生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

紀伊大王(和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は和歌山市岩橋の「紀伊風土記の丘」に展示されている「紀伊大王(きい だいおう)」というクスノキの巨木を紹介します。

  平成23年9月に日本列島を襲った台風12号は、紀伊半島の各地で連続雨量が2,000mm近くにも達する猛烈な雨を記録し、甚大な被害をもたらしました。
平成23年台風第12号 - Wikipedia

 

 この雨が一段落した後、紀の川を管理する国土交通省和歌山河川国道事務所の職員が見たものは、紀の川大堰の上流の川の中から突きだした2本の枝。 調べて見ると、なんと、これは巨大なクスノキの一部だったのです。
 このまま放置しておくと、この巨木が下流にある紀の川大堰にぶつかって甚大な被害が生じる恐れがあったため、和歌山河川国道事務所では川の中からの引き上げを試みましたが、最初に試みた25tクレーンでは動かず、次に試みた70tクレーンではワイヤーが切れ、と失敗が相次ぎました。
 最終的に50tクレーンと70tクレーンの2台を使ってやっとのことで引き上げに成功したのですが、陸上で計測してみると、なんと幹周り12m、高さ7m、重さ40tという巨大なクスノキであることが判明したのです。
わかやま新報 » Blog Archive » 六十谷橋下に巨木出現 ドライバーびっくり

 

 年代測定を行った結果、このクスノキの樹齢は350年程度であり、枯れて紀の川に沈んだのが今から1,300年ぐらい前であったことが確認されました。つまり、このクスノキが誕生したのは今から1600年以上前ということになり、西暦で言えばA.D.350年頃に芽吹いて、A.D.700年頃に枯れたものと考えられます。


 この頃は、日本の歴史では「古墳時代」から「飛鳥時代」、「奈良時代」へと移り変わっていく時期ですが、和歌山ではちょうど岩橋千塚古墳群(いわせ せんづか こふんぐん)が築造された時代にあたります。 そんな繋がりもあり、この巨大クスノキは防腐処理を施した上で、岩橋千塚古墳群のある「紀伊風土記の丘」に移設し、常設展示されることとなりました。


 この際にこの巨木の愛称を一般募集することになり、応募のあった81作の候補の中から来場者による投票を経て「紀伊大王(きい だいおう)」という名称が決定しました。
 この巨木が生きていた頃、紀の川の南岸一帯は(き)が支配していたとされ、岩橋千塚古墳群もこの紀氏一族を祀ったものであると伝えられています。ヤマト王権の誕生より前に地域の支配者として一定の地位を確立していた紀氏にちなみ、同時期にあたかも「大王」のような存在感を見せていた巨木であったろうとの思いを込めて命名された「紀伊大王」の名は、この地域の深い歴史を表すに相応しいものと言えるでしょう。

 

※岩橋千塚古墳群

 現在、「紀伊風土記の丘」となっている地域周辺は「岩橋千塚古墳群(いわせ せんづか こふんぐん)」と呼ばれる古墳の密集地帯で、5世紀から7世紀前半にかけて築造された前方後円墳、円墳、方墳などが約800基以上確認されており、群集墳としては全国有数の規模であるとされる(後述する特別史跡指定後も新たな古墳が発見されており、総数は900近くに達するとも言われる)
 明治40年(1907)に大野雲外が初めて学術的な発掘調査を行った後、大正期に行われた「岩橋千塚第一期調査」を踏まえて昭和6年(1931)には「国史」に指定、同27年(1952)には「特別史跡」に指定された。「特別史跡」とは、「史跡のうち学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴たるもの」を指定するもので、全国でもこれまで63件(32都道府県)しか指定されていない貴重な史跡であると言える(2020年3月10日現在)
 和歌山県紀伊風土記の丘は、この岩橋千塚古墳群の管理・調査・保存を行うとともに、学術調査の成果を一般の方々に判りやすく公開することを目的として開設された博物館で、昭和46年(1971)に開館した。博物館の敷地は約65ヘクタールで、この敷地内に多数の古墳が点在しており、中には随時石室内に入ることのできる古墳もある。
和歌山県立紀伊風土記の丘|公式ホームページ