「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
前回までは紀の川南岸の河口付近にある「岩橋千塚古墳群(いわせ せんづか こふんぐん)」と、これを管理・保全するとともに研究・公開を行う県立博物館施設「紀伊風土記の丘(きい ふどきの おか)」を紹介しました。
今回は紀の川北岸にある大規模な前方後円墳「車駕之古址古墳(しゃかのこし こふん)」を紹介します。この古墳は、岩橋千塚古墳群にある天王塚古墳や大日山35号墳に匹敵する県内最大級の古墳であるとともに、日本では他に類例のない金製の勾玉(まがたま)が発掘されたことでも知られています。
車駕之古址古墳は和歌山市木ノ本にある古墳で、周辺には釜山古墳や茶臼山古墳などがあり、全体として「木ノ本古墳群」あるいは「釜山古墳群」と呼ばれています。
木ノ本Ⅲ遺跡 | 和歌山市の文化財
現在、この古墳の周辺は「車駕之古址古墳公園」として整備されていますが、現地に設置されている案内板には次のような解説が記されています。
車駕之古址古墳
車駕之古址古墳は、段丘上に築かれた古墳時代中期(5世紀)の前方後円墳です。埋葬された人物は、当時の紀の川北岸を支配していた豪族の首長であると考えられます。
古墳の大きさは全長が86メートル高さ8メートルであり、前方部は輻41メートル長さ35メートル、後円部は直径51メートルで、墳丘は二段に築造されて南側には「造り出し」と呼ばれる方形の祭壇があります。また、古墳の斜面は拳大から人頭大の川原石の葺石で一面に覆われています。さらに、古墳の周囲には濠が掘られていて、濠の外周の堤を含めた古墳の総延長は120メートルあり、県下の最大級の古墳です。このため、和歌山県指定文化財(史跡)として平成6年4月20日に指定されました。
古墳の発掘調査からは、多数の埴輪の破片およびガラス小玉とともに金製勾玉が一個出土しました。金製勾玉は日本では唯一の遺品ですが、朝鮮半島南部の古墳からはいくつか出土例があり、古代の和歌山と朝鮮半島との交流があったことを物語っています。
和歌山市教育委員会
この古墳の周囲は住宅地となっており、以前からここに古墳があることは知られていたものの、詳細な発掘調査等は行われていませんでした。時あたかもバブルの時代に、この地において民間事業者による宅地造成計画が持ち上がりました。事業者からの届け出によってこの計画を知った和歌山市教育委員会が急遽この地で二次にわたる発掘調査を実施することとなりましたが、その過程で我が国唯一の発掘事例となる金の勾玉が発見されたのです。これにより、官民双方から古墳の保全を求める声が相次いだため、当該敷地を和歌山市が買い上げて公有地化することとなり、この古墳は民間の開発計画から守られることとなりました。
こうした経緯について、「車駕之古址古墳 発掘調査概報(和歌山市教育委員会 1993)」では次のように記述しています。民有地における貴重な遺跡の調査・保全のモデルとなるようなケースでしたので、少し詳細に引用します。
2 調査の契機と経過
昭和63(1988)年9月、国土利用計画法第23条第1項に基づく土地売買等届出書の提出により、古墳の所在する土地に対する宅地造成計画があることが判明した。状況の聞き取りをおこなったところ、この時点で当該地の約70%が売買契約済であることがわかった。10月1日付で和歌山市内の一土木事業者から文化財保護法第57条の2第1項に基づく届出が提出された。教育委員会ではこの文書について和歌山県教育委員会へ国への進達依頼をすると同時に事業者と協議をおこない、重要な遺跡であるのでできるならば造成計画を中止してほしい旨を申し入れ、また、もし造成計画を進めるならば事前の発掘調査が必要となり、かつ、それがかなり大規模な調査となる旨を申し伝えた。その後、他の複数の事業者からも造成計画に伴う発掘調査等についての打診があったが、平成元(1989)年1月、そのうちの一社から具体的に造成計画の呈示があった。