生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

隅田八幡神社所蔵「人物画像鏡」(橋本市隅田)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

  前回は橋本市古佐田にある和歌山県最大の円墳「陵山(みささぎやま)古墳」を紹介しましたが、今回は同古墳の築造とほぼ同じ時期に製作されたと見られている隅田(すだ)八幡神社所蔵の人物画像鏡を紹介します。
 この鏡の背部には漢字48字からなる文章が刻まれており、これが我が国の古代史上極めて重要な資料であることから、国宝に指定されています(国宝としての指定名称は「人物画象鏡」となっており「象」の字が異なる点に注意が必要です)


 隅田八幡神社橋本市隅田町垂井にある神社で、他の八幡神社と同様に誉田別命(ほむたわけの みこと 応神天皇足仲彦尊(たらし なかつひこの みこと 仲哀天皇息長足姫命(おきなが たらしひめの みこと 神功皇后主祭神としています。以前、八幡神社(安原八幡神社の項において、同社は、神功皇后朝鮮半島への出兵からの帰途に頓宮(とんぐう 仮の宮殿)を設けて一時滞在した場所に造営されたものであると紹介しましたが、この隅田八幡神社にも同様の由緒があります。これについて、和歌山県神社庁のWebサイトでは次のように解説しています。
八幡神社(安原八幡神社)(和歌山市相坂) 

隅田八幡神社
 神功皇后が外征後、筑前国から紀伊衣奈浦日高郡由良町を経て大和の都に御還幸の途次、この地に滞留なさせ給いし旧跡にして、貞観元(859)年に八幡社を勧請したのが創祀であるといわれている。
和歌山県神社庁-隅田八幡神社 すだはちまんじんじゃ-

 

 この人物画像鏡は、あまりにも貴重な国宝であるために現在は東京国立博物館に寄託されており隅田八幡神社にはありませんが、同社の境内には大きなレプリカを模した記念碑が建立されており、次のような内容の解説版が設置されています。

国宝 人物画像鏡 
        大正5年5月24日国指定
       昭和26年6月9日国宝指定

 隅田八幡神社に伝わる青銅鏡。直径19.8センチメートル、重さ1434グラム。背面内区には人物や騎馬像をあらわした画像文が描かれ、外区にはこの鏡の特徴である48文字からなる銘文が鋳出されている。この銘文の解釈については諸説があるが、おおむね次のように読むことができる。

 

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

 

 銘文冒頭の癸未(みずのと ひつじ)は十干十二支を組み合わせて年代をあらわしたもので、60年に1回巡る紀年法である。銘文中漢字の音をかりて表記した固有名詞をどのように比定するかで年代が異なり、西暦383年、443年、503年のいずれかにあたるとされるのが一般的である。銘文解釈の一例をあげると、
癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいましし時、斯麻が長寿を念じて開中費直穢人今州利二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る。
と解釈することができる。ただし、文字の解読や銘文中の人物をだれに比定するか異論が多く、今のところ定説といえるものは出ていない。

 考古学的には、この鏡は舶載(はくさい 筆者注:船に載せて外国から運んできたもの)の画像鏡を手本として製作されたものと考えられている。この原型とされる中国鏡と比べると、内区の画像は逆まわりに配され、乳による区画も不統一で、人物像も少なくなっている。図像の構図が左右逆転し、逆まわりに配されるのは、手本となる鏡をそのまま鋳型にひき写す仿製鏡(ぼうせいきょう 筆者注:中国製の鏡を模倣して日本で製作した鏡)によく見られる特色である。原型とされる中国鏡は大阪府八尾市の郡川古墳等で出土しており、それらの古墳が西暦400年代後半から500年前後とみられることから癸未年は、443年または503年と推定されている。
 この鏡がいつ頃隅田八幡神社の所蔵するところとなったかは詳かでない。江戸時代後期に編さんされた「紀伊風土記」および「紀伊国名所図会」にはこの鏡に関する記述があり、相当以前から神宝として隅田八幡神社に伝えられていたことがうかがえる。いずれにしても、日本最古の金石文の一つとして貴重な資料である。
   平成六年三月
          橋本市教育委員会
          隅田八幡神社

