生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

八幡神社(安原八幡神社)(和歌山市相坂)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、和歌山市相坂にある「八幡神社(はちまんじんじゃ)」を紹介します。一般的には「安原八幡神社(やすはら はちまんじんじゃ)」と呼ばれるこの神社は、神功皇后三韓征伐朝鮮半島に出兵し新羅百済高句麗を服属させた)から大和に凱旋する際に、息子の誉田別命(ほんだわけのみこと 後の応神天皇をこの地に一時預けていたという伝承で広く知られています。

 この神社の通称名となっている「安原」は、前項で紹介した中言神社のある吉原地区などが所在するエリアの旧村名で、明治22年(1889)から昭和31年(1956)まで「安原村(やすはらむら)」と呼ばれていました。旧安原村の範囲は、現在の地名で言うと朝日・冬野・吉原・馬場・広原・相坂・江南・井戸・桑山・松原・小瀬田・本渡・薬勝寺・仁井辺の14地区にわたっています(参考:「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」)

 地図をご覧いただくとわかるように、安原地区は名草山の東側に広がる田園地帯となっており、中言神社の項で紹介したように紀伊国造の祖とされる大名草彦、あるいは地元の口頭伝承に伝わる名草戸畔の一族がその拠点に置くにふさわしい場所であったように感じられます。

 

 そして、ここにはもう一人、日本の古代史において避けて通ることのできない重要人物が本拠地を置いていたとも伝えられています。それが武内宿禰(たけのうちの すくね/たけしうちの すくね/たけうちの すくね)です。
 武内宿禰は、景行成務仲哀応神仁徳という5代の天皇に仕え、300年以上にわたって活躍したと伝えられる人物で、忠臣として称えられ、5度にわたって日本銀行(お札)の肖像に採用されたことでも知られています。

www.wakayama-kanko.or.jp

 

 武内宿禰の詳細については項をあらためて紹介する予定としていますが、宿禰安原で生まれたと伝えられていて同地に強い勢力基盤を有していたと思われることから、神功皇后大和へ凱旋しようとした際に発生した「熊王おしくまのみこ)の乱」の際に、皇后はまだ幼い皇子・誉田別命宿禰に預けて、この安原の地で保護させたと伝えられています。
 ちなみに、この間、日本書紀によれば神功皇后日高地方へ迂回した後、日高で皇子に再会したとされていますが、これらの経緯については別項「産湯の話」で詳述していますのでこちらも御覧ください。
産湯の話 ~日高町産湯~ - 生石高原の麓から

 

 さて、話を少し戻してこの前後の神功皇后の動向を見てみましょう。
 神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后でしたが、九州において熊襲(くまそ 現在の九州南部を拠点とした豪族)と戦っていた際に天皇が急死したため、これに代わって天皇ヤマト王権の指揮を執り、ついに熊襲を従属させます。史学的にはこれをもってヤマト王権が全国に支配権を確立したと位置づけられるのですが、神功皇后はこれに留まることなく朝鮮半島にまで兵を進めることとしました。そして遂に新羅百済高句麗を服属させて、朝鮮半島をもその勢力下に置いたのです。
 朝鮮半島からの帰途、通説では九州において神功皇后は皇子・誉田別命を出産しました。ところが、これを快く思わなかったのが誉田別命の異母兄にあたる熊王(おしくまのみこ)です。誉田別命が次代の天皇になることを恐れた熊王は、同母兄の香坂王(かごさかのみこ)と共謀して反乱を企て、神功皇后誉田別命を亡き者にしようと動きだしたのです。
 これを知った神功皇后は、現在の大阪湾から奈良へ入るルートを避けていったん紀水門(きのみなと 和歌山市に上陸し、臣下である武内宿禰誉田別命を預けて、自らはさらに南下して衣奈日高郡由良町)まで迂回をしました。その後、再び皇后安原の地を訪れますが、その際に頓宮(とんぐう 仮の宮殿)を造って滞在した場所がこの安原八幡の地であると伝えられています。

