生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

大谷古墳(和歌山市大谷)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前項では日本で唯一の金製勾玉が発掘された「車駕之古址古墳(しゃかのこし こふん)」を紹介しましたが、今回はそこから4kmほど東にある「大谷古墳(おおたにこふん)」を紹介します。この古墳は、東アジアで初めての出土例となった鉄製の「馬冑(ばちゅう うまかぶと)」が完全な姿で発見されたことでも知られています。 

 和歌山市大谷、国道26号線和歌山北バイパス大谷ランプからほど近い丘の上に「大谷古墳」があります。
 上記のGoogleMapの画像をご覧いただけるとよくわかりますが、ここは管理者である和歌山市によって草刈りなどが定期的に行われていて、年間を通じて綺麗な前方後円墳の姿を確認することができる貴重な古墳です。和歌山市教育委員会が制作したパンフレット「和歌山市文化財2 国指定史跡 大谷古墳(3つ折)」では、この古墳について次のように解説されています。

大谷古墳とその時代
 大谷古墳は、和歌山市大谷にあり、紀ノ川下流北岸につくられた前方後円墳です。
 昭和32(1957)年から翌年にかけて、和歌山市教育委員会京都大学考古学研究室に依頼して発掘調査を行いました。
 発掘調査では、後円部の頂上から凝灰岩製の組合式石棺が発見され、その内外から装身具(玉類・耳飾り・帯飾り)、武器・武具(刀剣・甲冑・胡禄(ころく))、馬具(馬冑・馬甲・轡(くつわ)・鞍(くら)・鎧(あぶみ))などの副葬品が出土しました。
 なかでも、馬冑馬甲は、日本では他に1例ずつしかない大変珍しいものです。ほかにも唐草文の馬具や龍文の帯飾りなど、渡来文化の影響を受けた豊富な副葬品が注目されました。
 大谷古墳は、昭和53(1978)年に国の史跡に指定され、また主体部出土遺物は、昭和57(1982)年に一括で国の重要文化財に指定されました。

 

墳丘
 大谷古墳は、紀ノ川の北岸で、和泉山脈の南麓にある前方後円墳で、全長67m、高さ6~10mです。後円部の頂上には、石棺を納めた穴があります。

 

石棺
 石棺は、九州の阿蘇産凝灰岩組合式で、長さ2.9m、幅1.6mです。家の形で、孔のある突起が特徴的です。

 

装身具と農工具
 棺の中からは、身を飾るガラス玉、龍の文様がある帯飾りなどが見つかりました。また20~30歳の人歯が残っていました。棺の外には、鉄製の農具や工具のミニチュアや、滑石(かっせき)製の玉があり、埋葬の儀式で使用したようです。

 

埴輪
 古墳の北東の端には、円筒埴輪を並べ立てていました。また古墳のくびれ部分からも埴輪の破片が見つかっています。

 

馬の飾り
 棺の東には、木箱が置かれ、箱は腐朽してなくなりましたが、中の品物は残っていました。馬の口につけるや、飾り金具がありました。飾り金具は、金銅製で、美しい唐草文様があります。このような豪華な飾りは、当時珍しいものでした。

 

馬の甲冑
 馬用の甲冑(かっちゅう)は、高句麗古墳壁画などで知られていましたが、実物としては東アジア初の発見でした。その後、韓国で20例以上が発見され、中国東北部に源流がある騎兵装備が、朝鮮半島を経て日本に持ち込まれたことが明らかになりました。

 

武器・武具
 棺内には、冑(かぶと)と桂甲(けいこう 小札を連ねたよろい)、刀、剣、鏃(やじり)、胡禄(ころく 矢筒)がありました。棺の西には、馬の甲冑とともに、短甲(たんこう)がありました。棺の北には、矛(ほこ)が置かれていました。多くの武器が見つかったことから、墓の主は武人のようです。

文化財パンフレット | 和歌山市の文化財

大谷古墳出土馬冑(複製) -Wikipediaより

 上記引用文の中に「馬用の甲冑は(略)実物としては東アジア初の発見でした」とあるように、大谷古墳から発見された副葬品は考古学会に大きな影響を与えました。神谷正弘氏は「中国・韓国・日本出土の馬冑と馬甲(「東アジア考古学論叢-日中共同研究論文集」 日本奈良文化財研究所、中国遼寧省文物考古研究所 2006)」において次のように述べています。

