生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

平井津と古代の海上交通(和歌山市平井)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回までは紀の川河口部北岸にある古墳時代の遺跡を紹介してきましたが、今回は、これらの遺跡群が造られた背景として、当時の海上交通の状況と、それを支えた拠点である港(平井津)について紹介していきます。


 以前の項でも何回か紹介していますが、古墳時代紀の川の流れは現在とは随分異なっていて、前項で紹介した楠見遺跡の辺りから大きくカーブして南に向かい、和歌浦附近から海に注いでいたのです。このため、楠見遺跡の附近は上流に向かって川幅が急激に狭くなる位置にあたっていて、物流を考えるとここで喫水の深い大型の外洋船から喫水の浅い小型の川船に積み替える必要があったものと考えられます。

和歌山市文化財2 国指定史跡 大谷古墳」より

文化財パンフレット | 和歌山市の文化財

 平井津(ひらいつ)というのは、平安時代の永承3年(1048)に作成された「紀伊国名草郡郡許院収納米帳並進未勘文」という文書に登場する地名ですが、古墳時代にもこの附近には同様の港があったと考えられており、ここが紀氏(紀朝臣の勢力の裏付けとなった国際交易港としての役割を果たしていたのではないかと考えられているのです。

(公社)和歌山県観光連盟 街道マップ  南海道を歩く
「5. 紀伊国府と古墳群」より抜粋

わかやま観光情報|街道マップ | 和歌山県公式観光サイト

 紀の川河口部における古代の海上交通の状況について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「紀伊(きいみなと)」の項には次のような解説が掲載されており、紀の川の南岸にあったとされる「紀伊」に加えて「吉田津」「平井津」という港があったことが記されています。

紀伊(きいみなと)
 (古代~中世)奈良期~戦国期に見える湊名。名草(なぐさ)郡あるいは海部(あま)郡のうち。紀ノ川の流路が時代によって変わっているため、当湊の位置も変動したと考えられるが、当地周辺では単に水門・湊といい、他国から見た場合には、紀伊紀伊水門紀水門木水門と書かれている。
(中略)
 5世紀後半以降、当地は大和政権の朝鮮出兵のための軍事基地の働きをし、当地から多数の豪族や兵士たちが朝鮮半島に渡ったものと推定される。同時に、紀伊の水軍の根拠地でもあり、紀ノ川から海へとつながる河川交通と海上交通の接点として、国内統一に果たした役割は多大で、大陸文化との関係も深かった。
(略)
 なお当時の紀ノ川河口の湊としては、紀伊のほかに永承3年の紀伊国名草郡郡許院収納米帳並進未勘文九条家延喜式裏文書/和歌山市史4)に「吉田津」「平井津」が見える

 

 また、下記の個人ブログでは当時の紀伊国の港について鈴木正信氏の「日本古代史族系譜の基礎的研究東京堂出版 2012)」を引用して次のように記しており、吉田津紀伊紀伊水門)そのものであり、日前宮にほど近い場所であったこの港が紀の川南岸を拠点とする紀氏(紀直)が率いる船団の活動拠点だったのであろうとの見解を紹介しています。

鈴木論文は、以下のようにいう。
紀直氏が本拠を構える紀ノ川河口地域には複数の港津が置かれて」おり、「たとえば「(筆者注:日本書紀を指す)神功皇后摂政元年二月条には、「皇后熊王起師以待之、命武内宿禰皇子、横出南海泊于紀伊水門」とあり、「」応神九年四月条にも、「武内宿禰、独大悲之、窃避筑紫浮海、以従南海廻之、泊於紀水門」とある」
「これらの記事によれば、紀ノ川河口地域紀伊水門(紀水門)が存在したことが分か」り、「なお、いずれの記事にも「南海」と見えることからすれば、「四国鳴門海峡紀淡海峡紀伊水門」という航路が存在したことがうかがえるが、このことは瀬戸内海を航行するような大型の船が停泊できるほど、紀伊水門の規模が大きかったことを示している
 「この紀伊水門の位置について「」にはそれ以上の記述がないが、永承四年(一〇四九)八月二十。日「紀伊国名草郡郡許院収納米帳簿進未勘文」には、「吉田津(現在の和歌山市吉田)と「平井津(現在の和歌山市平井)が見えており、この付近に比定されて」おり、「特に吉田津の遺称地は、日前宮の鎮座地から北西約1.0kmのところに位置していることからすれば、紀伊水門は紀直氏が率いる船団の活動拠点であったと推測される」
スサノヲと紀氏について(6) | 気まぐれな梟

 

 上記引用文の見解を踏まえ、「吉田津」が「紀伊水門」であり、紀の川南岸を拠点とする紀氏(紀直)の拠点であったとすれば、それと対比してその名が挙げられている「平井津」というのは明らかに紀の川北岸を拠点とする紀氏(紀朝臣の拠点であったと考えるのが自然なところでしょう(下記で引用している丹野氏の発表資料では「紀伊水門」を「紀の川河口部の港津群の総称」としており、もしかすると「吉田津」「平井津」を含めた紀の川河口部の港を全てひっくるめて「紀伊水門」と呼んだのかもしれません)
 そうであれば、平井津を拠点として勢力を伸ばした朝臣の一族は、楠見遺跡須恵器を生産し、鳴滝遺跡の巨大倉庫群を活用して朝鮮半島大和朝廷との貿易で莫大な利益を上げ、車駕之古址古墳大谷古墳を築いてその勢力を誇示したものの、何らかの理由(大谷古墳の項で紹介した冨加見泰彦氏の説によれば治水事業の失敗)により徐々に勢力を失い、南岸を拠点とする紀直一族にやがてその役割を取って代わられた(紀直もまた難波津に国際交易港の地位を奪われて後に衰退する)、という栄枯盛衰の物語が容易に想像できるではありませんか。

