生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

園部円山古墳(和歌山市園部)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回紹介した鳴滝遺跡から700mほど東側に「園部円山古墳(そのべ まるやま こふん)」があります。ここは古墳時代後期(6世紀後半)に築造されたと考えられる古墳で、墳丘の形状は円墳、復元直径25mとこれまで紹介してきた前方後円墳よりも小規模ですが、内部の石室は全長9.55m、玄室長4.5mと大きく、この規模は県内最大の前方後円墳である天王塚古墳wikipediaによれば石室長10m、玄室長4.22m)に匹敵するものであり、県下最大級のものと言えます。 

 園部円山古墳は、園部(そのべ)地区にある地蔵寺という寺院の境内に所在する古墳です。
 かつてここに古墳があることは知られておらず、昭和57年(1982)に地蔵寺が改築のための工事を行ったところ偶然石室が発見されたのだそうです。こうした発見の経緯について、「園部円山古墳調査概要和歌山市教育委員会文化振興課文化財班編著、園部円山古墳保存会(和歌山市園部81 地蔵寺内)発行 1989)」では次のように記述してます。公的報告書としては珍しいドキュメンタリータッチの報告となっていますのでぜひ御覧ください。

調査の契機と経過

 和歌山市園部の山の上で古墳を発見したという電話連絡が和歌山市教育委員会社会教育課に入ったのは、1982(昭和57)年12月22日のことであった。当時、私を含めて文化財係員は管外出張で和歌山を離れていたが、12月24日には現地に赴き現状の確認にあたった。
 関係者の方々から話をうかがうと、古墳の検出された小山のすぐ下にある地蔵寺の本堂庫裡が老朽化したので、裏山を削って建物を改築する計画がたてられた。そこで、まず裏山の削平工事をはじめたところ、12月18日に工事用重機がひとかかえ以上もある大石にあたった。その石材を取り除いたところ、横穴式石室であることがわかったので、その時点で工事を中止した、ということであった。
 その石材が抜かれた穴からはしごを伝って石室内におりてみると、大型の石材を使ったみごとな横穴式石室であった。玄室内はまったく土砂が積っておらず、床面には細かな割り石が敷かれているのがみられたが、羨道は土砂で埋めつくされており、その土砂は玄門部まで斜めに流れ込んでいた。このような状況から、すでに羨道部に濫掘を受けていることが予測されたが、岩橋千塚古墳群の主要な古墳の横穴式石室に匹敵する規模のものであることは驚きであった。
 そこで関係者の方々と協議し、基本的に古墳の保存について強くお願いをするとともに、とりあえず古墳の規模を確認する調査をおこなうこととし、それまでは現状を変更しないようお願いをしたところ、幸いにも了解していただけた。
 新たに検出された遺跡であるので、文化財保護法にもとづく国への届出の処置をおこなうとともに、石室の損傷部分へ応急の処置をほどこし、調査に備えた。また、地元では古墳についての伝承や名称がまったくなかったので、現地の通り名が「鴻ノ巣円山(こうのす まるやま)」であることから、旧村名である園部(そのべ)(園部村。1889(明治22)年六十谷(むそた)村と合併して有功(いさお)村となる。1958(昭和33)年和歌山市に合併。)を冠して「園部丸山(そのべ まるやま)古墳」と名付けた。
和歌山市教育委員会 発行 | 和歌山市の文化財

 現在この古墳には覆いがかけられており、入り口にはが設けられていますが、古墳自体を見学することは可能となっています。また、その柵の間からではありますが、石室の内部も覗くことができるようになっています。この石室について同概報では次のように記しており、冒頭でも述べたように岩橋千塚古墳群の盟主級の古墳に匹敵するものであると評価しています。

 

石室内部

小結
 園部円山古墳は丘陵の先端を利用して築かれており、直径25m程度の円墳と思われる。ほぼ南南西に開口した横穴式石室をもっており、この石室は全長9.55mある。これは、たとえば岩橋千塚古墳群のなかの盟主級の古墳の石室に匹敵する。単純に数値のみを比較すれば、全長において大谷山22号墳将軍塚古墳(後円部)の石室より長く、天王塚古墳より若干短い。石室の構築には紀ノ川下流域では類例の少ない砂岩の大型石材を用いている。にもかかわらず、側壁の持ち送りが強い点や、側壁の石積みのすきまに構造上あまり意味がないと思われる小割石を詰め込んでいる点、さらに玄門部にやや幅の狭い空間をわずかではあるがつくりだしている点など、いわゆる「岩橋型横穴式石室」を意識したところがうかがわれる。ただ、玄室前道基石の存在が「岩橋型横穴式石室」を規定する基本的な要素であるとするならば、これを欠くこの石室は「岩橋型横穴式石室」の直接的な系譜には入らないものかもしれない玄門部に架構された梁状の施設も特異なものであるが、比較的軟弱な石材を用いており構造上意味のあるものとは思われない。