 

 隅田八幡神社では古くから神宝としてこの鏡を所蔵していたようですが、その入手経路はよくわかっていません。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「隅田八幡宮」の項には次のような記述があり、社伝によれば神功皇后朝鮮半島から持ち帰った、あるいは武庫山から奉納された、との説が伝えられているようです。
※詳細不明。兵庫県西宮市にある「神祝寺(かぶとやま かんのうじ)」には、神功皇后が国家平安守護のためこの地に武具を埋めたとの伝承があり、これにちなんで同寺の山号を「武庫(武具を納めた庫(くら))」あるいは「甲山(かぶとやま)」としたと伝えられている。続風土記にいう「武庫山」はこの伝承の地を指すものか。

国立国会図書館デジタルコレクション より
紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻. 三編(二之巻)

神宝古鏡一枚あり
千数百年を経し物と見ゆ
背面に文字四十字余あり
朝鮮の文字も交れり
文義通しがたし
寺家の説は皇后三韓にて得給う鏡なりといい伝う
或は武庫山より奉納せしなりとぞい


 この鏡が国宝としての価値を有しているのは、何よりもその背面に刻まれた48文字からなる文章です。上記の橋本市教育委員会説明板にあるとおり、この文章はその読み方によって様々な解釈が可能となるため、これまで多くの研究者が独自の研究成果を公表していますが、いずれも「定説」となるまでには至らないというのが現状のようです。
 とはいえ、この文字の中にある「大王」という文字が天皇(どの天皇に該当するかは諸説あり)を指したものであること、「意柴沙加宮」は万葉仮名のように漢字の読みを用いて日本の地名を表したものであり、大和の忍坂宮(おしさかのみや)を指すこと、「斯麻」は百済武寧王を指す武寧王の諱(いみな)が斯麻)こと、などについては多くの研究者が支持するところとなっているようです。
 ちなみに、この文字の解釈について、Wikipediaには次のような解説が掲載されています。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

(大意)
癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人漢人今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。

 

銘文の解釈
「大王」の「大」、「男弟王」の「男」など、必ずしも釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても異説が多い。また「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説があるが、西暦443年とする説、503年とする説が有力である。いずれも、斯麻(しま)開中費直かわちのあたい、河内直、『百済本記』云、加不至(カフチ))今州利はそれぞれ人名と解釈されている。

 

443年説

  • 倭王が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は、允恭天皇を指すものと解釈する。また、意柴沙加宮(おしさかのみや)は皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ、雄略天皇母)の宮処となる。この場合、男弟王は誰であるまだ分かっていない。
  • 日十」が「」の簡体字であることからこれを「日下」と読み、日下大王、即ち大草香皇子(454年没)のことではないかとの説もある(森浩一)
  • ちなみに古事記上宮記によれば忍坂大中姫意富富杼王(おおほどの おおきみ)という兄弟がいるとされる。

503年説

  • 日十大王」を仁賢天皇億計(オケ)稲荷山古墳出土鉄剣から当時の表記と考えられる意居意支(オケ)の略字とする説。
  • に「斯麻」を持つ百済武寧王(在位:502年-523年)とする解釈が有力である。百済は当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出しており、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する。
  • 男弟王(おおと、継体天皇と解釈する。しかし、『日本書紀』に見える「磐余玉穂宮(526年遷宮の前に「忍坂宮」のある大和国に入っていたこととなり記述と矛盾し、即位後19年間大和に入れなかったとする説は成り立たなくなる。
  • 継体天皇は「乎富等袁本杼(ヲホド)」であり、ハ行転呼以前の「男弟(ヲオト/ヲオド)」とは一致しない

隅田八幡神社人物画像鏡 - Wikipedia

 

 この文字の解釈についてあまり深入りすると、真剣な学術論争に嘴を突っ込むことになりかねませんので本稿では参考資料を提示するに止めておきますが、興味のある方は下記リンク先の論文や記事などを深掘りしていくと非常に面白いと思います。

 

