「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。
今回の記事は1999年4月に鈴鹿サーキットで開催された「フォーミュラ・ニッポン第1戦」の話題です。
これ以後は鈴鹿サーキットへ頻繁に通うことが難しくなったので、回顧録としてはこれが最後の記事となります。
これまでもたびたび紹介していますが、フォーミュラ・ニッポン(FN、一般には「エフポン」という呼び方の方が定着していたようですが)はF1とよく似た車体に排気量3,000ccのV型8気筒エンジンを搭載したマシンで争われるレースで、当時は日本国内での最高峰のレースとして位置づけられていました(現在はスーパーフォーミュラと名称を変更)。
SUPER FORMULA Official Website | スーパーフォーミュラ公式サイト | SUPER FORMULA Official Website
かつては、このレース(前身の全日本F3000選手権を含む)を足がかりとしてF1へとステップアップしていた外国人ドライバーも多数いました。中でも、1991年の全日本F3000第6戦(SUGO)に1戦だけスポット参戦し、初めてのコース・初めてのマシンで2位表彰台を獲得して強烈なパフォーマンスを見せつけた後にあっという間にF1へとステップアップしてワールドチャンピオンの座に7回も輝いたというミハエル・シューマッハの「伝説」は多くのレースファンの心に焼き付いているはずです。
今回のレースが開催された1999年になると日本の景気低迷が続いたことからモータースポーツ人気にも翳りが広がり、バブル時期のように外国人ドライバーが大挙して押し寄せるという状態はなくなりましたが、それでもF1の世界ではこの前年にデビューした高木虎之介がアロウズチームに移籍して参戦を継続、ホンダの関連会社である無限がジョーダンチームにエンジンを供給(1999年はハインツ・ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げ、コンストラクターズランキング3位を獲得)していたほか、1999年1月にトヨタがF1への参戦を発表(実際の参戦期間は2002年~2009年)するなど、依然として日本人・日本企業が一定の存在感を示していた時期でしたので、日本のトップフォーミュラから世界へ進出しようとする野望を持った若手ドライバーはまだまだたくさん居たのです。
それでは、こうした背景を踏まえて下記の記事をご覧ください。
ミリオンカードカップレース
全日本GT選手権に遅れること1か月、いよいよフォーミュラ・ニッポンが開幕しました。
エディ・アーバイン、H.H.フレンツェン、ラルフ・シューマッハ、ペドロ・デ・ラ・ロサ、高木虎之介など、現在のF1界を担って立つドライバーの多くがフォーミュラ・ニッポン(またはその前身のF3000)出身であることから、このシリーズは世界で最もF1に近いカテゴリーであるとさえ言われています。
土曜日に行われた予選では、2年前レース中の事故による負傷から見事にカムバックした光貞秀俊が自身始めてとなるポールポジションを獲得。続いてチーム移籍をきっかけにして性格がすっかり変わって明るくなったという評判の山西康司が2番手、光貞と同じチーム中嶋のトム・コロネルが3番手と、これまでにないフレッシュな顔ぶれがそろいました。
明けて決勝当日は朝からあいにくの雨。スピンやクラッシュで戦列を離れる車が多い中、驚異的なスタートで予選5位からトップにジャンプアップした本山哲がコロネル、光貞の追撃をふりきって今季まず一勝をあげました。
順位 | ドライバー | チーム マシン |
1位 | 本山 哲 | UNLIMITED Le Mans Reynard 99L/MF308 |
2位 | トム・コロネル | PIAA NAKAJIMA Reynard 99L/MF308 |
3位 | 光貞 秀俊 | PIAA NAKAJIMA Reynard 99L/MF308 |
ポールポジションをとった光貞はスタートを失敗し後退、変わってトップに浮上したのは光貞の真後ろにつけていたトム・コロネル(左側、白のマシン)。この瞬間、トムは光貞に抜き返されないよう、インコース側の守りを固めます。その時、トムの外側からすっと姿を現したのが昨年のチャンピオン本山(右側、白/黒のマシン)でした。
雨で非常に滑りやすくなっている路面を考えればほとんど無謀ともいうべき本山の突っ込みでしたが、大きくタイヤを滑らせながらトップの座を見事に奪取。その後はずっとトムとの間隔を5~10秒程度に保ちながら実に堅実な走りを見せて34周のレースを走りきりました。
今日のレースはほとんど追い抜きやバトルのない地味な展開でしたが、追いかけるコロネル、間隔を詰められればコースレコードを連発して新たなマージンを稼ぐ本山、両者に隙あらばと虎視眈々とした走りを続ける光貞と3者がそれぞれ緊迫した争いを繰り広げており、ある意味では非常に面白いレースでした。願わくば、ドライコンディションのもとでこの3者、あるいはこれに脇坂寿一、道上龍、黒沢琢弥などが加わった本気バトルを見たいものです。