 

 この時代の朝臣紀直一族の活動について、令和2年2月1日に開催されたシンポジウム「南海道の原風景(主催:公益財団法人和歌山県文化財センター)」の「発表資料集」において、丹野拓和歌山県文化財センター)は次のように記しています。

寺社からみた南海道 -4つの地域の原風景を探る-

(略)
2.南海道の原風景
紀伊地域 -紀氏を中心とする勢力の古墳と神社のある風景-
 紀の川下流域がいわゆる「」地域で、古墳時代中期には「原紀氏集団」がおり、その後、畿内との繋がりの強い紀の川北岸勢力紀臣に、南岸勢力紀直(後の紀伊国造家)に発展した。紀の川下流域には紀水門紀伊湊)と総称される港津群があり、両紀氏集団を始め大伴連系渡来系諸氏族等が周辺に展開していた。紀地域の中心部には後に名草郡が設置され、沿岸部には海部郡紀の川中流域には那賀郡が設定された。
 後の紀伊国造となる紀直の勢力圏には、鳴神遺跡群と総称される集落遺跡が展開し、多数の初期須恵器や韓式系土器が出土している。鳴神音浦遺跡から分岐する水路網と倉庫群の背後の丘陵地には岩橋千塚古墳群が築造され、麓には日前宮・国懸宮が奉祀されている。
(略)
 一方の、紀臣の勢力圏とみられる紀の川北岸には木ノ本古墳群大谷古墳があり、5世紀代に朝鮮半島や九州との繋がりがあった集団として広く知られている。木ノ本古墳群の周辺には漁撈や製塩を始めとする生産・物流拠点集落である西庄遺跡があり、「大安寺資財帳」によると木ノ本古墳群西庄遺跡の間に(筆者注:まき、牧場のこと 古墳時代には主に馬が飼われていた)があるが、その始まりは木ノ本古墳群の形成時期に遡るのではないかと考えている。馬冑の出土で知られる大谷古墳の麓には初期須恵器が多量に出土した楠見遺跡があり、周辺では古代の製塩土器も多量に出土するので、その周辺に文献で知られる平井津が存在したのだろう。背後の丘陵地には鳴滝倉庫群があり、各種産業の生産地を抱えた交通・物流拠点であったことが分かる。紀の川北岸地域もまた、船と馬を確保した水路・陸路の結節点となる地であり、古墳時代中期の大和と朝鮮半島を繋ぐ国際貿易港であったといえるだろう。
シンポジウム要旨集等|公益財団法人 和歌山県文化財センター

 

 また、当時の紀氏が勢力圏としていた瀬戸内海の海上交通について、西川吉光氏は「海民の日本史3 大和王権の生成と海洋力(「国際地域学研究 第21号」東洋大学国際学部 2018)」において次のように記しています。

海民の日本史3 大和王権の生成と海洋力
(略)
●瀬戸内海の制海権を握る水軍氏族
(略)
 古代における瀬戸内海航路は、大別して二つのルートがあった。一つは四国側を讃岐沖から備後灘を通り来島瀬戸を経て西進するものもう一つは吉備を経由して中国地方沿岸を進むもので、両者は周防の熊毛郡沖で合したとされる。この南北二つのルートを掌握していたのが紀氏吉備氏だった。四国側が紀氏中国地方のルートを吉備氏が扼していた。両氏とも海民との関わりは古く、領地内に所在する多くの海民を統率し、水軍を率いる軍事指導者として活躍した有力氏族であった。
 このうち紀氏は、記紀(筆者注:古事記日本書紀では天道根命(あめのみちねのみこと)を祖とする神別氏族で、宇遅彦命の時に紀国造(紀直)に任じられたとされる。また葛城氏蘇我氏巨勢氏平群などの有力豪族と同様に武内宿禰を祖に持つ紀臣は、大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)が本拠であったが、紀ノ川流域を中心とする紀伊半島本貫地(筆者注:ほんがんち 氏族の発祥の地)となった。大和川と並んで、瀬戸内海から紀ノ川を溯って大和に入るルートも大和と朝鮮を結ぶ重要な幹線で、紀ノ川の河口を押さえる紀氏の存在は無視できないものがあった。また紀伊の国とは木の国の意で、クス(筆者注:当時は船の材料としてよく用いられたが、大木を得るのは困難であった)が産する造船の適地でもあった。
 紀氏坂本臣等その同族は本貫地の紀州から瀬戸内海の四国沿岸に広く拡大分布し、それら地域の海人集団をその支配下に治めていた。水軍や造船と深い関わりを持っていた紀氏は4世紀半ば以降、大和王権朝鮮半島に積極的に進出するようになったことに伴い、その存在感を高めていった。船の建造・調達や朝鮮半島に大量の兵員・物資を送り込むためには、海人や造船の地を掌握していた紀氏の協力が不可欠であったからだ。紀氏一族が水軍の主力を構成し、王権による朝鮮への派兵や半島の経営に関わっていたことは、例えば、紀角宿禰百済に遣わされ(仁徳41年紀)、新羅征討の大将軍に紀小弓宿禰が任じられ(雄略9年)、新羅任那宮家を討ち滅ぼしたため、その回復に大将軍紀男麻呂宿禰が派遣された(欽明23年)記述などから読み取ることができる。
東洋大学学術情報リポジトリ

 

 現在では紀の川の流れも変わってしまい、この地が大和朝廷の命運を握る国際港であったのだと言われても俄には信じることもできませんが、それでもこの地にこのような歴史があったということはしっかりと胸に留めておきたいものです。

平井津推定地附近(打手川)