が印象的でした。昔はいわゆる「走り屋」の一員であったという過去もあるようですが、見事に親孝行を果たしたと言えるでしょう。
田中哲也、石川朗という中堅どころのドライバーを擁して参戦する BE BRIDES レーシングチームの監督を務めるのが俳優の岩城滉一です。昨年までは舘ひろし監督率いるナビコネクションレーシングチームが異彩を放っていましたが、今年は代わって岩城滉一が監督として登場です。
とはいえ、岩城滉一自身も過去に富士グランチャン(GC)レースやF3000レースに参戦した経験を有する本物のレーシングドライバーであり、チームイワキとして若手ドライバーを育成していた経歴もあることから、単なる客寄せのための芸能人監督ではないということは認識しておかなければならないでしょう。
チームとしては、残念ながら田中哲也、石川朗ともにリタイヤということになってしまいました。2人とも上位に食い込めるだけの実力を有するドライバーだけに、今後の活躍に期待したいところです。
本文にもあるように、この年、1998年に高木虎之介がティレルチームからF1にデビューし、その後も今回のレースに出場した脇阪寿一、山西康司、本山哲、道上龍らの俊英が虎視眈々とF1進出の機会を狙っていました。
しかしながら、日本経済の長期低迷や、中嶋悟、鈴木亜久里、片山右京などの魅力的なスター不在によるモータースポーツ人気の下落傾向などにより、日本人ドライバーのF1進出はこの後から大きくスローダウンしていきます。結果的に、高木虎之介(1998年デビュー)の次にF1ドライバーとなったのが、日本でのレース経験をほとんど持たない佐藤琢磨(2002年ジョーダン・ホンダからデビュー)であったことは大変皮肉な出来事だと言えるでしょう。(佐藤琢磨の国内レースについては「’98全日本GT選手権第1戦 鈴鹿GT 300Km(1998.3.22)」の後段参照)
本文の最後で紹介している岩城滉一氏について、ネットでは同氏のレーシングキャリアについて否定的な意見がしばしば見られますが、なかかなどうして、アマチュアドライバーとしては決して侮れない活躍をされたと思います。日本自動車連盟(JAF)のWebサイトではJAF公認競技結果の検索が可能ですので、これを参照して岩城氏の戦績をまとめてみました。
国内競技結果(リザルト)検索 | JAFモータースポーツ
全日本富士1000km (A) | 1980.7.27 | リタイヤ ※ |
全日本富士1000km (B) | 1982.7.25 | リタイヤ ※ |
全日本富士500km (A) | 1983.6.5 | クラス8位 ※ |
全日本富士1000km (A) | 1983.7.24 | 12位 ※ |
インターナショナル鈴鹿1000km (B) | 1983.8.27~28 | クラス2位 ※ |
全日本富士500mile (A) | 1983.11.27 | リタイヤ ※ |
RRC筑波チャンピオンレース (A) | 1984.7.1 | クラス5位 ※ |
世界耐久選手権日本大会 WEC (C2) | 1984.9.30 | リタイヤ ※ |
全日本500mile (D) | 1984.11.25 | リタイヤ ※ |
全日本ツーリングカー選手権第1戦 (1) | 1985.6.1~2 | クラス3位 ※ |
レース・ド・ニッポン筑波グループA (2) | 1985.6.16 | クラス3位 ※ |
ビッグサマー全日本ツーリングカー選手権 (2) | 1985.8.4 | クラス1位 ※ |
鈴鹿300km (2) | 1985.10.13 | リタイヤ ※ |
インターTEC グループA (2) | 1985.11.9~10 | リタイヤ ※ |
日本インターナショナルフォーミュラ選手権 JAF F3 | 1986.4.19~20 | 19位 |
JPSトロフィーレース F3チャンピオン | 1986.5.24~25 | リタイヤ |
筑波チャレンヂカップレース第4戦 F3 | 1986.6.28~29 | 14位 |
レース・オブ・フォーミュラジャパン F3 | 1986.8.3 | リタイヤ |
レース・ド・ニッポン筑波 全日本F3 | 1986.8.31 | 13位 |
レース・ド・ニッポン筑波 グループA (3) | 1986.8.31 | クラス9位 ※ |
ハイランド ツーリングカー300km (3) | 1986.9.20~21 | クラス7位 ※ |