本山としても、今年は国内レースで十分に実力りを見せつけ、来年にはなんとかF1のレギュラーシートを確保したいと考えている様です。今の彼の実力をもってすればF1でもおそらく通用するであろうと思われることから、是非とも頑張ってほしいものです。
混乱が心配されたスタート直後の第1コーナー入り口。案の定、多くの選手がこのコーナーの餌食になりました。写真は、インコーナー側へ突っ込んだルーベン・デルフラー(白のマシン)と野田英樹(黒いマシン)。
このほか、脇坂薫一、ドミニク・シュワガー、影山正彦らがオープニングラップで姿を消しました。終わってみれば、参加24台中ノートラブルで完走できたのは8台のみという強烈なサバイバルレースとなりました。
一昨年、ツーリングカーレースの予選中に大クラッシュを演じ、右足骨折の負傷を負った光貞秀俊。4か月間の入院を経て、昨年後半には国際F3000レースに出場して見事に復活を果たし、今年は中嶋悟率いる PIAA NAKAJIMA RACING からフォーミュラ・ニッポンに参戦することになりました。
国内復帰第1戦となった今回のレースでは、山西康司と激しい争いの末、見事にポール・ポジションを獲得。決勝ではスタートに失敗したものの、ときおり激しい雨がふる厳しいコンディションのもとで着実なマシンコントロールをみせて3位表彰台を獲得しました。
素晴らしい活躍ではありましたが、「スタートの失敗がなかったら・・・」とファンを嘆かせるレースでもありました。場内放送では、レース前から「光貞クン、金石クンはもっとスタートの練習をしっかりしましょう(^_^)」などと言われていたことでもあり、今後さらに「上」を目指すためには、スタートの克服が大きな課題であると言えるでしょう。
昨年の全日本F3選手権では10戦中8勝という驚異的な強さを見せて早々にチャンピオンを獲得し、また実質的なF3世界チャンピオン決定戦とも言われるマカオ・グランプリでも総合優勝を果たすなど、輝かしい素質の持ち主であることを証明してみせたピーター・ダンブレック。今年は、チーム・レイジュンからフォーミュラ・ニッポンにデビューしました。
予選10位からのスタートながら、決勝では着実かつ速い走りを見せて見事に4位でフィニッシュしました。これがどんなにもの凄い結果であるかということは、フォーミュラ・ニッポンを見慣れた方にはすぐに判ると思います。チーム名の「レイジュン」は元監督兼ドライバーのOSAMU(中嶋修)氏の奥さんと娘さんの名前(レイコさんとジュンコさん)からとったものであるというエピソードからもわかるように、現在フォーミュラ・ニッポンに参戦している14チームの中では、よく言えば最もアットホーム、悪く言えば最も戦闘力に劣ると思われていたチームなのです。
そのマシンで決勝4位を獲得するというのは、F1で言えばミナルディがフェラーリやマクラーレンを抜き去るのと同じようなものであると言えるでしょう。この活躍で、ピーター・ダンブレックの株はますます急上昇することになりました。もしかすると、来年の今頃はF1を走っているかもしれませんよ。
過去のレポートで何回も書いているとおり「隠れマッチファン(^^;」を自称している私としては、今年もフォーミュラ・ニッポンに近藤真彦選手が参戦してくれたことを大変嬉しく思います。
もう決して若いとは言えない年齢ですが、昨年あたりからますますキレを見せるようになったマッチは、既に押しも押されもせぬ、日本を代表するレーシングドライバーの一人になりました。今年はチーム・ミライへ移籍しましたが、参戦体制等の決定が遅れたことから十分なテストができなかったこともあり、今回はあまり輝くことはできませんでした。結果は、レース中盤にマシンが水に乗ってスピン、コースアウトしてリタイアとなってしまいました。次戦以降での活躍に期待しましょう。
今年からスタートした、「フォーミュラ・ドリーム・レース」
これは、実戦形式のレースと座学とを組み合わせて未来のF1ドライバーを養成することを目的としたレーシングスクールです。エグゼクティブ・アドバイザーに鈴木亜久里氏、ドライビングアドバイザーに金石勝智・田中哲也両氏、フィジカル・アドバイザーにスポーツ医学の権威である東京慈恵医大の遠藤陽一氏などを迎え、ブリヂストン、童夢、無限、柳河精機などのエンジニアを適宜テクニカル・アドバイザーとして招聘するという大変豪華な顔ぶれで、ドライバーとしての総合的な能力向上を図るものです。
そのお披露目となった今回の第1戦では、11名のドライバーが出場。ペースセッターとして出場した土屋武士を含めて12台がレースを行いましたが、同じマシンで走っているにもかかわらず、若手ドライバーの代表格である土屋が圧倒的な速さをみせ、17周のレース終了時には2位になった井出有治に1分以上の差をつけてしまいました。スクール受講者の11名にとってみれば、今シーズン終了時までにこの1分の差をどこまで詰めることができるのか、いきなり大きな宿題を与えられたと言えるでしょう。