これを受けて、和歌山県教育庁の意向をはかりつつ、この事業者と種々協議を重ねたが、8月に至って最終的に造成事業を進める意志が確認された。そこで、この事業者に対して文化財保護法第57条の2第1項に基づく届出を求めるとともに、発掘調査事業計画案および経費積算書を呈示した。11月13日、同事業者から保護法第57条の2に基づく届出書が提出され、あわせて和歌山市教育委員会教育長あてに埋蔵文化財発掘調査実施依頼があった。教育委員会では14日付で(財)和歌山市文化体育振興事業団理事長あてに発掘調査事業の実施を依頼し、同事業団から15日付で受託の回答があった。
この発掘調査(第1次調査)は、古墳の実態を把握するための墳丘測量ならびにトレンチ(筆者注:「溝」の意で、発掘調査の初期の手順として一定の幅で地面を掘り下げて埋設物や土層などを確認することを目的とする)による墳丘および埋葬施設の確認を目的とするものとし、12月8日付で(財)和歌山市文化体育振興事業団と土木事業者の間で委託契約が締結された。発掘調査は墳丘上に密生する樹木等を伐採した後、周辺部を含めた墳丘測量をおこない、平成2(1990)年2月からトレンチによる発掘調査を開始した。調査は同年4月まで実施したが、墳丘上の一部に葺石が残っていることが確認されたものの、埋葬施設は確認されなかった。
この調査結果を受けて教育委員会では和歌山県教育庁の意向をはかりつつ、再度、土木事業者と協議をおこなったが、検出された資料だけでは現状での保存をはかることが困難であると判断し、造成計画区域のほぼ全面にわたる発掘調査(第2次調査)を実施することとした。平成2(1990)年8月28日に事業者と(財)和歌山市文化体育振興事業団との間で契約を締結し、9月から平成3(1991)年2月まで実施した。この調査では、葺石や造り出しの存在が確認され、また、堆積層からではあるが金製勾玉が出土した。
第1次・第2次発掘調査はその経費を土木事業者の負担としてきたが、古墳の重要性が高まってきたために、教育委員会では前方部端の確認を目的とした発掘調査費を平成2年度3月補正予算に計上し、平成3(1991)年3月に(財)和歌山市文化体育振興事業団へ委託し、第3次調査として実施した。
このように発掘調査が進展するなかで、古墳に対する評価が高まり、古墳の保存の要望が各方面から提出された。和歌山市文化財保護委員会からも平成2(1990)年7月5日付で古墳の保存を求める要望書が教育長あてに提出され、平成3(1991)年3月18日付で再度教育長および市長あてに提出された。このような動きのなかで、平成3(1991)年6月1日に地元自治会から古墳の保存と整備を求める陳情があり、これに対して市長は基本的に保存をはかる意向を表明した。
これを受けて教育委員会では、ただちに土木事業者に対して古墳の保存と公有化に向けての協議を開始した。公有化については、とりあえず和歌山市土地開発公社による先行取得をはかることとし、同公社との協議を進めつつ、一方で土地鑑定士に土地価格の鑑定を求め、その評価額を基礎として協議に臨んだ。その後、延数10回に及ぶ協議を重ねた結果、平成4(1992)年4月30日に売買の合意に達し、5月19日に和歌山市土地開発公社と土木事業者との間で売買契約が締結された。
(以下略)
上記のとおり、この車駕之古址古墳が開発の手から守られる大きなきっかけとなったのが、発掘調査で発見された金の勾玉でした。長さわずか18mmという小さなものでしたが、現在にも通用するようなデザインで、その細工は非常に細かく大変高度な製作技術が用いられたものと考えられています。この勾玉について、上述の「車駕之古址古墳 発掘調査概報」では次のように記述しています。