 また、隅田八幡神社の人物画像鏡はしばしば「日本最古の金石文(金属や石に刻印された文章)」という表現をされますが、これについては定義の仕方によりさまざまな意見があります。小学館の「日本大百科全書(ニッポニカ)」の「金石文」の項には次のような解説が掲載されており、これに従えば「隅田八幡神社の人物画像鏡は、日本でつくられた最古の金石文」と表現するのが適当なようです。

日本
 日本の金石文は、金造品と石造品とがもっとも多く、木製・布製のほか骨角製品にもその例がみられる。
 もっとも古い金石文として著名なのが福岡県志賀島(しかのしま)出土の金印であり、「漢委奴国王」とたがね彫りされている。この銘は、後漢光武帝中元2年(57)に授けたとある『後漢書』の記事と一致するが、読み方に異説があり、倭(わ)の奴(な)国王に金印が授けられたとは簡単に考えられまい。
 このほかに伝来品として、奈良県天理市東大寺山古墳出土の太刀(たち)に、後漢の「中平」(184~189)の年号がみられ、石上いそのかみ)神宮所蔵の七支刀しちしとう)に「四年」「百済」「倭王」の語を含む表裏61字の銘が金象眼(ぞうがん)されているが、当時の国際関係を物語る重要な史料となっている。
 日本でつくられた最古の金石文は、和歌山県橋本市隅田八幡(すだはちまん)に伝わる画像鏡の銘である。「癸未(みずのとひつじ)の年、八月日は十(とお)か、大王(おおきみ)の年」で始まる銘文は、一説によると応神(おうじん)天皇の世に比定されており、『日本書紀』の記述と符合すると考えられている。
 熊本県和水(なごみ)町の江田船山古墳から出土した鉄刀には「治天下」「歯大王」の語が刻まれているところから、反正(はんぜい)天皇のときにつくられたと理解されている。
 埼玉県行田(ぎょうだ)市埼玉(さきたま)稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣は、1978年(昭和53)に象眼銘115字の存在が知られ、大きな話題を提供した。「辛亥(しんがい)年七月中記」「獲加多支(わかたける(ろ))大王」の語などをめぐっていまだに論議をよんでおり、江田船山古墳の大刀銘とともに、重要な同時代史料であり、その史料としての取扱いは十分に慎重を期すべきであろう。
[武者 章]
金石文とは - コトバンク

 

 このように、現在もその金石文の解釈が定まっていない隅田八幡神社の人物画像鏡ですが、その出自についてもよく判っていません。

 これについて、かつて三一書房の編集長を務めたこともある林順治氏は、「隅田八幡鏡 日本国家の起源をもとめて彩流社 2009)」において、郷土史家の生地(おいじ)亀三郎氏の著作を引いて橋本市妻地区に伝わる「人物画像鏡は天保5年(1834)に妻地区の古墳から出土したもので、一時は米搗臼(こめつきうす)の重りとして使われていたものを、後に隅田八幡神社に奉納した」との口頭伝承を紹介・検証しているほか、同じくジャーナリスト・郷土史家の日根輝己氏の著作にある「人物画像鏡は陵山古墳に埋葬されていた」とする説についても検証しています。
隅田八幡鏡: 日本国家の起源をもとめて - 林 順治 - Google ブックス

 

 よく知られてはいるものの、実は不明なことの非常に多いこの人物画像鏡ですが、この鏡が5世紀末から6世紀はじめ頃に日本国内で製造されたことには概ね争いがないようです。
 そしてこの時期は、これまでにも述べてきたように、まさに紀の川河口部において朝臣氏と紀直氏が大和~瀬戸内海~朝鮮半島の交易を背景に大きな勢力を有していた時期であり、上流部においてもこれに匹敵する大規模古墳を築造するだけの力を有する豪族がこの地を支配していた時期と一致するのです。
 そう考えると、この鏡は大和朝廷に関わる何らかの出来事に大きな貢献を果たしたこの地の豪族がその恩賞として朝廷から賜わったもの、との推測が成り立つように思われます。真偽のほどはともかくとして、この鏡がこの地に伝わっていたということは、まさにその当時、この地が大和朝廷に対して大きな影響力を有していたことの証左と言えるのではないでしょうか。