生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

あしがみさん 千種神社(海南市重根)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、日本書紀において神武軍と戦って敗れたとされる名草戸畔(なぐさとべ)の足を祀る海南市重根(しこね)の「千種(ちぐさ)神社」を紹介します。

 前項・前々項では日本書紀において神武天皇の軍勢に敗れたとされる名草戸畔(なぐさとべ)の遺体の頭部腹部を祀ると伝わる「宇賀部神社」「杉尾神社」をそれぞれ紹介しました。

 今回は、これに続き名草戸畔が祀られているとされる「千種神社」を紹介します。


 千種神社の創建時期は不詳とされますが、明治末期までは「百草(ももくさ)神社」と呼ばれており、「大化3年(647)に「雨の森」へ「百草明神」が鎮座した」と書かれた文書があることから、かなり古くからこの地にあった神社のようです。こうした同社の由緒について、和歌山県神社庁のWebサイトでは次のように解説しています。

 古くは百草神社と言った。
 勧請年月日は詳かではないが、『紀伊風土記』に「田津原・伏山・大谷 三ケ村の産土神なり 祀神詳かならず 百草は地名と見ゆ 応永・永正などの文書に百草の森の名見えたり……」とある。
 旧記に「百草明神は人皇第三十六代孝徳天皇大化三丁未年雨ノ森と言ふ所へ御鎮座、右末社七社有……」とある。
 雨ノ森とは百草の森のことと考えられるので、いずれにしても相当古くからのものと思われる。
 明治43年熊野神社海南市別所)及び八王子神社海南市扱沢)を合祀、社号を千種神社と改めた。
 一説には、神武天皇ご東征のみぎり、皇軍に随順することを肯じなかった、紀北地方を支配していた豪族である名草戸畔の足を祀るともいわれる。
 そのことから、神前に履物を供え、足腰の無病を祈る風習があり、足神様としてあがめられている。
(以下略)

和歌山県神社庁-千種神社 ちぐさじんじゃ-

 

 上記引用文にもあるように、千種神社名草戸畔を祀る神社と伝えられているところですが、今回、参考のために、国土地理院のサイトを利用して名草戸畔神武東征軍と戦ったとされる「くも池」と、名草戸畔を祀る三神社の位置関係を地図にしてみました。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 すると、非常に興味深いことに、「くも池」に対してその東側に、高倉山をはさんでほぼ南北の一直線上に三神社が所在することがわかりました。
 ここからはあくまでも個人的な妄想に過ぎないのですが、海からやってきた「侵略者」である神武東征軍に対して、土着の人々のリーダーであった名草戸畔の亡骸をこの三か所に祀ることによって一種の「結界」のようなものを設けたのではないか、という仮説が提示できるような気がします。この地点からさらに東側には、現在では「野上谷(のかみだに)」などと呼ばれる平地が広がっており、これら三神社は敵方(神武東征軍)のこれ以上の侵入を防ぐための拠点として設けられた、と考えると面白いのではないでしょうか。

 

 
 とはいうものの、実はこの「宇賀部神社」「杉尾神社」「千種神社」の三社が名草戸畔にゆかりの神社であるとの伝承は、古来、それほど広く知られているものではなかったようです。ちなみに、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」にはこの三社がそれぞれ「宇賀部雨大明神」「杉尾明神」「百草大明神社」という名前で記載されているのですが、そのいずれにも名草戸畔にまつわる伝承は記録されていません。
 また、和歌山市出身の作家・神坂次郎氏が昭和51年(1976)に出版した「紀州史散策 第一集(有馬書店)」には次のような記述があり、名草戸畔の後裔が紀伊国造となったのではないかとの考察を行っていますが、ここでも上記三社に関する伝承は紹介されていません。

(略)
 このことはまた『旧事記(くじき)』や紀氏の国造系譜に記されている
橿原ノ朝(ミカド)ノ御世、神皇産霊命(筆者注:かみむすびのみこと)五世(イツヨ)ノ孫(ウマゴ)天ノ道根命(筆者注:あめのみちねのみこと)ヲ以テ紀伊国造トナシ
 といった条りにもうかがうことができよう。

 ここでは、天道根命神武東征のおり、この地に威をふるっていた大豪族ナグサ・トベ(名草戸畔)を誅した功によって、紀伊国造に任じられたことになっているのだが、奇妙なことに、 その道根命のことは、『古事記』『日本書紀』にも見えないのだ。目にふれるのはナグサ・トべのことだけである。太田亮氏は、その著作 『姓氏家系大辞典』のなかで、
ナグサ・トベのことは厳然たる事実だ。これは後の紀伊国造道根命の裔といい、さらに神皇霊命の子孫というのは、おそらく後世(ヤマト政権下)の仮冒にして、その実紀伊国造家は)ナグサ・トベと同じ系統の家か
 といっておられるし、さらに『紀伊風土記』の場合は、もう一つはっきりといい放っている。
ナグサ・トベは御気持命(筆者注:おおみけもちのみこと 素戔鳥尊(すさのおのみこと)を祖とする出雲系神族で、後に大和の三輪氏につながる系譜に属する)より天道根命に至る中間二代のその一代なるべし
 であるとすれば、天道根命は皇孫ではなく歴とした出雲族、ということだ。
 この説には同感である。
 のちの『国造家譜』のなかにもナグサ・ヒコナグサ・ヒメの名がしばしば見うけられるのも、 やはりナグサ・トベの末流のゆえではなかろうか。これは単に、名草地方を領していることからの称とも思えない。

 

 こうしたことを考えると、これら三社にまつわる名草戸畔に関する伝承が世に出るようになったのは比較的近年になってからであるように思われますので、この伝承はあくまでも「史実と浪漫の間にある物語」と理解しておいた方がよいのかもしれません。

 

 ところで、同社の境内には樹齢300年以上とされるクスノキの巨木があり、海南市の指定文化財となっています。現地の解説板の記述によれば、このクスノキはかつて樹下に安置されていた地蔵尊を幹の中に巻き込んで成長したと伝えられているとのことですが、こちらの話についても残念ながらその真偽は確認されていないようです。

海南市指定文化財
天然記念物 千種神社のクスノキ
         平成十年七月指定
 「行たら見てこら重根の宮の楠にまかれた地蔵尊」と、昔、この辺りの人々にうたわれ、語り継がれてきたのがこのクスノキです。
 樹高二十九メートル、枝張り東西二十四メートル、南北に二十五メートル、根周り十五メートルにもなります。
 「昔、このクスノキの下に石の地蔵さんを安置していたが、いつしか、このクスノキの成長にともない、地蔵さんが幹の中に巻き込まれてしまった。それで幹の下部がふくらんでいるのだ。」との言い伝えがあります。
 現在、多少の技枯れ等は、発生していますが、風格のあるクスノキで、大きな空洞もなく豊かに枝葉を茂らせ、樹勢の良い状態が保たれています。
 また、千種神社は、昔、「百草(ももくさ)神社」と、言われていました。
 百草が生い茂り、うっそうとした森林であったころの面影を残しているのが、このクスノキだと考えられています。
 遠くからもこのクスノキは良く目立ち、この地のシンボルと なっている名木です。
     平成十二年二月一日
            海南市教育委員会