生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

岩橋千塚古墳群(和歌山市岩橋 県立紀伊風土記の丘)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回までは古事記日本書紀に取り上げられた県内各地の旧跡などを紹介してきましたが、今回はこれらの事績とほぼ同じ時代のものと考えられている古墳が多数発掘されている岩橋千塚古墳群(いわせ せんづか こふんぐん)について紹介します。

 古事記日本書紀では初代天皇となった神武天皇にまつわる物語が大きく取り上げられていますが、明治時代に定められた神武天皇即位紀元によれば神武天皇の即位は西暦紀元前660年のことであったとされており、これに従えば大和朝廷(現在に繋がる天皇を中心とした政治体制 近年では「ヤマト王権」などと呼ばれることも多い)の成立は現在の時代区分で言えば縄文時代晩期~弥生時代初期にあたることととなります。

 しかしながら、古事記日本書紀の記述には初期の天皇の多くが100歳を遥かに超える長命であることなど不自然な点が多く、これに基づく紀年法をそのまま採用することはできないというのが現在では通説となっています。
 下記のリンク先で閲覧できる日本大百科全書(ニッポニカ)の「大和国」の項では次のような解説がなされており、大和朝廷の成立は4世紀頃で、これは前方後円墳が盛んに築造されるようになった時期、つまり「古墳時代」の初期にあたると考えられているようです。

大和国
(略)
成立時期と範囲
 大和国とは、奈良盆地前方後円墳が出現したころから、律令制国家が成立するまでの時期の「国家」の名称である。政権は、大和および河内を直接的な政治基盤とする。したがって、4世紀から7世紀ころまでの時期の政権となる。その成立時期は、邪馬台国(やまたいこく)が滅亡した後なので、邪馬台国の所在地が北九州か近畿かによって、その前史の理解は大きく異なる。
日本書紀』では、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)神功皇后(じんぐうこうごう)にあてるので、邪馬台国大和政権に含めることになる。しかし、書紀の記述は別にして、近年の古代史学界では、近畿説でも邪馬台国の滅亡後に大和政権を位置づける。北九州説では、一部に邪馬台国東遷説もあるが、一般的には邪馬台国との関係は認めず、奈良盆地で大和政権の成立を考察する。いずれの説をとるにせよ、『古事記』『日本書紀』の天皇名でいえば、実在がほぼ確実とされる崇神天皇(すじんてんのう)からである。なお、初代の(大王)に想定されている崇神天皇と、最古の前方後円墳の成立時期や出現場所との関係はいまだ不明である。しかしながら、大和政権による政治的秩序の形成に、各地域で築造される前方後円墳の問題が関係していることは、ほとんど間違いない。
[吉村武彦]
大和国家|日本大百科全書(ニッポニカ)|ジャパンナレッジ

 

 このように、実際に大和朝廷が成立したと思われる時期は前方後円墳の登場(=古墳時代のはじまり)と密接に関連しているのですが、和歌山市にもこの時期に前方後円墳をはじめとする多数の古墳が密集して築造された地域があります。それが現在の「紀伊風土記の丘」周辺に広がる「岩橋千塚古墳群」です。
 ちなみに、「古墳にコーフン協会」というWebサイトによれば、和歌山県に所在する古墳の数は1486基で全都道府県のうち第21位と決して多い部類には入らないのですが、岩橋千塚古墳群には総数800を超える古墳が確認されており、多様な形式の古墳が狭い地域に密集している貴重な歴史遺産として昭和27年(1952)に国の特別史跡として指定されました。この「特別史跡」は全国でわずか63件しか指定が無く、そのうち「古墳」としては高松塚古墳石舞台古墳キトラ古墳など10件しか指定されていないといえば、その貴重さが判っていただけるでしょうか。
最新全国古墳の数、多い順ランキング!(平成28年度調査) – 古墳にコーフン協会
日本の特別史跡一覧 - Wikipedia

 

 この古墳群の保全と公開を目的として1971年8月に開館したのが和歌山県立の博物館施設「紀伊風土記の丘」です。この施設は、約67haの敷地全体が「博物館」となっており、大日山(141.8m)に連なる丘陵の北斜面一帯に大小約500基の古墳前方後円墳、円墳、方墳など)が点在しています。同館のWebサイトには岩橋千塚古墳群及び紀伊風土記の丘について次のような解説が掲載されています。

特別史跡・岩橋千塚古墳群

 和歌山市の東部に位置する岩橋千塚古墳群は、総数800基超もの古墳を擁し、4世紀末から7世紀にかけて造られた全国有数の群集墳として知られています。
 この古墳群に眠る人々は、文献の記録から豪族「紀氏」と考えられており、彼らが本拠とした紀ノ川下流域は、その河口部「紀伊水門」が渡来文化流入の窓口としての役割を果たし、大和盆地へ通ずるルートの一つとして政治上も重要な役割をもっていたと考えられます
 岩橋千塚古墳群の調査の歴史は長く、明治期の大野雲外による調査は明治44年(1911)にマンロー(Neil Gordon Munro)の著書“PREHISTORIC JAPAN”で広く海外に紹介されました。大正期には「岩橋千塚第一期調査」が行われ、昭和6年(1931)に国史跡、同27年(1952)に特別史跡に指定されました。
 その19年後、昭和46年(1971)に和歌山県紀伊風土記の丘が開園し、保存・活用を目的とした発掘調査と整備が現在まで行われ、古墳群は地域の宝として公開されています。一方で周辺部の古墳が開発の波にさらされた昭和30年代以降、和歌山市教育委員会や大学、地元研究者らによる遺跡保護のための精力的な調査により重要な成果が蓄積されています。