 このことについて、和歌山県神社庁のWebサイトでは次のように解説しています。

八幡神社

 神功皇后三緯を征して後、新羅より御凱旋の際、熊王の難をさけ、難波から紀水門(現在の安原附近)に御到着、御子誉田別尊応神天皇武内宿禰に護らせて上陸させ、皇后みずからは更に日高郡衣奈まで迂回をして、再び津田浦(現在の安原小学校附近)に御上陸し頓宮を造られ御滞在なされた跡が当社である。
 御鎮座年代は不詳であるが、欽明天皇の御宇、諸国の神功皇后御経歴の地に八幡造営の詔命があり、当社の創建もこの時と推憶される。
 しかしながら社伝由来記によれば「応和元(961)年如月初卯未明、神託ありて宇佐より天降る」と記されているが、『紀伊風土記』や『紀伊国名所図絵』の編者らは、それは社殿の再建であり、壮麗さを備えた中興の年ではないかとして、欽明天皇説をとっているも裏付け資料なく天正兵火焼失)由来記をもって創祀としている。
 なお、皇后当地での御滞在は、御子誉田別尊の御身辺に気を配られたためであり、また此の地は武内宿禰生誕の地で、一族が阿備柏原(市内松原字柏原、当社の南東1㎞、宿禰誕生之井あり武内神社を祀る)に居を構えて勢力をほこっており、安心して皇子を託すことができたからである。
 やがて熊王の乱が平定されるや、皇后百僚を従えて紀ノ川筋を都へと還幸された。
 その後道中御休息、御宿泊の地即ち海南市旦来那賀郡貴志川町等々各地に八幡宮が御造営されたが、当社は紀伊国御路次中ふり出し第一の八幡宮で、『紀伊国名所図絵』も「当社は日本最初の御旧蹟なり、当時皇后の御船紀水門に泊し給い、後日高に還幸し給うと雖も、皇子を留め置かせ給う所は則ちこの安原郷なり」と記している。

 現在の地形を考えると、上記引用文中に「紀伊水門」を指して「現在の安原附近」との注釈が付いていることに違和感を覚える方もいると思いますが、下記の図を御覧いただけるとわかるように、古墳時代(概ね神功皇后の時代に重なると思われます)の和歌山は、今よりもずっと大きく紀の川が蛇行していて、安原附近(地図の右下、「和田川」の文字があるあたり)紀の川の河口部に最も近い平地であり、港を設けるのにうってつけの場所であったと考えられるのです。
文化財パンフレット | 和歌山市の文化財

和歌山市文化財パンフレット「大谷古墳 大人用」より

 

 ちなみに、日本書紀ではこのことについて次のように記述しています。

原本
皇后熊王起師以待之、命武内宿禰、懷皇子、横出南海、泊于紀伊水門
皇后之船、直指難波
日本書紀/卷第九 - 维基文库,自由的图书馆


読み下し
時に皇后 忍熊王、師(いくさ)を起して待つと聞(きこ)し、武内宿禰に會(おほ)せて、皇子を懐きて、横に南の海より、紀伊の水門(みなと)に泊しめ。
皇后の船(みふね)は、直に難波 摂津国河邊郡 を指す。

飯田弟治「新訳日本書紀(嵩山房 1912)」
新訳日本書紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 やがて神功皇后誉田別命とともに紀の川に沿って大和の都へ戻ります。その際、伝承によれば海南市旦来、紀美野町小畑、貴志川町岸宮、橋本市隅田など各地に立ち寄ったと伝えられており、後にそれぞれの場所に誉田別命を祭神とする八幡神社が造営されることとなりました。これがそれぞれ、且来八幡神社野上八幡宮貴志川八幡宮隅田八幡神社などの造営の由来とされています。

 

 ちなみに、上記の和歌山県神社庁による解説文にもあるとおり、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図絵」では同社の項に「按ずるに当社八幡宮は日本最初の御旧跡なり」と紹介されています。
紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻. ニ編(六之巻上) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 八幡神(やはたのかみ/はちまんしん)主祭神とする八幡宮/八幡神社は全国で最も多い神社とされており、神社本庁が傘下の約8万社を対象に実施した「全国神社祭祀祭礼総合調査(1990~1995)」によると、八幡信仰にかかわる神社は全国に7817社あるとのことです。
 一般的には八幡神社の総本社は大分県にある宇佐神宮(うさじんぐう)であるとされていますが、同社の創建は欽明天皇32年(571)に宇佐の地に現れた神が「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げた事によるとされていることから、これは、神功皇后誉田別命が存命の時期誉田別命応神天皇は第15代天皇欽明天皇は第29代天皇と比較すればかなり時代が下ってからの出来事であると言えます。そう考えると、八幡神の実体である誉田別命自身がその地に立ったとの伝承を有する八幡宮としては、この安原にある八幡神社が「日本最初の旧跡」を標榜するというのもあながちおかしな事とは言えないのでしょう。