生石高原の麓から

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厳出(いわで)御殿(岩出市清水)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は岩出市清水にある「厳出(いわで)御殿」跡を紹介します。

 

 岩出橋から紀の川を700mほど遡ったところ、岩出小学校のすぐ東側に「いわで御殿」という看板が掲げられた建物があります。
 ここは、平成10年(1998)から令和元年(2019)まで通所介護や介護予防通所介護などを行うデイサービスセンターとなっていましたが、令和4年からは温泉入浴施設「岩出御殿温泉 神の恵み湯」としてリニューアルオープンすることが岩出市から発表されています。
いわで御殿|岩出市

 

 上記サイトでも紹介されていますが、ここはもともと紀州徳川家の別荘が建てられていた場所で、この別荘のことを一般に「厳出(いわで)御殿」と呼んでいたと伝えられています。これに関する上記サイトの解説文を再掲します。

いわで御殿について
 現在のこのあたりは風光明媚な小山があり、周辺の人々に景勝地として親しまれてきました。そこに妙見堂という建物がありましたが、慶安2年(1649年)紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣がこれを和歌浦に移した後、その跡地に別荘を築かれたそうです。この建物を「厳出御殿」と呼び、歴代藩主が参勤交代の時など、ここに宿泊していたそうです。八代将軍吉宗も幼少の頃は、ほとんどここで過ごしていたと伝えられています。

 この地からは大台ヶ原や吉野に源を発する紀の川、箱山、紀州富士の名で知られる龍門山の美しい姿を望むことができます。また当時は岩出の地名どおり川の中には人とり岩畳岩なまずえぼし岩車岩などと呼ばれる奇岩が点在していたそうです。さらに上流は我国有数の木材の産出地でしたので、筏が下り、景観に風情を添えていたと思われ、紀州家が別荘を建てたことがなるほどと頷ける景勝の地であったと思われます。

 厳出御殿は、宝暦14年(1764年)に取り壊された後、時代の流れとともに大阪では八州軒、横浜では臨春閣と所・名前を変えながらも、現在は横浜市三渓園に「臨春閣」として国の重要文化財に指定され当時の姿を残しています。

 さてこの地は、厳出御殿が取り壊された後、御殿山と呼ばれ昭和のはじめ頃まで公園として地元の人々に親しまれていましたが、奇岩のあった辺りが川の流れの障害となり再三にわたる岩出市の水害の原因となっていたので川幅を広げるため、奇岩及び御殿山の一部を取り崩すことになり、かつての姿は失われています。 

 

 上記の解説では、かつてこのあたりからは紀の川に各種の奇岩が点在する風景が見られたとされていますが、この付近は紀の川の川幅が急激に狭くなる場所にあたり、たびたび水害が発生していたことから、これを解消するために昔から川幅を広げる工事が繰り返されており、これに伴って奇岩の類も撤去されてしまいました。
紀の川岩出狭窄部 安全に 国が治水工事着工 | ニュース和歌山

 しかしながら、現在でもこの場所からは悠々と流れる紀の川の景観を楽しむことができ、絶景の場所であることに変わりはありません。


 また、文中にあるとおり、かつての厳出御殿の建物は、いったん大阪の春日出(かすがで 現在の大阪市此花区に移築され、「八州軒」と名付けられていましたが、その後横浜の「三溪園」という庭園に移築されて、現在も「臨春閣」として大切に保存されています。こうした経緯については、大阪市立図書館のWebサイトにある「おおさか資料室」のページで次のように解説されています。 

 春日出新田は、開発以来幕府領でしたが、享保15(1730)年、和泉国日根郡佐野村(現泉佐野市)の豪商食野(めしの)氏に譲渡されました。食野家はここに別荘を置き、紀州徳川家から譲り受けた数奇屋風の建造物を移築しました。その後食野家は没落し、この建造物は春日出の両替商清海(きよみ)清兵衛の所有となりましたが、庭園には淡路・紀伊・大和・河内・和泉・播磨・山城・摂津の八州の風光を収めたとして、「八州軒」と称されました。

(中略)

 後の明治39(1906)年、横浜の原冨太郎がこの建物を譲り受け、横浜市本牧三渓園内に移築しました。大正6(1917)年に竣工し、臨春閣と名付けられました。昭和6(1931)年、重要文化財に指定され、現存しています。
大阪に関するよくある質問 - 大阪市立図書館

 

 上記の解説では現在の臨春閣の建物が厳出御殿を移築したものであるとは名言されていませんが、一般社団法人和歌山県建築士のWebサイトにある「和歌山の建築と文化」内の「三溪園 臨春閣」という項には次のような記述があり、異説はあるものの臨春閣厳出御殿の遺構であるということが通説になっていると述べられています。

三溪園 臨春閣
紀州徳川家の別邸巌出御殿の遺構ー

 三渓園を代表する重要文化財臨春閣」が巌出御殿を移築したものであると推測され、江戸時代初期数寄屋風書院の名作で西の桂離宮と並び称される。

(中略)

 戦災の空襲で傷んだ建物を戦後昭和30年から33年にかけて臨春閣の工事監督を務め、報告書をまとめたのが藤岡道夫氏である。藤岡氏が第二屋の柱の位置が紀ノ川に張り出し、岩盤などの地形から巌出御殿の遺構であることを発表し、その後通説になっている(現在は河川改修により削られ確認できない)。一方「三渓園の建築と原三渓」有隣新書の著者西和夫氏によると、臨春閣はもと巌出御殿とされてきたが、最初から大阪春日出新田の会所八洲軒であったとの説を唱えている。

 臨春閣の第二屋にあたる建物が紀の川に張り出し柱が岩盤に建ち、吉宗が滞在していることを想像するとさらにロマンが広がる。
三溪園 臨春閣 | 一般社団法人 和歌山県建築士会