生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

顕如上人桌錫所の碑(和歌山市秋葉町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は和歌山市秋葉町の秋葉山山上にある「顕如上人桌錫所の碑(けんにょ しょうにん たくしゃくしょ のひ)」を紹介します。

 

 

 秋葉山は、別項「秋葉山古戦場」でも紹介したとおり戦国時代に織田信長と対立した雑賀衆の拠点であったことで知られています。
秋葉山古戦場(和歌山市秋葉町) - 生石高原の麓から

 

 上記の項でも紹介したところですが、現在「秋葉山(あきばさん)」と呼ばれている山は、かつては「弥勒寺山(みろくじさん)」と呼ばれており、後に「御坊山ごぼうやま)」と呼ばれるようになったもので、現在

 

 上記の項で紹介したとおり、織田信長雑賀衆との戦い(第一次紀州征伐 1577)の際、雑賀衆がこの地に築いた城は「弥勒寺山城(みろくじさん じょう)」と呼ばれており、この時点まではこの山の名称は「弥勒寺山(みろくじさん)」でした。後に「御坊山ごぼうやま)」と呼ばれるようになり、現在のように「秋葉山(あきばさん)」という名称が定着したのはこの地に「秋葉山公園」が整備された第二次世界大戦後のことであったようです。
 それでは、なぜ「弥勒寺山」が「御坊山」と呼ばれるようになったのでしょうか。それは、本願寺(現在の浄土真宗本願寺派 「一向宗」、「真宗」とも)との深い関係を紐解かなければなりません。

 

 親鸞(1173 - 1263)が「教行信証」によって明らかにした浄土宗の新たな教義は、大谷廟堂(おおたにびょうどう)の建立(1272)、「本願寺」の寺格獲得(1321)を経て本格的な普及期に入りました。
 本願寺8世の蓮如(1415 - 1499)は、「」と呼ばれる組織を築き、親鸞の教えを平易なことばで書いた「御文(おふみ 御文章(ごぶんしょう)とも)」という文書を配布するなど、一般民衆に広く布教活動を行ったことから、本願寺は大衆の間で絶大な支持を得ることになったのです。

 本願寺による和歌山への布教活動は、1476年頃に現在の海南市冷水に設けられた冷水道場が始まりだと言われています。その後、この布教活動の拠点は1507年に海南市黒江へ移転したのち、1550年に弥勒寺山へ移転してきました。一般的に浄土真宗の寺院を称して「御坊」と呼ぶことが多く、これが現在の和歌山県御坊市の名称の由来ともなっているのですが、この「弥勒寺山」におかれた施設を「紀州御坊」と呼んだことから、後にこの山が「御坊山」と呼ばれるようになったのです。

 この場所に紀州御坊が移転した経緯については詳しくはわかりませんが、当時精強をもって全国に知られていた「雑賀衆」の中には本願寺を支持する者が多かったと言われていることから、雑賀衆が自らの本拠地であった弥勒寺山紀州御坊を招いたのかもしれません。(従来は雑賀衆の大半が熱狂的な本願寺の信者であったとする言説が多かったが、最近の研究では他宗派の信者も多数いたと考えられており、単純に「雑賀衆 イコール 本願寺門徒」との図式では捉えられないとされる)

 

 その後、1563年に本願寺の指導者である顕如上人弥勒寺山を訪れ、ここにあった紀州御坊和歌山市鷺森(さぎのもり)へと移転させました。これが現在の「本願寺鷺森別院」であり、一時期は全国の本願寺の本拠地となっていた場所です。

 

 顕如上人率いる本願寺は、当時、戦国時代最大の宗教的武装勢力であったと言われ、全国統一を目指す織田信長の強力なライバルでした。このため、1570年に発生した「野田城・福島城の戦い」を皮切りに、本願寺信長は11年にも及ぶ激しい戦いを全国で繰り広げます。これがいわゆる「石山合戦」で、教科書に出てくる「長島一向一揆」や「越前一向一揆」というのもこの合戦の一環として位置づけられています(「加賀一向一揆」は信長との直接対決ではないので少し意味合いが異なります)

 最終的にこの戦いは、1580年に本願寺朝廷の仲介を受け入れて信長と講和したことにより終結するのですが、その際の講和条件の一つが、「顕如上人の大阪からの退去」でした。これに基づき、顕如上人が移り住んだ先が鷺森本願寺紀州御坊なのです。
 これにより、1583年には顕如上人が貝塚大阪府)へ移ったため本願寺の拠点もこれに伴って移転することになりますが、わずか3年間とはいえ「本願寺紀州御坊(現在の鷺森別院)」が「本願寺」の本拠地であったことは間違いありません。

 こうした経緯について「日本地名大辞典 30 和歌山県(1985 角川書店)」の「鷺ノ森」の項では次のように解説しています。

[中世]鷺森

 戦国期から見える地名。海部(あま)郡雑賀(さいか)荘のうち。
 天正8年と推定される10月晦日付の本願寺教如書状(善福寺文書/新編武州古文書下)に、同年織田信長と和睦した本願寺顕如が「紀州雑賀庄之鷺森」に退去したとあるのが地名の初見。天正9年3月日付の織田信長朱印状本願寺文書/和歌山市史4)は、諸国の一向宗門徒が煩いなく自由に「雑賀鷺森」の本願寺へ参詣できるよう保障している。
 この時顕如が滞在していた鷺森御坊は、江戸期の享保8年成立の「鷺森旧事記」によると、文明8年の蓮如紀州下向を機に開創された冷水 (清水)道場に始まり、永正4年黒江に、天文19年和歌浦弥勒寺山に移転し、ついで永禄6年に「宇治郷鷺森」に移り来たったものといい (仏教全書132)、後の石山合戦期の史料に雑賀御坊と記されるのがこれにあたる。
 天正2年2月28日付の鷺森別院御主殿棟札(鷺森別院旧蔵/和歌山市史4)には「大谷本願寺末寺雑賀の庄宇治郷御坊御主殿」とあり、御坊所在地が宇治郷に属したことがわかるが、鷺森の名は見えない。しかし「証如上人日記」天文16年4月15日条石山本願寺日記上)には「鷺森主計」の名が見えることから、すでに鷺森の地名が存在していたと考えられる。
 天正10年6月に「鷺森御寺内へ湊ヨリ寄来<本人家二間御成敗>」という事件がある(宇野主水日記/石山本願寺日記下)など、門徒一揆内部に対立が生じてきた中で、天正11年7月4日顕如は当地を離れて泉州貝塚大阪府に移った(同前)。 

 

 こうした歴史を受けて、現在の秋葉山の山頂には「顕如上人桌錫所の碑」が建立されています。「桌錫(たくしゃく)」というのは、「錫杖を突き立てる」ということで、「顕如上人がこの地に立った」というような意味だそうです。この碑は、顕如上人の300回忌を記念して、明治24年(1891年)に信者らが建立したものと伝えられています。

 

 和歌山と宗教との関わりを考えていく上で高野山熊野信仰についてはよく語られるのですが、本願寺雑賀衆との関係は我が国の戦国時代を考える上で絶対にはずせないトピックであり、浄土真宗においても和歌山は重要な地域であると言うことができるのです。