金製勾玉は、後円部の推定中心部から南西へ約10m、標高約5.4mの地点で、墳丘斜面堆積土の下層から出土した。この堆積土からは、砂岩や片岩の砕石や小さな埴輪片のほかガラス小玉が比較的多数出土することから、後円部中央の埋葬施設や葺石に関係する土層が開墾され、押し出されて2次的に推積したものと考えられた。長さ18mm、頭部の幅8mm、重さ約1.57gのこの勾玉は、中空につくられており、腹部の真ん中にかすかに接合痕が観察され、2枚の板状の素材を左右から接合したものとみられる。細かな刻みを入れた金線が頭部で交差するように1条、また紐穴の直下には2条が装飾的に貼りつけられている。材質は、金・銀と極微量の銅からなる合金であるが、詳細は17ページの村上隆氏(奈良国立文化財研究所)の報告(筆者注:後段に抜粋を掲載している)を参照されたい。
(中略)
金製勾玉は現在のところ、日本列島では唯一の遺品である。類似資料は、朝鮮半島の慶州の王墓クラスの古墳(皇南大塚、金冠塚、端鳳塚)などから出土しており、腰佩(腰の帯飾)の飾りとして使用される例が多い。しかし、それらは勾玉の腹部があまり湾曲せずに比較的直線的に伸びる形態をとり、長さも5cm前後と長いものである。本例は、長さ18mmと小さいことにもより、首飾りの親玉としての使用の可能性を指摘しておく。いずれにしても、本例は古墳時代中期における紀ノ川河口域の支配者の優位性を示すばかりでなく、当時における朝鮮半島の諸国と畿内政権との密接な関係をも示す重要な遺物である。
(中略)
[追記] 最近、大韓民国慶尚南道に所在する玉田M4号墳(円墳・竪穴式石槨)から金製勾玉が2点出土している。この古墳は伽耶(筆者注:朝鮮半島南部の小国 「加羅」「任那」など)の地域にあり、車駕之古址古墳出土の金製勾玉も伽耶地域との交渉によりもたらされたものである可能性が生まれた。
(中略)
和歌山市車駕之古址古墳出土の金製勾玉の材質と製作技法について
奈良国立文化財研究所 埋蔵文化財センター研究指導部
主任研究官 村上 隆
このたび、車駕之古址古墳出土の金製勾玉を分析し、その製作技法について若干の考察を試みた。 わが国において、出土する勾玉は、ふつう玉製やガラス製がほとんどで、金属製のものは極めて稀である。筆者はこれまで兵庫県下大谷古墳から出土した青銅製の勾玉を分析したが、金製の勾玉ははじめてである。【材質】
分析は、基本的に非破壊的手法による蛍光X線分析法による。遺物全体の分析により、金を主体と し、かなりの量の銀、少量の銅を含むことを確認した。さらに、微小部測定が行える蛍光X線分析装置による非破壊分析で、金が約63~64%程度、銀が約35%~36%前後、残りが微量な銅であることを再確認した。なお、分析型走査電子顕微鏡による非破壊分析においても、ほぼ同様の値を示した。これは、純金をK24 (24金)とする表示法では、約K15.4(15.4金)前後に相当する。
現代の金工では、用途によって金製品の組成を選んでいるが、アクセッサリーなどの装身具は、色や強度、その加工性、さらには耐摩耗性を鑑み、銀あるいは銅で合金化して、概ね14から18金の間の金合金を用いる場合が多い。5世紀中葉の遺品とみられるこの金製勾玉もまさにこの範中に入る。含まれる銀の量からして、合金組成は人為的に調整されたもの、と考えられ、当時すでに経験的に金属の特性に合わせた高度な合金技術が存在していたことを窺わせる。古代における金属工芸技術の水準の高さを示す貴重な資料といえよう
ちなみに、「車駕」は一般的には「しゃが」と読み、天子(中国では皇帝、日本では天皇)が行幸する際に乗る車(乗り物)を指す言葉です。「古址」とは字義通り「古跡・旧跡」の意味ですから、「車駕之古址」とは「天子の旧跡」という程度の意味でしょうか。
国土地理院のWebサイトでは全国各地の昔の航空写真を見ることができますが、ここで見られる1960年代の写真によればたしかに古墳としての姿は保たれていたようですが、長年にわたって農地などとして利用されてきたようで、それほど「高貴な土地」としての扱いは受けていなかったように思われます。