 

 また、古墳の近くには和歌山市教育委員会が設置した説明板があり、次のような内容の解説が記されています。

和歌山市指定文化財
園部円山古墳
            平成26(2014)年和歌山市教育委員会

沿革
昭和57(1982)年12月
地蔵寺の境内整備工事中に古墳の石室を不時発見

昭和58(1983)年度
古墳の規模、形状の確認を目的とした第1次調査を実施

昭和60(1985)年4月
和歌山市指定文化財に指定

昭和63(1988)年度
横穴式石室内の調査を目的とした第2次調査を実施。

 

概要
 園部円山古墳は、鳴滝川の東岸、和泉山脈から南へ派生する尾根の先端に位置します。周辺には鳴滝川を挟んで西側に大谷古墳奥出古墳鳴滝古墳群雨が谷古墳群をはじめとする多くの古墳や 初期須恵器が多数出土した楠見遺跡や 古墳時代の大型倉庫群として著名な鳴滝遺跡など 古墳時代の重要な遺跡があります。
 園部円山古墳は、復元直径25mの円墳で石室は全長9.55mの両袖式横穴式石室(りょうそでしき よこあなしき せきしつ)です。天王塚古墳(岩橋千塚古墳群)をはじめとして紀ノ川下流域の古墳の多くが扁平な緑色片岩を用いた石室であるのに対して、園部円山古墳の石室は砂岩の巨石を用いていることに大きな特長があります。一方で、玄門部にやや幅の狭い空間を作り出していることや玄門部の上部に緑色片岩の板材を梁のように架けること、玄室内から羨道(せんどう)を通って石室外に抜ける排水溝を持つことなど、石室の構造は岩橋千塚古墳群の横穴式石室を意識していることが伺えます。
 中世に石室が再利用されたためか、石室内から出土した副葬品の残りは悪いですが、鳳凰の透かし彫りが施された圭頭太刀(けいとうたち)の柄頭(つかがしら)金銅装(こんどうそう)の刀、華やかな装飾を施した馬具(透かし彫りを施した金銅板を嵌め込んだ杏葉や花型の座金をもつ辻金具など)耳環(じかん)等が出土しており、本来は豪華な副葬品を豊富に伴っていたと考えられます。特に、圭頭太刀の柄頭の透かし彫りと杏葉の透かし彫りは、縁の部分に列点文(れってんもん)が施されるなど共通点が見られます。出土したこれらの副葬品や須恵器から、園部円山古墳は6世紀後半に築造されたと考えられます

 

 上記のとおり、この古墳は6世紀後半に築造されたと考えられているようです。一般に「古墳時代」とは「弥生時代」と「飛鳥時代」との間の時期を指し、概ね3世紀~7世紀にあたるとされていますが、より具体的には推古天皇豊浦宮(現在の奈良県明日香村豊浦付近)で即位した592年が飛鳥時代の始まりとされることから、園部丸山古墳が築造された6世紀後半というのはいわゆる「古墳時代」の終焉が近い時期であったということができるでしょう。

 以前の項で園部円山古墳と同じく紀の川北岸に所在する前方後円墳大谷古墳」を紹介した際に、5世紀後半から6世紀初頭に築造されたとされる大谷古墳(及び晒山10号墳)を最後として紀の川北岸での大規模な前方後円墳の築造は行われなくなったが、それは、この時期に紀の川北岸を拠点とする紀氏(紀朝臣から紀の川南岸を拠点とする紀氏(紀直)へと勢力の移行があったことを示すものであろう、との専門家(冨加見泰彦氏)の見解を紹介しました。
 
 これを踏まえて園部円山古墳の特徴を詳しく見てみると、上述のように岩橋千塚古墳群で主流を占める「岩橋型横穴式石室」の特徴を一部受け継いではいるものの、前方後円墳ではなく円墳であること緑色片岩を用いた石室ではなく砂岩の巨石を用いた石室であること、など重要なポイントで大きな差異があることから、同じく紀の川北岸に所在する車駕之古址古墳や大谷古墳を築いた人々(紀氏)とは異なる系統に属する人々によって築造されたのではないかとの思いが強くなります。