鈴鹿グレート20 2&4レース F3 | 1986.9.27~28 | 18位 |
JAF鈴鹿GP F3チャンピオン | 1986.11.1~2 | 24位 |
インターTEC グループA (3) | 1986.11.8~9 | リタイヤ ※ |
SUGO日本F3選手権 F3 | 1987.6.13~14 | リタイヤ |
ハイランド日本F3選手権 F-3 | 1987.7.11~12 | 16位 |
レースオブフォーミュラジャパン F3 | 1987.8.1~2 | リタイヤ |
レース・ド・ニッポン筑波 全日本F3 | 1987.8.29~30 | 16位 |
鈴鹿グレート20ドライバーズ F3 | 1987.9.12~13 | 14位 |
スーパーファイナルラウンド IN SUZUKA F3 | 1987.12.5~6 | 15位 |
富士スーパースピードレース GC | 1988.3.26~27 | リタイヤ |
富士グランスピードレース GC | 1988.5.14~15 | 15位 |
富士インタースピードレース GC | 1988.6.25~26 | リタイヤ |
富士マスターズスピードレース GC | 1988.9.3~4 | リタイヤ |
ミリオンカードカップレース2&4鈴鹿 F3000 | 1990.3.3~4 | 予選不通過 |
日本インターナショナルフォーミュラ F3000 | 1990.4.14~15 | リタイヤ |
日本信販スーパーカップRd.1 西日本オールスター F3000 | 1990.5.12~13 | 予選不通過 |
ミリオンカードカップレースRd.2 鈴鹿 F3000 | 1990.5.26~27 | 予選不通過 |
日本信販スーパーカップRd.2 SUGOインター F3000 | 1990.7.28~29 | 予選不通過 |
日本信販スーパーカップRd.3 富士チャンピオンズ F3000 | 1990.8.11~12 | 予選不通過 |
日本信販スーパーカップRd.4 富士インター F3000 | 1990.9.1~2 | 予選不通過 |
ミリオンカードカップレース Rd.3 鈴鹿 F3000 | 1990.9.22~23 | 予選不通過 |
日本信販スーパーカップRd.5 富士ファイナル F3000 | 1990.10.27~28 | 予選不通過 |
ミリオンカードカップレース ファイナルラウンド鈴鹿 F3000 | 1990.11.17~18 | 予選不通過 |
ミリオンカードカップレース2&4鈴鹿 F3000 | 1991.3.2~3 | 予選不通過 |
注1:レース名の後の( )書きはクラス分けの記号を示す
注2:結果欄の※印は他のドライバーと交代しながら参加したレースを示す
これを見ると1980年にいわゆる「ハコ」のレース(当時の使用車両はKB110型ニッサン・サニー)でレースデビューし、その後、徐々に経験を積みながら国際格式のレース(WEC、インターTECなど)にも参加して、遂に1986年からF3レースに出場を果たしています。F3レースはしばしば「F1への登竜門」と称されて、F1を目指すギラギラした若者が集まるシリーズだと思われがちですが、この当時のF3レースは個人でもスポンサーを集めて資金を工面すればぎりぎり参戦することが可能な「アマチュアドライバーの最高峰レース」としての側面も有していました。
ちなみに、この年に岩城氏と同じくF3に参戦していた篠田フミ子(篠田富美子)さんは、現在アマチュアゴルフの世界で大活躍されているようです。
[2016]中部女子シニア・女子グランドシニア 成績・記事・インタビュー掲載 : 中部ゴルフ連盟
こうしたことを考えると、岩城氏のF3における戦績は、たしかにそれほど際立ったものであるとは言えないものの、アマチュアドライバーとしては相当に高いレベルにあったものと考えることができます。
1988年に参戦した富士グラン・チャンピオン(GC)シリーズ、及び1990年~91年に参戦した全日本F3000シリーズは、いずれも名実ともに日本のモータースポーツの最高峰と言えるシリーズであり、我が国トップレベルのプロレーサーがしのぎを削る戦いを繰り広げる舞台ですので、岩城氏のようなアマチュアドライバーがここで十分な実績を挙げられなかったというのはある意味仕方のないことではあったのでしょう。