生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

名取三十郎「正忍記」・恵運寺(和歌山市吹上)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は「忍術三大秘伝書」の一つとされる「正忍記(しょうにんき)」という書物を記した「名取三十郎正澄(なとり さんじゅうろう まさずみ)」の墓があるという、和歌山市吹上の「恵運寺(えいうんじ)」を紹介します。

 

 前項では和歌山市の「窓誉寺」を紹介しましたが、今回紹介するのは同寺からわずか80mほど西に行ったところにある「恵運寺」です。
 窓誉寺と同じく寺町通りに面したこの寺は、近年、名取三十郎正澄の墓石が発見されたことで一躍有名になりました。

 

 一般には「名取三十郎」と聞いてピンと来る人はまずいないと思いますが、この人物は江戸時代初期の紀州藩軍学者で、「正忍記」という書物を書いたことで知られています。

 かつては漫画や映画・テレビなどで忍者が登場すると、「巻物を口にくわえて両手で印を結ぶ」というのが忍術を使う際のお決まりのポーズになっていましたが、この際に口にくわえていたのがいわゆる「秘伝の書」です。秘伝の書として最も良く知られているのが伊賀・甲賀49流派の集大成とされる「萬川集海(ばんせんしゅうかい/まんせんしゅうかい 藤林左武次保武)」ですが、これに「正忍記」と「忍秘伝(にんぴでん 服部半蔵」とをあわせたものを「忍術三大秘伝書(三大忍術伝書、三大忍書、三大伝書)」と呼びます。
万川集海 - Wikipedia

 

 「正忍記」は「紀州」や「名取流」と呼ばれる和歌山の忍者に伝わる秘伝書で、忍者としての心構えのほか、携帯すべき道具や潜入のための変装法など、忍者が身につけておくべきさまざまなノウハウの集大成となっています。
 例えば、この中に記載されている「古法十忍」というのは、次のような基本的な10種類の忍術を列挙したものです(かっこ内の注釈は筆者)

1 音声忍(音(方言・声色・音曲など)を用いて目的を果たす)
2 順忍(常に人に従い、相手を油断させる)
3 無生法忍(混乱を起こして目的を果たす)
4 如幻忍(わずかの隙に素早く目的を果たす)
5 如影忍(影のように相手から離れずにいる)
6 如焔忍(人の心の油断を突く)
7 恕夢忍(夜陰に乗じて人を欺く)
8 恕響忍(その土地の者に溶け込む)
9 如化忍(人の心の動きを察して自分の策を練る)
10 如空忍(痕跡を残さず、策を用いたことを相手に気付かせない)

 読んでみれば、これらは別に魔法のようなものではなく、日常世界でも十分に活用可能なもののように思えますが、この書は実際に江戸時代の生身の人間が用いる「術」として体系化されたものであり、それほど突飛なものではないということが逆に秘伝書として現実的なものであったのだろうとの想像を掻き立ててくれます。

 この「正忍記」、現在では別に秘密でもなんでもなくて、一般の書店でも解説書が販売されていますし、下記のリンク先にある伊賀市の「デジタルミュージアム 秘蔵の国 伊賀」というサイトでは伊賀流忍者博物館が所蔵する正忍記(写本)の原本を閲覧することができます。
正忍記

 

 それでは、この書を記した名取三十郎正澄とはどんな人物だったのでしょうか。稲本紀佳氏は、「『正忍記』の本文比較と周辺研究(「三重大史学 18巻(三重大学人文学部考古学・日本史・東洋史研究室 2018)」において次のように述べています。

 『正忍記』の筆者はどのような人物だったのだろうか。『正忍記』の序文は「紀城散人勝田何求齋養真」という人物によって書かれたものだが、そこには「藤一水子正武丈夫手ツカラ録ルス忍兵之秘書」とある。この藤一水子正武が何者かということについて、『南紀徳川史』「名取流軍学」に次のような記述がある。なお、必要な部分に傍線をつけてある。

 当家軍術伝来之趣旨は最初名取三十郎藤一水子之先祖と申は生国奥州名取郷之人にて永禄之比より甲州武田家に仕へて先鋒の士となり三十郎之父武田信玄にも名を知られたる武士にて其倅三十郎正武なる者は頗る有志之者にて広く名士に交り初め真田一徳斎(筆者注:真田幸隆真田昌幸の父・真田信繁(幸村)の祖父)を指す)に学を受弓馬の道通し又山本勘助道鬼斎(筆者注:武田信玄に仕えた軍師、武田流軍学の祖とされる)に陣法築城等之伝を学ひて習熟し後板坂卜斎(筆者注:武田信玄の侍医・板坂宗商(法印)と思われる。子の板坂宗高も卜斎を名乗り、徳川家康・秀忠、紀州徳川家初代徳川頼宣らに仕えた)に医術金瘡等之方を授り手負々傷等之療治を学ひ(後略)