 馬冑・馬甲の研究は1957年、和歌山市大谷古墳から馬冑・馬甲一組と華麗な大陸製馬具・装身具が出土したことに始まり、馬冑・馬甲研究の出発点となった。発掘調査と遺物整理は京都大学考古学研究室により行われ、1959年に刊行された『大谷古墳』の報告書は、その後の馬具研究に大きな影響を与え続けている。以後、永年にわたり馬冑・馬甲の出土例はなく、研究の進展はみられなかった。
 韓国釜山市福泉洞古墳群の発掘調査が1980~81年に行われ(釜山大學校博物館1982)、同10号墳から馬冑が出土し、類例としては 2例となった。(略)この時期、韓国各地で盛んに行われた古墳の発掘調査によって馬冑・馬甲・甲冑・ 武具の出土が相次ぐようになり、研究者によって論文が次々発表された。
 1997年に中国でははじめて遼寧省朝陽市郊外の前燕時代に比定される十二台郷碑廠88Ml号墓より、鉄製馬冑・馬甲・馬具・甲冑が出土し(遼寧省文物考古研究所・朝陽市博物館1997)、注目を集めた。ついで1990~2003年に行われた吉林省集安市の高句麗王陵の調査により馬冑・馬甲・甲冑・馬具・装身具が出土した吉林省文物考古研究所・集安市博物館2004)。従来資料の少なかった高旬麗墓出土の第 1級資料が報告されたことで、ようやく中国三燕時代朝鮮三国時代日本古墳時代馬冑・馬甲の資料が出揃い比較研究ができることとなった。
中国・韓国・日本出土の馬冑と馬甲

 

 ちなみに、日本で2例目の発見とされるのが将軍山古墳(埼玉県行田市から出土した馬冑です。実は、この馬冑が実際に掘り出されたのは明治27年(1894)のことだったのですが、当時は破片であったこと、個人所蔵であったことなどから長い間これが馬冑であるとは誰も気づかなかったようです。こうした経緯について、若松良一氏は「〈資料報告〉埼玉将軍山古墳出土の馬冑(「調査研究報告 第4号」埼玉県立さきたま資料館 平成3年3月)」において次のように述べています。

 この馬冑明治27年に、埼玉古墳群中の将軍山古墳横穴式石室が崖崩れで露出した際に、村人が掘り出したものである。発見の年代から見れば、東アジアで最初に出土したことになる。ところが、この遺物は破片資料であることと、長らく個人所有であったことから、馬冑であることが知られずに約1世紀を経過してしまったのである。
 馬冑発見の経緯について簡単にふれておきたい。さきたま資料館では、昭和48年に行田市内の所蔵家から将軍山古墳出土品の一括寄贈を受けた。この中には、桂甲小札や衝角付冑の破片を含んでいたが、細片となり種類不明のものもあった。その後、将軍山古墳周堀の調査成果を盛り込んだ『埼玉古墳群発掘調査報告書』第6集を刊行するにあたって、これらの資料を検討した結果、馬胃の破片のあることが判明した。さらに接合作業を進めたところ、主要部分の復元が可能となり、平成元年秋に開催された特別展示「古代東国の武人たち」を契機に公開され、常設展示を行ってきた。
(以下略)

 

 また、日本で3例目の発見となったのは福岡県古賀市船原古墳(ふなばるこふん)でした。ここでは、平成7年(1995)に農地改良のための造成中石室が発見されたことを契機として断続的に発掘調査が行われていましたが、福岡県による圃場整備計画が具体化したことにより平成22年(2010)度から詳細な発掘調査が行われました。そして、平成25年(2013)3月になって古墳時代の馬具が大量に埋められていた土坑が発見されたことにより、一躍考古学会の注目を集めることとなったのです。
船原古墳の基本情報| 古賀市オフィシャルページ
馬冑| 古賀市オフィシャルページ

 

 