岩橋千塚古墳群の概要

 上記引用文ではこの古墳群の被葬者を豪族「紀氏」としていますが、一般的に「紀氏」には2つの系統があるとされています。いずれもその源流は天道根命(あめの みちねの みこと)を祖とする紀伊国造(きいの くにの みやつこ)にあるものの、一方は紀伊国を拠点として代々日前神宮國懸神宮の祭祀を受け継ぎ、もう一方は大和国平群県を拠点として大和朝廷に仕えました。その(かばね 変遷はあるものの、もともとは 「氏(うじ)」が主に一族の出自を表すのに対し、「姓(かばね)」は朝廷における地位・官職を表していたと考えられる)から、紀伊の紀氏紀直(きのあたい)大和の紀氏朝臣(きのあそん 「紀臣(きのおみ)」とも)と呼んで区別する場合もあります。岩橋千塚古墳群の被葬者とされるのはもちろん紀伊国を拠点とする紀氏、つまり紀直の一族が中心であったことは言うまでもありませんが、2系統に分かれたのちも紀直朝臣との間には交流があったようですから、朝臣の関係者が葬られたこともあったかもしれません。
紀氏とは - コトバンク


 和歌山地方史研究会編「地方史研究の最前線 紀州・和歌山(清文堂 2020)」では、この古墳群の被葬者について次のように記しています。

 この被葬者について論究したのは岸俊男が最初である。
 紀(臣)氏(筆者注:上述の紀朝臣氏をさす)について中央豪族として成長、本拠は紀伊にあり名草・那賀郡にも広く分布、五・六世紀の大和朝廷の朝鮮進出に紀一門の活躍が目覚ましいのは本拠紀州が船材に恵まれ優秀な水軍の拠点であったこと。水軍に長じた紀氏は瀬戸内海、特に四国北岸沿い航路を掌握、その航路沿いには紀臣及び同族の都奴(つぬ)坂本臣などの分布が広くみられるとして具体的に紀氏について論究している。
 和歌山市教育委員会が昭和38年に岩橋千塚古墳群総合学術調査関西大学文学部考古学研究室に委嘱し、4年後に調査成果(考古・文献)が岩橋千塚古墳群総合学術調査報告書『岩橋千塚』 として刊行された。薗田香融は、報告の中で、諸氏族の分布状況を文献から導き出し、古代名草郡における有力豪族は紀直紀臣大伴渡来人集団で中核をなす河南地域を占拠したのは国造集団とその同族で、岩橋千塚を築造した主体が紀伊国造集団と結論付けたのである。
 これらの先行研究によって、岩橋千塚紀氏奥津城(筆者注:おくつき 神道における墓のこと)であるとの認識が定着するに至った。

 

 下記の図は和歌山市教育委員会が作成したパンフレットに掲載されている古墳時代紀の川河口部の地形ですが、これをご覧いただくと、岩橋千塚古墳群のある丘陵地帯とその麓の平地が、紀の川と外洋とを繋ぐ極めて需要な拠点であったということが理解いただけると思います。
文化財パンフレット | 和歌山市の文化財

和歌山市文化財パンフレット 「大谷古墳 大人用」より

 このように、大和政権の海洋進出を支えたのは紀の川の水運と紀氏の海運力だったのですが、やがて都が飛鳥から藤原京平城京へと移転したことにより、外洋への進出ルートも紀の川河口部から難波津(なにわつ 現在の大阪湾)へと変更されます。これによって朝廷内での紀伊国の役割は大幅に低下することになるのですが、こうした経緯について上述の「地方史研究の最前線 紀州・和歌山」では次のように解説しています。

 南大和に政権基盤を持つ大和政権にとって、外洋への門戸である紀の川河口を掌中に持つ紀伊国造は、古代国家の命運を左右するほどの存在であった。それゆえ、天皇家紀伊国造と姻戚関係を結んだのである。そして、大和の有力貴族たちも、その祖先の母系を紀伊国造の女性に求めることを、あえて喜んだのであろう。それでは、これほど初期大和政権において、重要な役割を果たした紀伊国造は、律令制度が整った段階で、なにゆえ一介の郡司に位置づけられるようになってしまったのだろうか。

大和王権の国土統一と紀伊国造
 七世紀後半、わが国に律令制の導入が積極的に計られた。その制度を円滑に運用するために、多くの官僚が任命された。そして、その官僚たちを宮都に集め住まわせる必要に迫られた。そのため、狭隘な飛鳥地域を離れて、持統天皇8年(694)に藤原京に遷都したのである。この時、外洋への門戸を紀の川河口から、大和川の舟運を用いて、難波津(なにわつ)に移動させたのである。しかし、わずか16年後の和銅3年(710)に、平城京へと遷都する。
(中略)
 せっかく遷都した藤原京には大きな欠陥があったのである。外洋への舟運に供すべき大和川は、紀の川に比べて水量が不足し、十分に機能しなかったのである。そのため、さらに北の平城京に遷都し、平城京北方の平城山(ならやま)を超えた地点を流れる木津川から淀川を経て難波津に到る舟運経路を利用しようとしたのである。それほどまでに、宮都と河川交通は密接に関係していたのである。
 藤原京遷都以後、国家的な外洋への拠点を、紀の川河口から難波津に移動させたことによって、紀の川河口の国家的価値は低下し、その地に勢力を誇る紀伊国造の地位も低下せざるを得なかったのである

 それでもなお、現在も日前神宮國懸神宮宮司家として存続している紀伊国造の家系や岩橋千塚古墳群は当時の記憶を今も私たちに伝えてくれているのです。

 次項以降では、もう少し詳しく岩橋千塚古墳について紹介していきます。