生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

竈山神社(和歌山市和田)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、初代天皇である神武天皇の兄・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が祀られている和歌山市和田の「竈山神社(かまやまじんじゃ)」を紹介します。

 

 

 和歌山市和田にある市立三田小学校の前に竈山神社があります。神社の規模自体はそれほど大きなものではありませんが、明治時代に定められた「社格」では「官幣大社」として最上級に位置づけられている神社です(現在は、神職の進退に関して特別な扱いが必要となる「神社本庁別表神社」と位置付けられている 別表神社 - Wikipedia )。

 竃山神社主祭神彦五瀬命(ひこいつせの みこと)神倭伊波礼毘古命(かむやまと いわれびこの みこと 後の神武天皇の兄にあたる人物です。

 

 古事記によれば、日向(現在の宮崎県)高千穂にいた彦五瀬命古事記では五瀬命神倭伊波礼毘古命は、葦原中国(あしはらのなかつくに 人間の住む地上世界)を治めるためにどこへ行くのがよいか互いに相談し、東へ向かうことにしました。これがいわゆる「神武東征(じんむとうせい)」で、後に神倭伊波礼毘古命が畝傍(現在の奈良県橿原市橿原宮にたどり着いて初代天皇神武天皇として即位します。一般的にはこれが「大和朝廷」のはじまりであるとされ、皇室の歴史もここから始まるものとみなされています。

www.wakayama-kanko.or.jp

 

 神武東征については古事記日本書紀とで少しずつ記述が異なるのですが、彦五瀬命にかかわる物語としては概ね次のようなストーリーとなっています。

 日向を出た二人は軍勢を率いて筑紫、宇佐、阿岐、吉備などに立ち寄りながら海路で東へ向かった。
 浪速国の白肩津東大阪周辺)に着いた時、兄弟の軍勢はこの地を拠点とする長髄彦(ながすねひこ)らに襲われて、兄の彦五瀬命は矢に撃たれてしまう。この時、彦五瀬命は弟の神倭伊波礼毘古命に向かって「自分達は日の神の御子だから、太陽の上る方角である東に向かって戦うのが良くなかった。南から廻り込んで、太陽を背に西に向かって戦おう。」と進言したので、海路で南方へ回り込むこととした。
 そして、紀の国に上陸した所で傷が悪化したため、彦五瀬命は「賊に傷つけられて死ぬとは」と男建び(おたけび 雄叫び)をあげた。それ以来、この地は男水門(おのみなと 雄水門)と呼ばれることになった。(男水門・雄水門の位置については別項神武天皇聖蹟 男水門顕彰碑参照)
 男水門から竃山への進軍の道中で彦五瀬命は息を引き取ったため、その亡骸は竃山に葬られた。

 

 古事記については、著作権が消滅した書籍等の電子化を行っている「青空文庫」で全文が公開されていますので、ここから彦五瀬命五瀬命に関わる部分を引用しておきます。

〔五瀬の命〕
 かれその國より上り行(い)でます時に、浪速(なみはや)の渡(わたり)※1を經て、青雲※2白肩(しらかた)の津※3に泊(は)てたまひき。
 この時に、登美(とみ)那賀須泥毘古(ながすねびこ)※4、軍を興して、待ち向へて戰ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下(お)り立ちたまひき。かれ其地(そこ)に號けて楯津(たてづ)といふ。今には日下(くさか)の蓼津(たでづ)といふ。
 ここに登美(とみ)毘古と戰ひたまひし時に、五瀬(いつせ)の命、御手に登美毘古痛矢串(いたやぐし)を負はしき。
 かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戰ふことふさはず。かれ賤奴(やつこ)が痛手を負ひつ。今よは行き迴(めぐ)りて、日を背に負ひて撃たむ」と、期(ちぎ)りたまひて、南の方より迴り幸でます時に、血沼(ちぬ)の海※5に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。
 其地そこより迴り幸でまして、(き)の國の男(を)の水門(みなと)※6に到りまして、詔りたまはく、「賤奴(やつこ)が手を負ひてや、命すぎなむ」と男健(をたけび)して崩(かむあがり)ましき。
 かれその水門(みなと)に名づけて(を)の水門といふ。
 陵(みはか)は紀の國の竈山(かまやま)※7にあり。

※1 難波の渡。當時は大阪灣が更に深く灣入し、大和の國の水を集めた大和川は、河内の國に入つて北流して淀川に合流していた。それを溯上して河内に入つたのである。
※2 枕詞。
※3 大阪府中河内郡生駒山の西麓。
※4 生駒山の東登美にいた豪族の主長。
※5 大阪府泉南郡の海岸。
※6 和歌山縣、紀の川の河口。
※7 和歌山縣海草郡

稗田の阿礼、太の安万侶 武田祐吉注釈校訂 古事記 校註 古事記

 

 こうして竈山の地で亡くなったという彦五瀬命主祭神として祀っているのが現在の竈山神社です。 
 残念なことに、天正13年(1585)に行われた豊臣秀吉紀州攻めの際に神宝や古文書などが焼失したと伝えられ、その後は荒廃して一時はその所在地が判らなくなっていた時期もあったとされます。こうした経緯について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「竈山神社」の項では次のように解説されています。

竈山神社 かまやまじんじゃ

 和歌山市和田にある神社。延喜式内社。旧官幣大社。 祭神は彦五瀬命。釜山神社とも記される。社の北に直径6m、高さ1mの墳墓があり、神武天皇の兄 彦五瀬命の墓(竈山墓)といわれる。

(中略)

 永徳元年7月紀国造家によって鵜飼新五郎が神主職に補せられており日前宮古文書/ 和歌山市史4)、中世を通じて鵜飼家が世襲していたと考えられる(続風土記天正14年5月の鵜飼吉政神宝等覚によれば、鵜飼家は弘治年間まで79代続いているといわれる。
 そして、天正13年3月豊臣秀吉紀州攻めで社殿をはじめ、神宝・古記録などが焼失し、和太荘内の社領8町8反も没収された(鵜飼家文書 / 和歌山市史4)
 慶長5年浅野幸長が小祠を再建、寛文9年には徳川頼宣が社殿を再興(社伝)。同時に所在地が不明確になっていた竈山墓の区域を設定し、殺生を禁止した(続風土記。しかしその後再び所在地が不明となり、寛政6年に本居宣長と一緒に参詣した本居大平は、「そこかしこ たづねけれど それとおぼしき たづね得ざりけり」と記している(名草の浜つと/ 本居大平全集)
 江戸期を通じ、寺社奉行直支配社と して処せられた。社伝では氏子も社領も皆無だったと伝えるから、荒廃は激しかったのであろう。
 明治14年 墓域を調査のうえ現在地に画定し、陵墓と神社が区別された。同18年官幣中社に列格。同42年には神主が管理していた静火神社を合祀し、大正4年官幣大社に列 して、現在の荘厳さを回復した。

 

 上記の角川地名大辞典の記述にもあるように、もともとは彦五瀬命の墓(竈山墓)と一体不可分の関係にあった竈山神社ですが、明治14年竈山墓竈山神社は明確に区別されることとなりました。そして竈山墓和歌山県内唯一の「陵墓(りょうぼ)」として宮内庁の管轄下におかれることになるのですが、これについては次項で紹介します。