 上記神谷氏の論文にあるように韓国中国でも同様の出土例のある馬冑大谷古墳で発見されたことは、この地域が古くから朝鮮半島と密接に結びついていたことを示す大きな証拠となりました。これについて「日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「大谷古墳」の項には次のような解説があり、以前「八幡神社(安原八幡神社」の項で紹介した、「神功皇后三韓征伐」の際に紀氏の一族である武内宿禰が大きな役割を果たしたとの日本書紀の記述と関係するものではないかとしています。
八幡神社(安原八幡神社)(和歌山市相坂)

大谷古墳
(略)

 馬冑は、日本に類例がなく(筆者注:国内2例目となる将軍山古墳での馬冑発見が公表されたのは本書発行後の1989年のことである)、韓国の釜山市郊外の福泉洞古墳群から同様のものが1点出土しており、朝鮮半島との強いつながりをうかがわせる貴重な資料。これは、和歌山平野本貫の地(筆者注:氏族の発祥の地)と考えられる紀氏が、朝鮮半島で活躍したとする記事が「日本書紀」にみられることと無関係ではないであろう


 大谷古墳が築造されのは、石棺の形式や副葬品から5世紀末から6世紀の初め頃と考えられており、前回紹介した車駕之古址古墳(5世紀の築造とみられる)よりも少し後の時期にあたるようです。そして、これ以後、紀の川北岸では大規模な前方後円墳の築造は行われませんでした。
 これに対し、前に紹介した紀の川南岸岩橋千塚古墳群(いわせ せんづか こふんぐん)において大規模な古墳の築造が活発化するのは6世紀初頭以降と考えられており、どうやらこの頃に紀の川の北岸から南岸へと勢力集団の移行があったのではないかと推測されます。

和歌山市文化財2 国指定史跡 大谷古墳」 より


 これについて、県立紀伊風土記の丘の学芸課長を務められた冨加見泰彦(講演当時は大阪経済大学非常勤講師)は、2019年2月15日に行われた講演「木の国の原風景(なみはや歴史講座第106回 NPO法人国際文化財研究センター主催)」において概ね次のような解説をされており、もともとは紀の川北岸から泉南地域を拠点とする紀氏(紀朝臣がこの地における有力な豪族であったが、5世紀に治水事業に失敗したことによって勢力を失い、これに代わって紀の川南岸を拠点とする紀氏(紀直)が勢力を拡大していった、との見解を示しています。

※以下は下記リンク先にある講演資料(2018年度2月15日(金)第106回)をもとに筆者が再構成したものであり、文責は筆者にあります。
TOPページ|国際文化財研究センター


◯海に生産の基盤を持つ紀伊の海人は、豊かな水産資源を利用し、活発な製塩・漁撈活動を行ってきた。

◯航海術に長け、その活動範囲も広範であった紀伊の海人は、時の権力に掌握されることによって水軍としての役割を担った。

◯『日本書紀』に記される紀氏の活発な対外政策は、航海術に長けた海人の存在なくしてはなしえなかった。

紀氏が強力な水軍を保持し、海の生業をも一手に掌握できたからこそ、経済的基盤として巨大な勢力を保つことが可能となった。


紀氏は、紀の川北岸から泉南地域を拠点とする「朝臣(きのあそん)」と、南岸を拠点とする「紀直(きのあたい)」の2系統に分かれる。

 

朝臣(きのあそん) - 淡輪を拠点とする

 

紀直きのあたい) - 日前宮を司祭する

  • 天道根命を祖とする神別氏族
  • 紀伊国造郡司を輩出する在地の大豪族
  • 岩橋千塚古墳群
  • 日前宮平野の開発灌漑用水の整備
  • 5世紀末から大日山35号墳大谷山22号墳天王塚古墳と大規模な古墳を築造

 

 このように、大谷古墳を築造したのは優れた航海能力を有し、軍事と運輸の両面で大和朝廷と深い関わりのあった紀氏(紀朝臣の一党であったものと考えられます。今は紀の川の流れが変わり、平地には家が立ち並んでいるものの、大谷古墳の上に立ち、後円部の中心から前方部の指し示す方角を見れば、朝鮮半島からはるばる貴重な文物を満載して到着した船団の姿が思い起こされるような気分になってくるではありませんか。

大谷古墳の上から紀の川河口方面を望む