生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

小野小町88歳の像(和歌山市里)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は和歌山市里にある「遍照寺」を紹介します。

 前項では和歌山市湯屋谷にある「小野小町の墓」について紹介しましたが、そこから約1.5kmほど南西に位置する「遍照寺」には、小野小町が88歳の時の姿をうつしたものと伝えられる木像が安置されています。

 

 「絶世の美女」と謳われながらその生涯が謎に包まれている小野小町ですが、その晩年についてもやはりよく判っていません。京都の冷泉家に伝わる文書のひとつ「冷泉家伊勢物語」には、小町が「井手寺の別当の妻として(中略)六十九にて彼井手寺にてそ(卒)したりといへり」との記述があり、これをもって現在の京都府井手町にあった井手寺(井提寺)別当の妻として幸せな晩年を送り69歳で没したという説もあるのですが、このほかに、若い頃の栄華に反して大変不幸な晩年を送ったという話が全国各地に数多く伝えられています。
※「井手の小町伝説 : 井出寺別当の妻をめぐって(明川忠夫「同志社国文学 16号) 1980  同志社大学国文学会」 同志社大学学術リポジトリ

 

 例えば、鎌倉時代初期に成立したとされる歌論書「無名抄」には次のような話が掲載されています。

 平安時代歌人在原業平陸奥国(みちのく)を訪れたとき、かそしまという場所に宿をとろうとしていると、野原の中から突然
   秋風の 吹くにつけても あなめあなめ
   (秋風が吹きつけて 目が痛い目が痛い)
と和歌の上の句を詠む声が聞こえてきた。
 不審に思って声の主を探してもあたりに人の姿は見えず、代わりに死人の頭が一つあるのみだった。
 翌日になってもう一度その場所へ、それは、眼の穴からススキが一本生え出した髑髏であった。
 あたりの人にこのことを尋ねると、

   「小野小町がこの地に来て、ここで落命したのです。その髑髏があれです。
という。
 これを聞いた業平は哀れに悲しく思い、涙を抑えて次のような下の句を付けた。
  小野とは言はじ 薄(ススキ)はひけり
  小野小町の哀れな最期とはいうまい。ただ薄が生えているだけのことだ)
※第81話業平本鳥きらるる事
※第82話をのとはいはじといふ事

 

 このように、一時は絶世の美女として一世を風靡した小野小町がやがて年老いて落ちぶれた生活をするようになる、という話が人口に膾炙するようになると、能作者らによってこれが「卒塔婆小町(そとばこまち)」「通小町(かよいこまち)」等の作品として上演されるようになり、こうした「衰老落魄説話」と呼ばれる類の物語が中世社会に定着していきます。
卒都婆小町 | 銕仙会 能楽事典
通小町 | 銕仙会 能楽事典

 

 こうして、小野小町は晩年に年老いた姿で全国を流浪した、との伝承が各地に伝えられていくことになるのですが、和歌山では、熊野参詣を果たした後に雄ノ山峠を前にしたこの地で落命したという話が伝えられています。

 遍照寺に伝わるのは、その時88歳であった小町の姿を写したとされる木像です。 私も実物を見たことはないのですが、資料によれば高さ50cmほどの木像で、あばらの浮き出た胸をはだけ、左膝を立てて座っている姿のものだそうです。下記リンク先の個人ブログにその木像の写真が掲載されているようですで、こちらもご参照ください。
熊野古道 和歌山

      

 実は、大変興味深いことに、この「年老いた小野小町」の姿は、「奪衣婆(だつえば)」と呼ばれる人物(神、あるいは鬼などとされる)と同じ姿をしているのです。

ja.wikipedia.org

 

 奪衣婆は、通常は「あの世」と「この世」の境にある「三途の河」のほとりに居て、ここにたどりついた亡者(死者)の衣類を剥ぎとる役目をすると言われています(懸衣翁(けんえおう/けんねおう)という老爺がその衣類を衣領樹という大樹に掛けて、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計る)

 ところが、この伝承とは別に、奪衣婆子授け安産乳授け子育てのほか、咳止め虫歯の治癒などにもご利益のある存在とみなされるようになり、近世になると「奪衣婆信仰」として単独で民間信仰の対象とされるようになってきました。
 その奪衣婆が、なぜ小野小町と同じ姿をしているのか。松崎憲三氏は、「奪衣婆信仰の地域的展開 : 秋田県下の事例を中心に (「日本常民文化紀要 28巻」 成城大学文芸学部 2010)」において同様の像がある秋田県での調査結果を踏まえて次のように解説しています。

 いずれにしても小稿では、以上の研究史を踏まえて秋田県下をフィールドとし、姥神さらには小野小町信仰と習合した奪衣婆信仰の実態把握に努めた。秋田県の寺院や小堂には「小町百一歳の像」、「小町九十歳の像」なるものがあって、子授け・安産・乳授け等の信仰対象となっていた。いずれも半跏趺坐像で恐ろしげな形相をしており、「小町婆(ばば)さん」などと呼ばれる奪衣婆にほかならない。秋田市誓願寺横手市・旧専光寺の像ともに奪衣婆(姥神)信仰が元にあり、それが小町と見なされるに至った、という共通点が認められた。
成城大学リポジトリ

 

 つまり、もともとは「奪衣婆信仰」にもとづいて製作された奪衣婆の像が、後に小野小町衰老落魄説話と融合して「小町像」とみなされるようになった、というのです。
 今回紹介した遍照寺の小野小町がこのような経緯を有しているものなのかどうかは不明ですが、全国的にこうした事例が数多く見受けられるのであれば、そうであったのかもしれないですね。