 傍線部に「名取三十郎藤一水子」とあるように、『正忍記』の筆者である藤一水子正武とは、紀州藩藩士名取三十郎のことである。引用した『南紀徳川史』には「三十郎正武」とも書かれているが、『紀州家中系譜並に親類書書上げ』を調べたところ、名取三十郎正武という人物は確認できなかった。ただし、似た名前の人物に名取三十郎正澄がいる。『南紀徳川史』の先に引用 した部分とは違うところに正武の父甲州出身の名取弥次右衛門正豊であると記されているが、後に紹介する『系譜』によ ると正澄の父も同名であり、出身も同じである。そのため、名取三十郎正武名取三十郎正澄は同一人物と考えられる。

 このように、名取三十郎は奥州名取郷(現在の宮城県名取市周辺)の出身ではあるものの、長く甲州武田家に仕えていたようで、「紀州」、「名取流」と言われる忍術の流派も甲州流の系譜を継いだものであるとされます。同時に、南北朝時代に河内を拠点として活躍した楠木正成(くすのき まさしげ)を祖とする「楠流(くすのきりゅう)」の軍学も取り入れていることから「新楠流(しん くすのきりゅう)」と呼ばれることもありますが、この名称は紀州藩初代藩主徳川頼宣命名によるものとされています。
 このことについて、中島篤巳氏は「伊賀連携フィールド 忍者文化協議会忍者・忍術学講座」において次のように報告しています。

 名取流甲州流系であり、甲州流伝書の図・「胴の火」が名取三十郎正武の『正忍記』の「胴の火」に一致することなどから、名取流甲州流から分派した具体例な証拠を示した。名取流軍学は皆伝許証の伝系では「名取氏兵法」であり、紀州名取流初代・名取正澄(正豊四男)から宗家筋以外の弟子・小野木秀辰にも皆伝印綬され、これが分派として『軍髄応童記』を残したことを示した。名取流新楠流とも呼ばれるが、根拠が初代藩主・頼宣命名というから、名取流はその時点で消滅して新楠流となるべき点に触れ、流名・新楠流の問題点を述べた。『正忍記』写本の一つに「楠流軍学秘書より盗写した云々」とあることから、『正忍記』は名取流から分かれて楠木正成に仮託した「楠流軍学」の忍術部門である点はこれまでに述べた通りである
三重大学 人文学部・人文社会科学研究科 | 第2回「紀州徳川の忍術二流 -橋爪流と名取流-」(後期)

 

 ところで、紀州藩忍者との関わりで言えば、紀州藩五代藩主であった徳川吉宗公が徳川幕府八代将軍になった際に、紀州から呼び寄せた者達を「御庭番(おにわばん)」と名付けて諜報活動に携わらせたと言われています。
御庭番 - Wikipedia

 映画やドラマでは「御庭番」といえば、黒装束に身を包み、手裏剣や忍術を使って秘密裏に敵を亡き者にする・・・といったような、いわゆる「忍者」としての働きを行っていた者のように描かれることが多いですが、その実態は身分を隠して市井や国内各地の情報を隠密理に調査する「覆面調査員」のような役割であったと考えられています。こうした点で、「正忍記」に書かれていたのは上記「古法十忍」に代表されるような、身を隠し、正体を偽り、密かに情報を聞き出し、疑われずに逃走する、といったような実践的なノウハウであり、これはまさに「御庭番」には不可欠の「秘伝」であったと言えるのでしょう。 

 

 このように、忍術を通じて紀州藩に大きく貢献したと考えられている名取三十郎ですが、彼の墓が恵運寺にあることが判明したのはごく最近のことなのです。しかも、そのきっかけとなったのが一人のイギリス人研究者であったとのこと。この経緯について2013年05月07日付けの「わかやま新報」Webサイト記事では次のように伝えています。

 全ての始まりは昨年4月の、一本の電話。同寺のブログに書かれた「名取家」の文字を目にした女性から「そちらに名取三十郎正澄が眠っていないか」との問い合わせがあった。 女性は『正忍記』の英語著書があるアントニー・クミンズ氏(34)の翻訳者で、山本副住職は、この時初めて名取三十郎の名を知ったという。

 さっそく過去張を調べてみると、名取家の記録の中に一致するものがあり、その後、同寺を訪れたアントニー氏にも詳細を説明。さらに供養塔の中を調べていたところ、墓石位牌が見つかった。位牌は劣化が激しかったが、墓石は、はっきりと文字が読み取れる状態だった。
わかやま新報 » Blog Archive » 紀州忍者の墓石発見 観光への活用期待 吹上

 

 現在ではこの墓石はきれいにお祀りされており、墓石の横には詳細な解説を記した案内板も建立されています。


 

 その後、同寺では「正忍記を読む会」を立ち上げて、正忍記の精神を現代に活かす取り組みを行っています。現在はコロナウイルス感染症対策のため活動は一時的に休止していますが、活動の状況は随時Webサイトにて報告されると思いますので、こちらのサイトを参照いただければと思います。
正忍記を読む会 | 日本三大忍術伝書「正忍記」からリアル忍術を学ぶ